近頃、真田幸村は静かに不満を募らせていた。
どんな天気のどんな時間を選んでも、彼の息子がにべったり張り付いているせいである。



例えばある日の昼下がりはこうだった。

執務に目処をつけ、一服しようとの部屋を訪ねたとき。襖を開いた先では大助とが一緒に昼寝をしていた。大助がどうにもむずがって泣き止まないというので、困りきった侍女がに助けを求めたらしい。
誰があやしても泣き止まない息子だが、の腕に揺すられているときだけは狙いすましたように大人しくしている。 母の匂いが分かるのだと周囲は言うが、ならば父のことも分からないものだろうかと、抱え上げるたびに泣いて暴れて嫌がられる幸村は思うのである。

なるべく物音を立てないよう配慮しながら足を踏み入れ、寝転がる二人の傍に腰を下ろす。大助の身体にはの羽織が掛けられているが、は薄い着物のままだった。大助だけ寝かしつけるつもりが、うっかり自分も眠ってしまったのだろう。
幸村は自分の羽織をに掛けてやった。そのまま指先を髪に絡めてちょっかいを掛けてみるが、はすやすやと起きる気配がない。代わりに目覚めてしまったのは大助である。
ふにゃふにゃ言いながら目覚めた息子は、ぎくりと肩を震わせた父親に気付くとやはりふにゃふにゃ泣き始める。 これはまずいと慌てた幸村は大助を抱えてなんとか泣き止ませようとするが上手くいかない。泣きたいのはこちらも同じだ。

そうこうしている内に、大助の泣き声に気付いたが起き上がる。
幸村から大助を受け取るその動作は眠そうな目をしていても俊敏で、何度も同じことを経験しているのだと分かるほどだった。 瞼を下ろし、自身の胸に顔を埋めている息子の頭頂部に口元を寄せる。大助は上下に左右にゆっくりと揺すられ、ゆるりと優しく背を叩かれる。 「良い子だ、良い子だ」とでも言い聞かせているのだろうか、の口元はわずかに動いているような気がするが、幸村には何も聞こえない。

大助がようやく再びの眠りに落ちたあと、は息子を別室に連れて行った。の様子はどう見てもしっかりと覚醒している風ではなかったが、もう習慣になっているらしい。 その一連の光景を、幸村は成す術なく静観しているしかなかった。 そして、廊下を歩いている内にようやくすっきり覚めたのか、戻ってきたはこう言った。「あれ。幸村、居たの?」



また、ある日の夕暮れ前はこうだった。

侍女が心配そうにやって来て、と大助の姿が見えないのだと言った。最後に見かけたのは八つ時であるらしい。 その八つ時というのは幸村が城下で贔屓にしている店からいくつか甘味を見繕って土産にした時のことなので、当然彼も知っている。 なにせ最後に食べようと温存していた羊羹を大助の手でぐちゃぐちゃに潰されてしまったことが未だに尾を引いているくらいだ。

と大助の護衛についている忍からは何の報告も無いので、何か良くないことに巻き込まれている、ということは無いだろう。 城内のどこかに居るには居るとしても、夕餉の頃合を前に姿を見せないのは無用な不安を煽りかねない。
すでに泣きそうな侍女を宥めて、幸村は鍛錬用の槍を置いた。

己の影に尋ねてみたならば、二人は庭の片隅に居るとあっさり答えが返ってきた。 拍子抜けしながらも教えられた場所へ向かって行くと、ほとんど人の出入りの無い蔵の近くに出た。 伸びきった枝やその間に張り巡らされている蜘蛛の巣を掻き分けて、足場のぬかるみや小さい花を踏まないように所々跳びながら進む。
そうするとやがて鈍い色合いだった景色の中に鮮やかな刺繍の色が見えてくる。が好んで着ている小袖の色だ。「」と声を掛ければ、中腰のまま妻はにこやかに振りむいた。姿が見えないと心配されかけていることは全く知らないようだ。

が大助と散歩をしていて(とは言っても大助はに抱えられたままの散歩だが)、足元に居たとかげを追いかける内にこんな場所まで来ていたらしい。 さて、では大助は何をしているのかと思えば、なにやら熱心に穴を掘っている。 土の上にべったり座り、指先どころか袖も足袋も泥まみれである。 大助の小さな手が忙しなく動いて黒茶色の土を掘り出す。腰を屈めてみればたくさんの泥団子がの周りに並べられていた。
もうすぐ夕餉の支度が整うのだと幸村が告げても、大助は一向に聞き入れる気配がない。先ほどからがいくら戻ろうと呼びかけても同じらしい。

幸村はそのまま連れ帰るつもりで息子を持ち上げたが、案の定、大助は戻らないと主張するように涙を浮かべながら足をばたつかせる。 つま先に付着していた泥が跳ねて、幸村の着物や顔にまで掛かった始末だ。
仕舞いには、大助の気が済むまで付き合うので夕餉は先に食べていてくれと言い出した。 幸村は渋ったが、泥まみれの着物を着替える必要があるだろうと諭されては戻るしかない。

戻ってからは侍女たちに事情を説明し、着替えをし、その間に二人が戻ってくるのを待ったが、現れない。 おまけに、が後で良いと言ったという話を聞いたのだろうか、厨からは一膳分しか夕餉が運ばれて来なかった。 仕方が無いので、幸村はその日、ひとりで食事を取った。



極めつけは先日の夜である。

幸村の政務処理が忙しかったり大助が中々寝付かなかったり、なんだかんだと過ごしていたせいで幾日振りかの同衾だったのだ。 灯りを吹き消し、を傍に呼ぶ。額がくっつく程に顔を寄せての柔らかい唇を啄んだ。

髪から肌から、いつもの優しく甘い香りが漂ってくる。
これほどに愛らしいひとが他に居るだろうかと誇らしくなり嬉しくなり、もうこのまま離れたくないとさえ思いながらゆっくりと褥に倒れこんでゆく、まさにそのとき。
幸村の耳には確かに、佐助の困ったような声が聞こえたのである。

寝所からそう離れてはいない廊下の隅。「こっち来ちゃだめだって」と懇願するような忍の声。まさかと思い、が不審がるのも構わず耳を澄ませば、佐助の気配と共にあるのは聞き覚えのあるぐずついた声。 今夜は珍しく素直に眠りに落ちたはずの我が子である。
どうやら眠りに入るまでは良かったが、今になって目覚めてしまったらしい。隣にの姿がないので探しているのだろう。どうやって襖を開けたのか甚だ不思議ではあるが、幼子の行動は得てして突拍子も無いものだ。

やがて、如何な真田忍隊の長といえども説得に失敗したらしく、宵闇に響く泣き声が聞こえてきた。さすがにこれにはも気付き、驚いたように身体を跳ね起こした。行くべきか、佐助に任せるべきか。言葉は使わず、視線だけをさっと交差させた。
はたっぷり躊躇ったあと、「ちょっとだけ、ごめんなさい」と小さく呟いて幸村の腕の中からするりと抜けて行った。 もう一度寝かしつけたら戻ってくると言うが、恐らくそれは朝まで断続的に続くだろうことが幸村には分かりきっていた。

音を立てずに襖が閉まる。の気配が遠ざかっていく。溜息を吐いて、幸村は頭から褥に倒れ込んだ。残り香を胸一杯に吸い込む他に、何もしたくない。









そんなこんなで真田幸村はついに我慢の限界を迎え、「大助と自分とどちらが優先か」と妻に直談判することにした。 馬鹿げた問であることは十分に承知である。が幸村なんてどうでもいいと思っているはずがない、ということも分かっている。 それでも聞かずには居られない気がするのだ。


決意の変わらぬうちにと勇み足で廊下を踏む。みしみしと重い音が耳にまとわりつくのを振り払い、一直線にの部屋へ向かった。今日は大助の泣き声は聞こえない。どうせまたの膝で甘やかされているのだろう。

「入るぞ」と粗雑に声を掛けて、もはや通い慣れたる部屋の襖を開く。
予期した通り、そこにはの周囲を這いまわる大助の姿があった。それを横目でちらっと見遣り、幸村はの前に進み出る。なんと微笑ましい光景かと思ってしまう己を叱咤し、断固とした調子で口を開いた。



、話が―」

「あら幸村さま、ちょうど良いところにいらしてくださいました」



しかしは何も聞かなかったように幸村を遮った。
気を遣った侍女が席を外そうとするのを視線で留め、は大助をひょいと抱く。そしてそのまま、幸村の胸に押し付けたのだった。



「直しに出していた櫛が仕上がったそうですので、引き取りに参ろうとしていたところなのです。
 大助、とと様がいらしてくださいましたよ。お前と遊んでくださるって。良かったわね」

、俺は…!」

「覚えておられますか、幸村さまが先の縁日の折にくださった櫛にござります。
 とても大切にしていたのに大助が折ってしまって、もうこれ以上一日も待ちきれないのです」



にこにこしているは有無を言わせない様子で大助を渡してくる。どうすることも出来ずに受け取れば、腕にずしりとした重さを感じた。 大きくなったものだ。とはいえ、幸村が抱えられないほどにはまだまだ足りないが。

突然のことに動揺を隠せないでいる幸村と大助に構わず、は侍女を促して「それでは行って参ります」と軽やかな足取りで出て行った。まるでつむじ風である。
幸村は大助を畳に下ろし、自身も足を組んで座った。

恐らく、わざとなのだろう。
父と子の折り合いがあまり良くないことにも気付いていて、こうして二人だけになる状況など企てた。さて誰の入れ知恵か知らないが、 侍女か生家の母か、はたまた信玄か佐助か。しかし黒幕が誰であれ幸村がいま息子と二人きりであることは変わらない。



「……そなた分かっておるのか、大助。
 俺とお前とで留守居を任されたのだぞ。ただ二人の小隊ではあるが、長は俺だ」



自由に動きまわる大助を捕まえ、自身の前に座らせた。幸村は真剣な口調で言い聞かせるが、大助に伝わっているかどうかは未知数である。 はどれくらいで戻ってくるだろうか。それまでに大助が泣き始めたら幸村は一体どうすれば良いのだろう?

自分のことで父が頭を抱えているとは露知らず、大助はまたひとり遊びを始めた。畳の目をほじくり、の打掛に絡まり、障子紙に噛みついてみる。そうして、ついにはの化粧道具の中から紅の容器を取り出してひっくり返したとき、幸村の「やめぬか!」という声に止められた。



「ば、ばかもの紅まみれではないか!動くな大助、動くな!
 畳にお前の手形が付いておろう!いかん触るな、その打掛を汚さばの怒りを買うぞ!」



幸村はたちまち大助の周囲にあるものを遠ざけた。べたべたと触っていたせいで、小さな手は紅で真っ赤になっている。 既に形が残ってしまった畳は仕方ないとして、なんとしても被害の拡大は防がなければならない。 けれども、慌てふためく幸村の横では大助が「うぇ、」と小さな嗚咽と共にべそをかき始めていた。 叱られたせいか、それとも幸村の大きな声に驚いたのか。大助の手に届かない場所へ小物を追い遣っていた幸村は思わず手を止めた。

「泣くな」と言っても「すまぬ」と言っても幼子はちっとも聞きやしない。おまけに洟を垂らしながら、一度は引き離したの打掛の方へ再び這って行こうとするのだから堪らない。
これでは埒が明かないと悟った幸村は、ままよとばかりに大助を掴んで部屋を飛び出した。すぐ目の前の縁側に腰を下ろし、 暴れるならここで暴れるが良いと言ってやる。突然の空中浮遊に驚いたのか、めそめそしていたはずの大助は涙を引っ込めて幸村を見上げていた。 丸く大きな澄んだ瞳の中に、情けない表情をした自身の顔が見える。



「………もう、泣かぬのか」



意味を成さない声が、問に答えるかのように大助から発せられる。ようやくほっと胸を撫で下ろした幸村は大助を膝の上に乗せ、 涙やらよだれやらで汚れた顔を拭ってやった。ついでに「武家の男子が安易に泣くでない」と説法を試みる。

安易に泣くなかれ。打たれ強くなるべし。特にお館様の拳には志願して打たれよ。
好き嫌いするなかれ。身体が丈夫にならず、それでは戦場に立つことができないからだ。



――良いか、常にがおらねば眠れぬというのも甘えすぎだ。そなたは男子であろう!
 戦場に母はおらぬ。いずこの村へ行けば母の無い子とておるだろう。……聞いているのか大助」



返事はない。大助は幸村の前髪を引っ張ろうとするのに夢中になっているからだ。



「大体だな、お前は寝ても覚めても四六時中の気を引きすぎだ!
 は確かにそなたの生みの母だが、その前に俺の妻であるのだぞ。大助、引っ張るな!」



ぎゅうと掴んだ髪の束を引っ張ったりかき回してみたり、挙句口に含もうとしてみたり、大助は実に愉快そうである。 これほど遠慮なく力を入れられていては、大助の短い指に掴まれるのでも痛いものだ。

「放せ、いや話を聞け」と幸村が奮闘していると、不意に笑い声がして、頭皮の引っ張られる感覚が無くなった。 瞳は、木目色の床板に映える鮮やかな着物の色を映している。



「ただいま戻りました幸村さま。大助、とと様を出家させてはだめよ」



くすくす笑いながら大助を抱き上げているのはだった。思わず「早かったのだな」と零せば、「急いで戻って参りました」と綻ぶように言われる。 背後には共に出掛けた侍女が立っていて、腕には引き取ったばかりの櫛と甘味処の包みを抱えていた。 大助にみつまめを食べさせてやろうと買ってきたのだとが説明する。

いつの間に帰ってきていたのだろう、大助に語りかけるのに気を取られて少しも気付かなかった。 幸村の好きな大福もあると言われ、曖昧に言葉を返す。やはり大助の方が第一で、自分は“ついで”扱いなのかと、気分がやさぐれそうになった。



「さあ頂きましょう…と言いたいところでございますが、
 どうやら八つ時の前に、幸村さまも大助も替えのお着物が必要のご様子で」

「いや、これは!大助がの紅を散らかして…」

「はい、はい。仲がよろしいようで、は一安心いたしましたとも」



からかうような口調に、幸村は鋭い調子で「!」と言って抗議をする。それでもはくすくすと笑うのを止めようとしない。どうやら大勢は不利のようだ。
諦めた幸村は踵を返し、紅やら拭った涙やらで汚れた着物を替えるべく自室へ戻ることにした。は大助の着替えを手伝うのだろうから、どうせまたひとりだ。も大助もどちらも心から愛しているのに、仲間外れにされたようでつまらない。

むっすり黙り込んだ幸村の背中を、の指が内緒話をするようにつつく。
まだ何かあるのかと振り向けば、子を抱いたは予想に反して優しい顔で微笑んでいた。



「確かにわたしは大助の生みの母で、いまはそっちに掛かりきりになってしまってるけど。
 でも、わたしがあなたの妻であること、それが第一なのは生涯を通して変わらないことよ」



「それだけ伝えておきたくて」と言い、は髪と袖を靡かせて、幸村と反対の方向に歩き出した。大助の着替えを取りに行くのだろう。

いつから聞かれていたのか、少なくとも幸村の小言はしっかり耳に届いていたらしい。これでは全くの思う壺である。してやられたような気恥ずかしさを誤魔化すように、幸村は早足で自室へ向かった。

そうして歩きながら気付いたことは、幸村だってと大助とどちらが優先か決められないのだから結局は同じ事である、ということだ。
















由宇さんへ!リクエストありがとうございました!
ただの幸村子育て奮闘記になってしまってすみませんです。