深夜、いつものようにガレージに車を入れて玄関に向かう間、そのような予感はしていた。
車のキーを仕舞いつつ、はダイニングまで聞こえるように「ただいま」と声をかけた。
娘は眠っているだろうから、響かないよう声の調子は慎重に抑えた。
すぐ近くで、ランプがぼんやりと灯っているのが分かる。
なんだか怪しい儀式でもしているみたい、と、内心で愉快な気分になりながら、は廊下を進んだ。
リビングに入るとすぐ、リーマスと目が合った。
彼は柔和な笑みを浮かべて「おかえり」と小さく言った。
シリウスはに背を向けるように座っていたが、
リーマスの声で振り向きの姿を見止めると、「ああ」と短く応えた。
「おみやげよ、お二人さん。
えーと、なんとかホテル・チーフパティシエ監修のチョコレートセット、限定30個」
「、話があるんだ」
いつになく真面目な声色でシリウスが言う。
差し入れで貰った菓子箱をぶら下げたまま、は動作を止めて二人を見た。
リーマスは伏し目がちな表情でシリウスを見ている。
無言の圧力を加えているようにも見えたが、あながち間違いでもないかもしれない。
シリウスは視線をどこに遣ったらいいのか分からない、といった様子で、続く言葉を口篭っていた。
「…………」
「……シリウス」
しんとした空気がリビングに広がったが、は助け舟を出すつもりなど毛頭無かった。
代わりにリーマスが静かに彼の名を呼び、決心を促す。
シリウスは「分かってるよ」と恨めしげに呟いたあと、深く息を吐いた。
「――つまり、。
俺たちはそろそろ、この家を出ようと思っている」
「ふうん。やっぱり」
「ああ、君にはとても世話になった、
突然出て行くと言って驚かせ…た、わけでは、なさそうだな」
一気に捲し立てようとしていたらしいシリウスの言葉は、途中で尻すぼみになり、乾いた声に変わった。
演技をしたわけではなく、は元からそんな予感がしていたのだから、
そんな薄情者を見るような顔をされても困るのだが。
「なんとなく、そろそろ来るかな、って。そんな気がしてたわ。
女の勘って当たるのね。…には、もう伝えたの?」
「いいや、まだ。先にに伝えるべきだろうと思ったんだが」
そうしてくれてありがたいわ、と答えて、はもう一度菓子箱を空中で揺らした。
もそもそと音がして、箱の中でチョコレートがかすがに動いたのだと分かった。
冷蔵庫に入れておけば、明日の朝にでも娘が見つけるだろう。
誰に似たのか、はそういうことに目敏いのだ。
「ちゃんと話をしてね。もう二度と立ち寄るつもりが無いなら、それもちゃんと、あなたの言葉で。
事と次第にもよるけど、基本的に『子供だから』で誤魔化すのは、我が家のルールじゃないの」
「分かってる。それに“二度と”なんてつもりじゃない」
シリウスは少し慌てた様子で、最後の言葉を言い添えた。
は菓子箱を水平に戻し、そろそろ仕舞おうかと冷蔵庫のドアに手をかけた体勢で止まった。
その言葉はにとっては、予想外だ。
「わたしは、少なくとも満月が過ぎれば人前に出られる身のつもりだからね。
この家に来ても良いかどうかは、家主のお許し次第だけど」
「ばか言わないで。追い返すわけがないでしょう」
「それなら良かった。
てっきり、は二度と“こちら側”に関わりたくないのだと思っていたよ」
穏やかな口調で痛い所を突かれ、は言葉に詰まった。
リーマスが含みのある表情でシリウスを見ると、もそれに続く。
二人に見られたシリウスは眉を顰めて、視線を天井へと逸らした。
はようやく冷蔵庫を開けて菓子箱を放り込んだ。
ついでにペットボトルの水を取り出してから、シリウスの隣の椅子へ腰を下ろす。
「…積極的に戻りたいわけじゃないけど、全く関わりたくないわけじゃない。
子供たちが居るし…シリウスのことも。だけど―…今のままじゃ、わたしが戻っても意味が無いと思う。
マルフォイ辺りの得点稼ぎは出来ても、それだけ。昔のように独立した役割はこなせない。
もっと何か…情勢が大きく動くようなことがあれば、その時はどう動くか考えられえると思う」
現に昨年度のの魔法界への再登場というのは、政治的な駆引きという色合いも強かった。
だからこそ例外的に戻れたのであって、建前上は事態が落ち着いた今、にそこまでの自由は無い。
もう一度『大量殺人鬼が絶海の孤島から脱獄』のようなセンセーショナルな事態にならない限り、
シリウスの自由どころか自身の足元だって固められないだろう。
それまでは細々と、悪目立ちはしないようにするつもりだ。
そこまで語って、は水を飲んだ。
「……当面はそれで良いんじゃないかな。わたしだって表立って動ける身分じゃない。
だったら、がわたしたちを見捨てないことを約束してくれるだけで、十分だよ」
「俺は……そもそも口出しできる立場じゃないしな」
シリウスのそう呟いた声があまりに情けないので、は思わずぷっと笑ってしまった。
すぐに隣からの睨むような視線を感じ、は逃げるように腰を上げた。
小さなケトルに水を入れてコンロに火を点ける。
リーマスが手伝おうと動く音がしたので、カップを準備してもらうことにした。
「……出発する日はもう決めたの?」
「少なくともわたしは四日以内に、と決めているけど、詳細には未だ。
が居る日にした方がいいかと思って」
四日以内。は鞄からスケジュール帳を取り出し、日付と月齢とを見比べた。
ちょうど三日後が午後からフリーだ。そして、その一週間後に、月が満ちる。
成程、トリカブトを一週間も煎じ続ける間うちに居るわけにはいかないか。とは納得した。
「三日後の午後なら帰ってこれる予定よ。
わがままだけど、絶対にこれより早く出て行ったりしないで欲しいの。
わたしが居ない間に娘をひとりで残すことは、なるべくしたくないから」
「ああ、分かっている」
娘が寂しくなった時、いつでも泣きつきに来られるように。
いつでも抱きしめてあげられるように。
の言葉に、二人は了解を返した。
はそれに礼を言って、ティーバッグとお湯をカップに注いだ。
インスタントだが、こんな夜更けなのだから多少の手抜きは許されるだろう。
「ありがとう。この一ヶ月、とても楽しかった。
端から見ればままごとみたいなものかもしれないけど、それでも。
あの子に、わたしと二人だけじゃない生活をさせてあげることができて、良かった」
「こちらこそ、こんなに幸せな気分で朝を迎える日々は久しぶりだった。
また月が欠けたら、連絡をするよ。…不思議だね、満月が待ち遠しいくらいだ」
「ああ。俺も、迷惑が掛からない程度に連絡する。無事に生きてるって証拠に。
大丈夫だ。やあの子のことを思えば、野良犬生活だって苦じゃないさ。
――だから、、絶対に無茶はするな。約束してくれ」
うん。とは極短く返事をした。
程よく色付いた水面を眺め、胸に込み上げてくるものを押しとどめる。
各人にカップを配ったら、誰が言い出したわけでもないのに、自然と腕を持ち上げていた。
「わたしたちの、今後に」
幸あれ、と。
カツリと、カップの鳴る音が控え目に響いた。
カ ウ ン ト ダ ウ ン ・ フ ォ ー ・ ス リ ー
(あと三日。それまではせめて、笑顔で。)
カゲツさんへ!リクエストありがとうございました&遅くなってごめんなさい!
After the Lights本編に匹敵する裏・重要回、いつか書こうと思っていました。書けて本当に良かったです。