うららかな陽光のなかを、少年と少女が手を繋いで走っていた。
年のころはまだ四捨五入しても十になるか、ならないかといったところだ。
そのいくらか後ろを追いかけてくるのは少年のお世話係と化している忍である。 「こっちだ、こっちに逃げよう」 ふたりは屋敷の角を曲がり、そのまま大きな水瓶の裏にしゃがみこんだ。 それなりの値打ちものであるにも関わらず、ふたりとも着物の汚れを気に掛ける様子も無い。 少年の手には大きなびわがあった。 「弁丸出てこーい」と探し回る佐助の足音を聞きながら、呼ばれている当の本人である弁丸は 袖でびわを軽く拭う。 「弁丸はびわがすきだ」 「もすきよ」 「かきもすきだし、くりもすきだが、びわはもっとすきだ!」 「はももがすき!」 うひひと笑い合いながら、ふたりはびわを剥き始めた。 屋敷の厨で、籠盛りにされていたのを数個失敬したのはもう半刻ほど前だった。 ふたりでそっと忍び込んだそこから庭に出たまではよかったのだが、 ちょうどそこでふたりを探していた佐助にばったり出会ってしまったのだ。 当然、ふたりが厨からびわをくすねて来たことなどすぐにばれてしまう。 「弁丸がやしきをもったら、びわの庭をつくるんだ。 そうしたらいつでもすきなだけ食べられる」 「も呼んでね」 「もちろんだ!」 鬼ごっこの最中であるので声は落としたまま、ふたりは約束を交わす。 びわの隣にはが好きだという桃も植えよう。 そうして、空想の果樹園はどんどん大きくなっていく。 「とれたびわとももはおやかたさまに食していただこう! いくさのときも持っていって、兵たちにもくばるのだ!」 「いくさ?」 「そうだ。弁丸は、元服したらおやかたさまといっしょにいくさに行く。 それでいっしょにたたかって、おやかたさまと天下をとるのが弁丸の夢だ!」 興奮ぎみにそう言うと、弁丸は拳を握り締めて水瓶の陰から飛び出した。 尊敬する信玄公の名を口にするのに、物影に居てはいけないような気がしたのだ。 は目を輝かせて弁丸を見上げた。 その瞳には「うらやましい」や「かっこいい」やらの気持ちがありありと映っている。 素直な好意を向けられて、弁丸の胸中にはむくむくと何か暖かいような気持ちが育っていく。 それがあることは弁丸にとっては心地よいことで、 がそうさせてくれたのだと思うと、また一層嬉しくも思うのだった。 その気持ちのあることの喜びを伝えようと、弁丸は唐突に口を開く。 「!」 「なあに?」 「大きくなったら、弁丸の嫁御に来ればよい! そうしたらびわも、ももも、食べほうだいだ!」 弁丸はの両手を取って、きらきらした目で見つめた。 は水瓶の陰からでもわかるほどにっこり笑うと――― ◎ ◎ ◎ 「褒美で御座いまするか?」 躑躅ヶ崎館、本殿にあたる座敷の下座にて頭を垂れていた真田幸村は訝るように視線を上げた。 その正面には甲斐の虎として名を馳せる武田信玄その人が座しており、 まだ若い愛弟子に対してどこか試すような、面白がるような視線を遣っていた。 「左様、此度の戦勝は殊にお主の働きによるものが大きかった。 この信玄、出し惜しみはせぬぞ。馬なり酒なり侍従なり、何なりと申してみよ」 「なればいつものように稽――」 「そうつまらぬことを申すでない」 稽古をつけてくれ、と続くはずだった幸村の言葉は遮られた。 「何なりと」と条件付けたというのに話が違うではないかと不満を零しそうになるが、 それはまかり間違っても臣下である幸村が口に出して良いものではない。 ぐっと言葉を呑んだ幸村を見て、信玄は愉快そうに口の端を持ち上げた。 「のう幸村よ、お主はいつになれば室を迎えさせてくれと儂に言うてくるのかのう」 「ししし、室など!!まだまだ弱輩の某には勿体無きゆえ、どうぞそれ以外の御話を、」 顔を真っ赤にして早口で捲し立てる幸村の姿に、信玄は嘆息を禁じ得ない。 この馬鹿弟子はいつまで経っても女に慣れようとせず稽古稽古の毎日を過ごし、 いざ縁談を持ちかけても「まだ早い」「自分には勿体無い」などと悉く身を躱してしまう。 なまじ顔の造りが整っていて諸国の姫からも人気があるのだから、それこそ勿体無い話だと信玄は思うのだが。 「……そうか。儂はお主を息子のように思うておるが、お主はそうではないと申すのだな」 「な、何ゆえ斯様なことを申されまするか!某はお館様の――」 「親は子を愛しむが、またそれ以上に孫をも愛しむものよ。 お主が儂の息子も同然であるのならば、お主の子は儂の孫。 一日も早く孫の顔を見たいと思う親の気持ち、逆立ちすれど分かるまい」 幸村は立場が無いような顔で視線を下げ、右へ左へ彷徨わせている。 もしここに佐助が居れば、助けを求めて即座に抱きついているのではないかという有様だった。 しかし、困っているのがたとえ息子同然の幸村であろうともここで引き下がる信玄ではない。 「天下こそ我が望み、それは一分も揺らぎはせぬが…… 儂の天下を――儂の治めるこの国を、孫に見せてやりたいと思うのは罪なのかのう」 「罪などでは御座りませぬ!!こ、この幸村、いくら己の気恥ずかしさが増さろうとも、 それがお館様の御心を憂うさせるものであるならば即座に切り捨てるべきものでありました! 主君の憂をも解せぬとは武士としてまことに情けない失態なれば、幾度でもこの腹を――」 「何も腹を切れなどとは申しておらぬ」 信玄は涙交じりの幸村の言葉を遮った。今日だけで三度目である。 世間一般であれば三度も言葉を遮るというのは多い部類に入るのであろうが、 相手がこの純情を極めたような青年であればそう珍しいことではない。 許しを請うように自分を見上げている幸村に、信玄は厳かな声を保ったまま告げた。 「そうさのう……三日後、或る姫が遊学から戻って来ることになっておる。 その姫の相手をする者を探しておったのだが―――逃げてくれるなよ、幸村」 ぎゅっと口元を引き締め、幸村は無言で頭を下げた。 ◎ ◎ ◎ 「が弁丸の嫁御になれば、びわも、ももも、食べほうだいだ!」 弁丸はの両手を取って、きらきらした目で見つめた。 は水瓶の陰からでもわかるほどにっこり笑うと―――「やだ!」と、言った。 「ねえ弁丸、の夢、おしえてあげる」 きょとりとした弁丸に構うことなく、は弁丸の温かい手のひらに包まれた両手を引き抜いた。 そのまま蓋をした水瓶によじ登り、両手を腰にあてた姿勢――要するに、仁王立ちをする。 「はねえ、えらい人のお嫁さんになるのが夢なの! のおうちはそんなにえらくないから、がえらくしてあげるのよ!」 「えらい人?それは弁丸のうちでもかなわぬか?」 「だめ!弁丸のおうちも、のおうちといっしょでしょ! はねえ、おやかたさまのお嫁さんになるの!」 「おやかたさま…」 「おやかたさま!」 えいっと勢いをつけて、が水瓶から飛び降りる。 幼い声での「おやかたさま?」「おやかたさま!」の二重唱が庭に響き始めた。 お館様。信玄公。甲斐の虎。その通り名には幾通りもの種類があるが、 どれを取っても、本人のあの圧倒的な雰囲気にはまだまだ足りない。 お館様、いずれ弁丸の主となるべき御方。 嫁になれと言ったのを一も二も無くすっぱりと両断され、落ち込む気持ちが無いわけでは無い。 しかし弁丸の幼い心はそれが何であるかを解さず、それどころかどくりどくりと昂ぶり始めていたのだった。 「べ、弁丸だっておやかたさまが好きだ!だけのお方ではないぞ!!」 「の方がおやかたさまのことだいすきだもん!」 「弁丸だっておやかたさまが!」 「だっておやかたさま!」 「おやかたさま!」 「お、や、か、た、さ、ま!!」 「ぉおおやかたさ、い゛たいっ!」 弁丸が涙目で背後を振り向くと、柄杓の柄を握り締めた佐助が 「びわを盗んだ悪い子だーれだ?弁丸さま、さま?」と、笑顔で立っていた。 しかしその目が笑っていないのを見て、後頭部を抱えたまま弁丸はさっと顔色を変える。 状況がいまいち掴めていないは、純粋に佐助に追いつかれたことに驚いている。 けれども佐助は忍。最初からふたりの隠れ場所など見当がついていただけのことだった。 米俵を抱えるようにふたりを小脇に抱え、佐助は厨の女中のもとへびわ泥棒を届けに足を踏み出した。 しかし、いくらびわをくすねた小僧っ子たちより一枚も二枚も上手の佐助であろうとも、 このときから弁丸、後の幸村の深層心理に「おやかたさま!!」の掛け声が根付いたのだとは、知る由も無い。 ◎ ◎ ◎ 躑躅ヶ崎館での一件から三日後。 「た、謀ったな佐助!謀反であるぞ!」 「ちょっとー、物騒な言い方しないでくれます?」 猿飛佐助は頬を引き攣らせながら主人の襟首を掴んでいた。 その主人はというと、いつもより上等な着物を着せられたまま、廊下の柱にしがみついている。 これが他国に若虎だとか虎の若子だとかの異名で畏れられている真田幸村だと言って、一体何人が信じるだろう。 「旦那、ぜったい行ったほうが良いって。ね?腹括っちいまいなって」 「いいいいいいやだ!まだ心の準備が、」 「そう言わずにさ、俺様ちょーっと下見してきたけど、すっごい美人さんだったなあ」 「美人だろうと醜女だろうと関係あらぬわ!」 それは流石に相手方に失礼だろう、と佐助はまた一層頬を引き攣らせる。 が、しかしこの主君がそう簡単に折れるとも思っていなかったのも事実。 佐助は襟首を放し、わざとらしく「はああ」と溜息を吐いてみせた。 「可哀想に、せっかく来てくれたのに顔も見ないうちからこんなに嫌がられて……」 「うっ………」 「あーあ、なら大将にお願いして俺様が貰っちゃおうかなあ、ちゃん」 その名前に、幸村の動きがぴたりと止まる。 油の切れたからくりのようにぎこちなく首を廻らせ、幸村は視線で「誰だって?」と問うてくる。 幸村のその反応に佐助は心中でにんまりと笑っていながらも、表面は悲しそうな表情を繕ったままだ。 「佐助、その、いま……誰、と、言ったのだ?」 「ちゃん」 「その殿というのは……」 「のちゃん以外にちゃんが居ますか?」 は真田と同じく武田の臣下である武門の一族であり、 当代の当主は戦場では幸村の父・昌幸の同朋として肩を並べて戦ったこともある猛者だった。 列記とした家柄ではあるのだが、如何せん真田に比べればその名の轟き方には天と地ほどの開きがあり、 言うまでもなく、地のほうはである。 。 当代当主の娘であり、幼い頃は幸村と一緒にそこら中を駆け回っていた、所謂「お転婆姫」だった。 そうと分かって安心させるのはつまらないから、と、ぎりぎりまで黙っているように指示をしたのは信玄である。 「が来ているのか!?」 「そーよ。だから言ったでしょうが、“行ったほうがいいよー”ってさ」 「それを早く言わぬからだ!そうか…か……うむ、久しい名だ!」 一瞬前まで廊下の柱にしがみついてまで嫌がっていたとは思えないほど、幸村は意気揚々とした表情である。 これからまた追いかけっこでも始めようってんじゃないだろうな、と佐助は密かに不安になった。 幸村としては久々の幼馴染との再会くらいにしか思っていないかもしれないが、 信玄がここまでお膳立てを整えたということは、これはもう立派な「縁談」なのだ。 勇んで踏み出した足を、しかし幸村は一歩だけで止めた。 もう一歩踏み出せば奈落に落ちるとでも言われたかのように、ぴたりと静止する。 「………………」 「……ちょ、旦那?どしたの?」 「………何を…話せば、良いのだ、佐助ぇ!!」 突然ぐるっと振り向き、幸村は叫んだ。 段階的に大きくなっていく声に、佐助は「これは新技か」と胸中で思う。 つまりは幸村とて、これがただの幼馴染の再会だけで済むとは思っていないのだろう。 もしそう思っているなら「さあ一緒に稽古をしよう!」の一言で済む事である。 それをわざわざ話をするつもりでいるのだから、少しは成長したと言えるかもしれない。 佐助はふっと笑い、切羽詰った表情をした幸村の頭を軽く撫でた。 「だいじょーぶ、そんながっちがちにならなくてもさァ、 別に祝言の日取りを決めるとかいう訳じゃないんだし、昔話でも楽しんでくればいいんじゃん?」 「そ、そうであろうか」 「だってねえ、相手は“あの”ちゃんよ?」 “あの”という部分を些か強調させて言うと、幸村も苦笑いで応えた。 というのは竹刀を持ち出し、池に飛び込み、登った木から降りられなくなった経歴の持ち主である。 もしかしたらも自分と同じように言いくるめられたのかもしれない、と幸村は思った。 そうであれば、お互い気楽なものなのだが。 「ほらっ、分かったら行ってきなって。女の子待たせるもんじゃないよ」 「……佐助は来んのか?」 「忍がおおっぴらに出る場面じゃないでしょーが。 でもまあ、お茶の用意するように厨に声かけたら護衛にはちゃんと行くからさ」 「わ、わかった!……で、どこに行けばいいのだ?」 「西の廊下の角部屋。間違えないようにね」 小さく頷き、幸村はぎこちない足取りで西の廊下へ向かった。 |