出来立てのスープの香りがして、目が覚めた。
真っ先に視界に映ったのは古びたセイリング。天井はダークグリーンに染められている。少しほこりっぽいベッドから身を降ろす。簡単な身支度をして、重い樫の木のドアを開ける。年季の入ったビロード敷きの階段を下り、広間へ入る。

「おはよう、アルギエバ」
「おはよう母さん」

朝だというのにきちんと身だしなみを整えた母さんが僕の方を向いてテーブルについている。その隣で給仕をしているしもべ妖精はひどく年老いていた。あのしもべ妖精の名前は何だっただろう。“ドビー”。真っ先に脳裏に浮かんだその名前は、なぜだかキィキィとやかましい。

「クリーチャー、アルの分の紅茶を淹れてくれるかしら」
「かしこまりました、奥様」

僕が思案している間に、母さんはしもべ妖精にそう言った。クリーチャー。そうだ、僕の家にずっと仕えている、少し嫌味っぽいクリーチャー。なぜドビーなんて名前を思いついたのだろうと思ったが、母さんが僕に座るよう勧めてきたので、思考は途切れた。

僕は母さんの向かい側の席に座る。クリーチャーが紅茶のカップを持ってくる。
そこで僕は、隣の席、つまりこのテーブルで最も上位の席に座っている人物に気付いた。黒い髪。ほんの少し皺の寄った、切れ長の涼しげな目元。神経質そうな細い指が新聞を捲っている。 まるで僕の生き写しのようで、だけど確実に僕ではない、大人の男。これは、この人は、


「こら、アル。お父様にもご挨拶なさい」


僕は弾かれたように母さんを見た。父、と、聞こえたからだ。
父と呼ばれた人は新聞を畳み、伏せていた視線を上げて僕を見た。僕と同じ灰色の虹彩が、僕を見て、それからクリーチャーを見る。自分にも紅茶をもう一杯淹れてくれと命じる声は、僕よりも一段低い。

「おはようございます。…父さん」

僕は父に言った。父は僕に短く応えた。母さんはその言葉を聞いて満足そうだ。
そうだ。父、なのだ。この人は。僕はアルギエバ・ブラック。父はレグルス、母は。祖母ワルヴルガは数年前に亡くなり、ロンドン市内にある一族の家は、今や僕たち一家のものだ。
なぜだか今日の僕は目が覚めた瞬間から妙に夢見心地な気分に付きまとわれていて、はとこの家のしもべ妖精の名前を思い出してみたり、父を初めて見たような人のように思ったりしてしまう。ふわふわと浮ついた感覚がする。頭の芯が麻痺しているような、思考停止状態に近いものを感じる。そのせいだろうか、目の前に父と母が揃っているという光景が僕にはとても大切なもののように思えた。

だから口に出すことはやめた。父を見た瞬間に感じた違和感を、どうして生きているんだなんて疑問を抱いたことを。









朝食を終え、僕は屋敷の4階にある自室で同級生に手紙を書き始めた。ペン先をインク瓶に浸して、羊皮紙に一文字目を綴ろうかというその時、短いノック音がコツコツと響いた。どうぞと声をかけるとドアは遠慮気味に開き、その隙間から父さんが顔を覗かせた。アル、と物静かな声が僕を呼ぶ。

とダイアゴン横丁に行くけれど、お前も来るかい」

ぽたり、インクの雫が羊皮紙に溜まる。僕は少し面食らったあと、行くよ、と父に言った。父は頷き、10分で支度をするよう僕に言って、また遠慮がちにドアを閉めた。
僕はペンを置き、インク瓶の蓋をきっちり締め、ボウタイと上着をクローゼットから引っ張り出す。5分程で支度を済ませて階下へ向かうと、玄関ホールには父だけが立っていた。

僕が「母さんは?」と尋ねると、父は重苦しいコートから懐中時計を取り出し「あと3分」と端的に言った。僕と父は特に会話もなく、ただお互いに黙って母さんを待った。何か話をした方がいいかと思ったが話題も見付からず、父も多弁を好むようには見えなかったから、僕は沈黙を良しとした。

きっかり3分経って、ホールに母さんが現れた。朝食時とは違う服を着ている。決して派手ではないが、上品な明るさの服はよく似合っている。母さんは並んで立っている僕と父を見て、眉尻を下げた。お待たせしてごめんなさい、と申し訳無さそうに母さんが言うが、父は無言で腕を差し出すだけだった。母さんはその肘にそっと手を掛けて、嬉しそうな顔で父を見上げる。まるで長年そうしてきたとでもいうような、一連の流れるような遣り取りに、僕は少し置いていかれた気分だ。

母さんが僕を振り返り、「行きましょう」と言った。樫の木で出来た玄関の扉が独りでに開く。外には黒塗りの重厚な車が停まっていて、後部座席のドアはやはり独りでに開いた。はとこの家の車には運転手が居たな、と不意に思い出す。なぜそんなことを思い出したのかは分からないが、朝から続く浮ついた気分のせいだろうと判断して、僕は車に乗り込んだ。


ダイアゴン横丁に着くと、僕たちは車を降りて“漏れ鍋”に入った。店主が父さんを見て恭しく頭を下げるのを横目に見ながら裏庭にまわり、煉瓦を叩く。ずずっと重い音を立てていくつもの煉瓦が動き、目の前の塀がアーチになる。アーチの奥はいつものように買い物客で賑わっていた。
父さんが母さんの腕を取って歩き出した。父の長い外套の裾は地面に着くか着かないかという位置で揺れている。僕は両親の後ろを歩いた。背後から見る限りでは、母さんが父さんに一方的に話しかけているように見えた。

少しばかりの間そんな感じで人混みを掻き分けて進むうち、銀行の前で父さんが足を止めた。

「わたしは銀行で用事を済ませてくるから、それまで二人は好きな所に行っておいで」
「そうね。じゃあ、アル、二人でお茶にしましょうか」

母さんは不満を言うでもなく、むしろ嬉しそうに手を合わせて言った。
僕はそれが少し意外で、目を瞠りながら頷いた。

白大理石の豪奢な建物に父が姿を消すのを見送り、僕と母さんはすぐ近くにあったカフェに入った。このあと食事が控えているからお茶だけね、と母さんが言う。メニューを眺めて、ウェイターに注文を伝える。
その間、僕は母さんを観察してみた。ざくろ色の髪は丁寧に梳かされてしっとりとまとまっていて、にこにことした笑みを絶やさない口元には普段はつけていない口紅の色が乗っていた。明らかに普段より手が込んでいる。それで家を出る際に一人遅れてきたのだろうと僕は思った。

「母さん、なんだか嬉しそうだね」
「だってお父様とお出かけするのはとっても久し振りだもの」

今日はアルも居るしね。母さんはそう言って、少女のようにはにかむ。僕はなんとなく面白くない。僕は、母さんは父さんと一緒に銀行に行くから自分だけ置いていかれると思っていた、と母さんに言った。母さんは僕の言葉を一周回って受け取ったらしく、わたしと一緒は嫌だった?と不安そうに表情を曇らせた。

「母さんと一緒なのが嫌なわけないよ。ちょっと、意外だっただけ」

僕は慌てて言い繕う。タイミング良く、ウェイターがカップを2つ持ってきたので、この話は終わりになった。


父さんはほどなく用事を済ませ、僕たちと合流した。
母さんは当たり前のようにまた父の腕を取り、昼食には馴染みの店へ行こうと話しながら歩き出す。馴染みの店とはどこだったかなと僕は思った。ノクターン横丁の方だっただろうか。しかし両親の足は僕の予想していた方には進まず、高級店の立ち並ぶハイストリートの方へ進んで行く。

途中で、母さんがある店のショーウィンドウに視線を遣った。どうやら靴屋らしい。父さんもその視線には気付いていたようで、「見ておいで」と足を止めた。母さんは少し躊躇ったが、父が「アルギエバと一緒に待っているから」というと、少し見るだけだからと釈明しながら店内に消えて行った。
父が僕の名前を呼んだ。至極当然の出来事だ。なのに僕は内心で動揺している。

家を出る前に玄関ホールで二人で母さんを待っていた時と同じように、父は喋らなかった。先ほど僕と一緒に待っていると父は言ったが、これでは一人と一人が突っ立っているだけだ。
父は僕に興味が無いのだろうと僕は思った。だけど頭の別の側面では、「でも父さんは僕の名前を知っていた」と考えている僕がいる。父が僕の存在を知っている。当然じゃないか。

なのに僕はやっぱり動揺している。
父が僕の存在を知っているということに。

「アルギエバ」
「なに、父さん」

唐突に、父が僕に声を掛けた。父は再び僕の名前を呼んだ。僕は心拍が跳ね上がるのが分かった。なぜだろう、父と喋るのはとても緊張する。
父はじっと僕を見た。切れ長の目許。グレーの虹彩。鼻筋の造形。父の瞳の中に映る僕は、自分で見ても父と瓜二つだった。

「……を、頼んだよ」

父はそう言って、僕の頭に手のひらを置いた。頭を撫でるわけでもなく、大きな手のひらはそこにあるだけだった。どういう意味、と尋ねるつもりが、僕は無意識のうちに頷いていた。
なぜだろう。頭が回らない。父が僕の存在を認め、名前を呼び、信頼してくれていることへの驚きがおさまらない。なぜ違和感があるのだろう。父さん。あんた、どうして。



(生きてるんだ?)









出来立てのスープの香りがして、目が覚めた。
真っ先に視界に映ったのは清潔そうなセイリング。さっきまでの夢の中とは違って、天井の色はアイボリー。柔らかい布団から身を起こし、周囲を一通り見回す。隣の部屋のドアが開き、軋んだ音が聞こえた。ドラコも既に起きているらしい。僕は簡単な身支度をして、明るい廊下へと出た。

「おはよう、母さん。おはようございます、おじさん、おばさん、ドラコ」
「おはよう、アル」

大広間には全員が揃っていた。母さん、ルシウスおじさん、シシーおばさん、それからドラコ。夢の話は後で母さんにだけ話そう。父が出てきたなんて言ったら、母さん以外は良い顔をしないだろうから。

安心しろよ、ばか親父。約束を交わした場所がたとえ夢の中だったとしても、“レグルス”の名前は、二度と母さんを悲しませたりしないんだから。



















林檎さんへ!リクエストありがとうございました&遅くなってごめんなさい!
夢オチにしてしまいましたが、親子3人の日常を描けて、私としても楽しかったです!