「“奴”の隣に女が居ただろう、ハリー。一人だけ仮面を着けていない、ぼうっとした様子の女だ」 そう尋ねてきたシリウスは、太古の昔から生きてきた大樹のように枝葉を広げた家系図を眺めていて、心ここにあらずといったようにハリーには見えた。 ハリーは問われた通りに記憶を辿った。ほんの数ヶ月前の墓地での光景を目の前に思い浮かべる。薄い月光が雲間から差していたあの地、蛇のような顔の男、その隣には確かに無感情な様子で佇む魔女がいた。 フードを目深に被っていたから髪の色は分からなかったけれど、ハリー自身のものよりも数段深いグリーンの瞳がその暗闇の中で浮かんで見えたこと様子はとても印象深かった。 名付け親の問いに「うん」と答えると、シリウスは指先で家系図を辿り、大樹の末端にあるひとつの葉をハリーに示して見せた。その葉の隣の焦げた跡は、他でもないシリウス自身の名前が刻まれていた場所だった。 「そこではない」とシリウスが苦笑する。こつこつ、と骨ばった指が彼の弟の名前を叩いた。すると、空白だった場所にひとつの名前が浮かび上がってきた。 “・” その女性の名前はシリウスの弟の名前と細い線で横に繋がれていた。そういう線が引かれるということは、この女性はシリウスの弟の妻ということになる。 そこでハリーはおや?と首を傾げた。先日、シリウスがこの家系図を説明してくれた際、彼の弟は早くに亡くなったと言っていたではないか。ハリーの疑問顔に気付いたシリウスはこくりと頷く。 「婚約者だった。当時の彼女はまだ学生だったが、卒業後すぐに嫁入りすることは決まっていた」 「それで、先に名前を書いてしまったんだね」 随分気の早いことだろう、とシリウスは嘲るように笑った。 ハリーは笑う気にはなれず、その名前をじっと見つめた。 「君は覚えておかなくてはならないだろう、ハリー。“あの女”の名前がこれだ」 「えっ?それじゃあ、」 シリウスは低い声で「ああ」と肯定した。 「私の愚かな弟が死んで、この女は死喰い人になった。どんな目論見でそうなったのかは分からない。家の復興を賭けたのかもしれないし、そうではないかもしれない。ただこの女は、確実に何かの目的をもって“奴”へ近寄ったはずだ」 「…………」 「私には、その目的というのが“奴”にとって何か決定的なものではないかと思えてならない。だから君には知っておいて貰いたかったんだ、の名を」 シリウスが再び家系図を叩くと、・の名前は溶けて消えたように見えなくなってしまった。 ハリーは困惑し、脳裏に浮かんだ疑問をぶつけてもいいのだろうかと名付け親を上目でちらりと見た。 ――なぜその人に直接訊ねてみないんだろう? ――その人はシリウスにとって、どういう存在だったんだろう? ♪ シリウスから彼女の話を聞いたその学年の終わりに、ハリーは・を間近に見た。 魔法省の入口にあるアトリウムへとヴォルデモートが姿を現した時、その隣で佇んでいた人影がそれだった。 その時の彼女はフードを被っておらず、その顔立ちがハリーにもはっきりと見えた。 感情の乏しい口許に、冷ややかで暗い目がやはり印象的な人だった。華やかさでパッと人目を惹くような、例えばフラー・デラクールのような美人とは正反対のタイプの、静まり返った湖のような清廉とした雰囲気の人だとハリーは思った。 彼女はヴォルデモートから一定以上の距離を空けることはなく、自分から攻撃してくる訳でもなかった。ヴォルデモートに降りかかる火の粉を払うために杖を振りはしたが、彼女以外の死喰い人が闘っているところに加勢することはなかった。そしてそのまま、主人が引き上げるのと同時に姿を消した。 闘うことは彼女の“目的”ではないのだろうか、とハリーは思った。 その次の年の夏になって、彼女は再びハリーの前に姿を見せた。 この時の彼女について意外だったのは、彼女がドラコ・マルフォイの傍にぴたりと寄り添っていることだった。仲間をホグワーツの敷地内に誘い込むという仕事をなんとか務め上げたことで疲弊した少年の隣に立ち、彼女より高い位置にある少年の肩を大事そうに抱いていたのだ。 少年が確実に撤退するための道を確保するべく、彼女の杖はついにハリーに向いた。 呪文を唱える声は小さくて、どんな声だったのかはまるで分からなかった。そんなことを気にする前に、ハリーは驚くほどの速さで飛んできた呪文をかわさなければならなかった。 呪文の早さはハリーの強みでもあったので、きっと彼女との戦いは辛いものになるだろうと覚悟した。だが、幸か不幸か彼女はそのたったひとつの呪文で退路を確保してしまっていたので、ハリーが彼女のひやりとした視線を浴びることは無かった。 ハリーは、やはり彼女の“目的”は単純に自分の力を揮うことではない、という思いを強くした。 だとしたら、一体何のために? その答えは、ダンブルドアの葬式が終わりハリーを護っていた呪文も役目を終えてしまった頃になって、思わぬところからもたらされた。シリウスの家のしもべ妖精、クリーチャーが亡き主人との約束の話を涙ながらに語った時のことだった。 「様はクリーチャーと共にお可哀想なレグルス様のご遺志を果たされようとして下さいました。クリーチャーだけでは力が及ばぬと分かると、様は自ら“あの人”の元に赴かれたのです。全て、全てレグルス様の為なのです」 ハリーは眩暈がしそうだった。 秘密を探るためにたった一人でヴォルデモートと渡り合い、死んでしまった婚約者のために十年以上もただひとつのものを壊すことを自分の使命としてきたなんて―― けれどハリーは、同じようにただ一人で復讐の炎を燃やしずっと機を窺っていた人を知っている。 この時になってようやくハリーは生前の名付け親がやけに確信的だったことを納得した。レグルス・ブラックという人物を挟まない限りは決して親戚関係にならないはずなのに、この二人はどこか似ていたのだ。 ハリーはクリーチャーに頼んで・と連絡を取ることにした。快く協力してくれることを頭の隅では期待しつつ、そう上手く事が運ぶ保証なんて無いことは分かっていたから、彼女からの回答が“少し考えさせてほしい”という内容だったこともある程度は予想の範疇だった。 それから冬になり、一度離れたロンが戻ってきてついにロケットを壊すことに成功した翌日の晩。 ハーマイオニーの張った結界が反応したので警戒しつつテントの外を窺うと、そこにはフードを目深に被った小柄な人影があった。そのシルエットでハリーは確信し、今にも飛び出して行きそうな二人を制止してその人物の前にゆっくりと歩み出た。 「……あなたが、あのロケットを壊してくれたのね」 はい、とハリーは答える。 ・はフードを外して、まっすぐにハリーと向き合った。以前は固く結ばれていた口許はどんな感情を噛み殺しているのか奇妙に歪んでいて、決してぶれなかった瞳には涙が溢れていた。 ハリーは壊れたロケットを彼女に渡した。手のひらに乗せ、指先で触れることさえなくただ無言で金色の鎖をじっと見つめ、彼女はぽつりと「ありがとう」と呟いた。彼女の頬を涙の粒がはらはらと伝って落ちるのを見て、ハリーは初めて“・”という人間に会えたような気がした。 ♪ 初めてその名前を教えられてから2年が経って、禁じられた森。 「できません」と泣き崩れる声はあんまりにも震えていて、ハリーとヴォルデモート以外の者にも正しく聞き取れただろうかと場違いな心配がぼんやり浮かぶほどだった。 ロケットの件以降、密かに情報を交換するようになった女性、・は今は地面に倒れ込んでいるハリーの前で絶望したように座り込み、「小僧を殺せ」と命じる主人の声に首を振って拒絶の意思を示していた。 「何度も言わせるな、、なぜ出来ない」 「我が君、申し訳ございません。我が君、わたくしは……」 ハリーは動けなかった。 このまま死を待つのが正しいのだから、動く必要がない、というのが正確なところだった。 仲間だと明言できるほどではないにせよ、彼女とハリーは協力関係だった。 マルフォイの屋敷の地下で監禁されていたルーナやオリバンダー翁が数ヶ月もの間無事でいられたのは彼女が世話役をしてくれていたからであり、ヴォルデモートの“名前”を口にしてしまい、ハリー達がマルフォイの屋敷に連行された時、こっそり手を回して逃げられるようにしてくれたのも彼女だった。 そして今、禁じられた森の深部で、ハリーがヴォルデモートの前に姿を見せた真意も知らないまま、彼女は目の前の少年の命を一瞬でも永らえさせようと両腕を広げてか弱い砦となってくれている。 「殺せ、ません。この子供を、ころしたくないのです、我が君。申し訳…」 「お前は何のために我が人形となった、。お前の愚かな婚約者の汚名を雪ぐのではなかったのか」 ヴォルデモートはそう言って凄んだ。それでもは首を横に振る。 「貴様には失望した」 冷たい声がハリーの耳に届いたのと同時に、視界は青みがかった眩しい光の筋が奔るのを捉えた。その光はまっすぐを貫き、彼女は苦しそうに息を吐いて蹲ってしまった。自分で自分の首を絞めているかのように、彼女の白い指が喉を掻き毟っているのが見えた。まるで見えない首輪でも着けられたようだった。 ハリーに分かったのはそこまでだった。 「アバダ……」と唱える、宿敵の声が―― 全てが終わり、ヴォルデモートの完全に滅んだ世界が朝を迎える頃、ハリーは禁じられた森に戻った。 マルフォイ一家の隣にも、遺体の安置された広間にも、どこにも彼女の姿が無かったことが気がかりだったのだ。 数時間前に死ぬために辿った道を再び行くと、黒ずんだ地面に倒れている人影があった。すぐに駆け寄り、その人を抱き起こすと、・は青白い頬を震わせて細い息を吐いた。 「さん」 首にはベルトで巻かれたような絞め痕があり、やはりあの時の呪文は拷問用だったのだとハリーは察した。しかし彼女をいま死に向かわせているのはその呪文ではなく、鋭い爪で裂かれたような脇腹の傷の方だった。鬱蒼とした森の中で地面が黒く濡れているのも、彼女の流したものの所為だった。 わざと置いていかれたのか、と気付きハリーは奥歯を噛み締めた。この傷もきっと、グレイバックが与えたものだ。狼男の爪に抉られた傷がどのような性質を持つのかはロンの兄の一件で理解していたが、それでもすぐに校医に診せれば今ならまだ間に合うかもしれないという思いを捨てきれなかった。 ハリーが魔法で担架を取り出し、抱き起こしたその人を乗せようとしたの時、彼女はうっすらと瞳を見せ、ぼんやりと笑った。 「―…もう、いいの、わたしのことは…あなたは、何も…知らなかった。いいわね…?」 「出来ない、そんなこと…僕は!」 ハリーはこの一年、何度か彼女に助けられた。だから今度は彼女を助けたかった。生前の名付け親が、彼女に何か後悔を残しているようだった影響もあるのかもしれない。 だが彼女は、ハリーの差し伸べた手は取らないと言う。 「これ以上、レグより年上に…なりたく、ない。だから、いいのよ。このままで…」 いつか見た際に強く印象に残った深いグリーンの瞳は、今は確かにハリーを映しているはずなのに、彼女はどこか違う所を見ているような気がした。 「こんなのは、おかしい。さん、貴方は間違っている。僕には理解できない。どうして、せっかく分霊箱も破壊して、ヴォルデモートも居なくなって、…それなのに、貴方は、助かりたくないなんて」 「……だって、そこにレグは…居ないもの」 「居ないけど、だからこそ貴方が生きて、伝えて残さなきゃいけないことがあるはずなんだ!」 彼女の諦めきった声色に腹が立って、ハリーは思わず声を荒げた。彼女はようやく瞳の焦点をハリーに合わせて、一段と微笑みを強くした。ヴォルデモートの復活した墓場や、シリウスの居なくなった魔法省地下でも彼女はぼんやりした笑みのような表情を浮かべていたけれど、それはこんなに晴れ晴れしたものではなかった。 「……スリザリンは、手段を選ばないの。よく、分かったでしょう?」 そんなことはハリーに薬学を教えてくれた教授や犬猿の仲だった同級生のせいで骨身に沁みている。そう反論したかったのに、彼女は勝手に満足したような顔を浮かべて、ハリーの言葉なんか聞く耳を持っていないようだった。 「これでやっと、あなたに会える」 天へと伸ばされた細い腕が、力なくぱたりと落ちる。 ローブの隙間から見える白い肌には、もはや蛇の巣は存在しない。 リクエストありがとうございました! 5巻以降からのひとつの終わりの形としてのお話でした。 |