幸村は頭を熱に浮かされたような気分だった。 室を娶るつもりなど、まだ毛頭無かった。それなのにこのような状況に追い込まれて、とても逃げ出せそうにはない。 彼としては、女子が憎いというわけでもないが、特別愛いとも思わないのだ。 ただひとつ、この状況で救いがあるとすれば、引き合わされるのが昔馴染みであるということだろうか。 互いに武田臣下の将を父に持つ身であることと歳の近さが幸いして、幸村とは幼馴染と呼ばれる関係にあった。 しかしそれはもう遠い昔のことであり、幸村の記憶にはのおぼろげな顔かたちしか残っていない。 なぜそのように記憶が遠のいてしまったのかといえば、それはが京に遊学に出てしまったからに他ならない。 琴だったか胡弓だったかを学んでいると聞いたのは遡ること数年前、の裳着が済んで少し経った後のこと であるが、青年期というのはその数年間のうちに身体的にも精神的にも劇的な変貌をもたらすものであるため、 当時の記憶が現在のの姿に合致しているかどうか、定かではない。 そもそもの姫であるならば、本来は遊学などせずとも指南役を雇って然るべきなのだ。そこを父親に頼み込んで わざわざ京にまで繰り出したと聞いたとき、幸村は「何ともらしい」と感想を持ったものだった。 そのが、帰ってくる。 彼女と会えるということは喜ばしいことであり、また少し尻込みしてしまうことでもあった。 何せまだ幸村が弁丸と名乗っていた時分に、何度か取っ組み合いの喧嘩で負けたことは苦々しい記憶として そこだけ鮮明な映像が脳裏に焼き付いているのだから。 幸村は目当ての部屋の前で足を止めた。佐助が追いついてくる気配は無い。もしや天井裏に潜んでいるのでは、 と瞼を閉じて気配を読むが、それこそ昔馴染みである気配を感じ取ることは出来なかった。ならば、 ひとりでこの試練に立ち向かうしかない。 瞼を閉じたまま一度浅く呼吸を整え、障子の向こうへ「御免」と声を掛ける。 「某は武田家臣が一、真田源次郎幸村と申す。 お館様より姫の案内を仰せ付かったゆえ、不躾ではあるが姫と目通りさせて頂く」 言うや否や、幸村は戸を引いた。 真っ先に視界に映ったのは、戸が開いた拍子に靡いた、柔らかそうな絹糸の髪だった。 背中までの長さを無造作に揺らしているだけなのに、粗雑であったり、無粋な印象は無い。 その絹糸の持ち主である女性は、きょとりとした表情で幸村を見ていたが、 すぐに思い出したように手中にあった扇で口元を隠した。 初対面の相手を見るような彼女の様子に、ようやく慌てたのは幸村である。 なら問題ないかと思って勢いで障子を開けたが、この反応ではどうやら人違いだ。 「―――す、すまぬ!申し訳無い! 某としたことが部屋を間違えたようだ!この幸村の無作法をどうか許してくだされ!」 「あの…」 「申し訳御座らん!!」 幸村は室内に背を向け、ぴしゃり!と障子を閉じた。 心臓が弾け飛びそうなほどに暴れていた。幸村はいつものように「叱って下されお館様!」と叫びそうになるのを、 客の手前ということでぐっと堪え、早足で元来た廊下を引き返し始める。 佐助が誤った部屋を教えたのか、それとも幸村が部屋を間違えたのか。どちらかは分からないが、 とにかく幸村の脳髄は先ほどの部屋に居た女性をでは無いと判断した。 「――あっれぇ旦那、どこ行くのよ?ちゃんは?」 「佐助!お、お、俺は何という失態を!!」 幸村が廊下を逆走し始めてすぐ、数個の湯飲みと、茶請けであろう菓子を載せた盆を片手で器用に支えた佐助が現れた。 女中でもないのにお茶運びを頼まれてしまった理不尽さを愚痴ろうとしていた佐助はしかし、 何故かこの数瞬の間にひどく狼狽してしまった幸村を目に留めると怪訝そうに眉を顰めた。 「ちょ、待って旦那、何でもいいから襟掴まないで!零れる零れる」 「べ、別人であったぞ!部屋を間違えたのやもしれん……いや、そうに違いない! なのに俺は、かと思って挨拶もそこそこに障子を開けてしまった!!」 「えええー、部屋間違えたの?一本道なのに器用な人だねえ」 幸村は「器用不器用の問題ではない!」と切羽詰った声を出すが、佐助はへらりと笑う程度である。 もしや佐助が自分にわざと違う場所を教えたのではないかと幸村が疑い出したのを敏感に感じてか、 佐助は「じゃあ案内しましょうか?」と言い出した。 幸村より幾らか年上の忍は、やはり片手で器用に盆を支えたまま幸村の数歩先を歩く。 先ほどの自らの失態を思い出して赤くなったり青くなったりしている幸村は、 佐助の進行方向が先ほど自分が戻ってきた廊下、 つまりいきなり障子を開けて驚かせてしまった女性の居る部屋の方向だということに気付いていない。 やがて佐助は足を止めた。 「さま、お茶と真田の旦那をお持ちしましたよ」 佐助は廊下に膝をつき、盆も一度置いてから障子を開けた。滑るように音もなく、障子が幸村の目の前で動く。 幸村はぎゅっと瞑った瞼を恐る恐る開きながら、両の拳を握り締めて気をつけの姿勢をとった。 細い視界に映るのは、やはり柔らかそうな絹糸の髪。着物の襟元は表色が紫黒、裏色が青の吾亦紅の合わせで、 軽く香るのは練香であろうか、白梅の上品な芳香である。 「幸村さま、」 「……は?」 先ほど違うと判断した女性が目の前に居ることで幸村の思考回路は混乱した。 それでも佐助はお構い無しに部屋の中に入って行くし、女性も人違いであるとは言わない。 幸村は気をつけの姿勢のまま視線を左右に振って、誰かこの状況を説明してくれないものかと考えあぐねた。 自分は部屋を間違えた。なので佐助が案内すると言ってここに来た。 そこに居たのは先ほど出会った淑やかそうな女性である。 では自分は部屋を間違えてはいなかったのか、それとも瓜二つな女性がいま此処にふたり存在しているのか。 「幸村さま、先ほどは突然の事で失礼な態度を取ってしまい、 そのせいで無用な混乱を招いてしまいましたことをお許しください」 「あ、いや……?」 「わたくしも幸村さまとお会いするのはまことに久しゅう御座いますから、 幸村さまが斯様にご立派な御方となられていたことに少々驚いてしまいました」 女性は髪を揺らしながら、まだ廊下に立ち尽くしたままである幸村の正面を向いた。 そして畳に指をついて、ゆっくりと優雅に頭を下げる。 佐助は盆を持ったままそんな彼女を横目で見て、少し感心したような表情をしていた。 「改めまして、まことにお久しゅうございまする。にございます。 此度のご戦勝、幸村さまは一騎当千のご活躍であられたと聞き及んでおりますれば、 の名代として、父からも心よりお慶び申し上げるとの言付けを預かった次第でございます」 「そ、れは……か、かたじけない」 と名乗る女性は静かに面を上げ、口元を少し綻ばせ、 がちがちに固まっている幸村に「どうぞお入りくださいな」と声を掛けた。 その響きに幼い頃の面影がわずかに感じられて、幸村もようやく足を動かす。 よく見れば、声以外にも幼い頃の面影は目鼻立ちにも残っていた。 しかしその頃からは想像できないほど静かな物腰と口調のせいで、 まだ目の前の女性ととが等号では結びつかない。 そんな幸村の戸惑いを感じ取ったのだろう、はくすりと笑った。 「幸村さま、どうなさったのです?」 「い、いや!何でもないのだ!! ただ……その、某の想像していたとは違っていて…」 「まあ、幸村さまはわたくしがまだ枇杷を盗むような童だとお思いでございますか?」 言外に「もう子どもではない」のだと言われ、幸村は顔を赤くして視線を逸らした。 そのまま視線で佐助に助けを求めるが、湯飲みと菓子を給仕している忍には溜息で返されてしまう。 幸村はに向かい合うように座った。身を小さくしていると、目の前に湯飲みと菓子が置かれる。 西の廊下の角部屋である此処に居るのは、幸村と佐助とと、見知らぬ女中の四人だった。 最後の女中はそれなりに上等な着物を着ていることから、の付き人なのだろうと予測が出来る。 厳格そうな顔をした、老年に片足を踏み入れかけている女性だった。 「…姫、この者は?」 「佐助さんよ。猿飛佐助さま。お前も聞いたことがあるでしょう? 真田の御家に仕える忍隊の長をしていらっしゃるの」 その女中が佐助に訝しげな視線を遣りながらに訊ねると、は何でも無い事のように答えた。 佐助はが自分を覚えていたことに少し驚きながら、女中に対して軽く頭を下げてみせる。 しかし女中は訝しげな視線を今度は探るような視線に変えるだけで、会釈を返そうとはしなかった。 幸村にとって「忍」というだけで人間性をも否定するような女中の態度は癪に障るものだったが、 名目上は客であるがために拳を握り締めるだけで堪えた。 「は!……きょ、京へは琴を学びに行かれたので御座ったか?」 「左様にございまする。 幸村さまは何か楽器を嗜まれるのですか?」 「某はそれよりもお館様との稽古の、ほう、が…… あ、いや、すまぬ!その、武芸以外を軽んじているのではないのだ!!」 咄嗟に話題を変えようと京の話を振ったはいいが、幸村とて別段取り立てて楽器に興味があるわけではない。 佐助は気を使って部屋から出て行こうとするような素振りを見せるが、幸村は「行かないでくれ」と視線を 遣って引き止めた。ひとりでこの場を切り抜けられる自信は、毛ほども無い。 はその様子を静かに見ていたが、やがて女中に「お前、」と声を掛けた。 「お前、わたくしの琴を持ってきて頂戴。小さい方の葛篭の奥にあるから」 「え、ちょっと、そういう雑用は俺たちに――」 「いいえ、それはなりませぬ! 姫の琴は姫の宝、草者に触れさせるわけには参りませぬ」 佐助の言葉を遮って、女中は勇んで立ち上がる。は「頼むわね」とだけ言うと、涼しい顔で 女中が部屋から出て行くのを見送った。 女中が去ってしまうと、は先ほどから全く手をつけようとしなかった湯飲みに手を伸ばした。 小振りな動作で飲み下すと、溜息を吐いて頭を下げる。 「わたくしの女中が失礼をはたらきまして、まことに申し訳ございません。 幸村さま、佐助さま、どうぞ今回ばかりは古馴染みのわたくしに免じては下さりませぬでしょうか」 「お、おおお面を上げられよ! 某も佐助も気にしてはおらぬ!なあ佐助!」 「そーですよ、やだなあもう姫さまってば! どっちかってーとその猫ッかぶりのほうが気になるって話ですよ」 は驚いた顔で佐助を見る。無言で見つめ合うふたりに幸村は「こら佐助!」と慌てているが、 やがてのほうから視線を外し、またひとつ溜息を吐いた。 「………やっぱり佐助にはばれちゃうかぁ」 「道中の護衛をしたの、誰だと思ってるんです? あのおっかないお目付け役が居ないときくらい、楽にすればいいんですよ」 「じゃあ佐助もその敬語を止めてよね。 昔はわたしにも弁丸にも容赦なく拳骨だったんだから、今さらでしょ?」 「あー、枇杷泥棒ね。なっつかしい話だよ、ほんとにさ」 目の前で展開する談笑的な雰囲気に、幸村は目を丸くした。 さっきまで畏まった口調で喋っていたは、少しだらしなく姿勢を崩し、座卓に肘を突いて菓子を眺めている。 いったいこれはどういうことだと、幸村の頭の奥が理解不能の警鐘を鳴らした。 「―――ま、待て待て待て待て!話が見えぬ!俺を置いて行くな!」 置いていかれまいと必死に放った言葉は、佐助との呆れたような笑い声で掻き消された。 ◎ ◎ ◎ 要するに、さっきまでのはお付きの女中の前で猫を被っていたのである。 それはひとえにお付きの女中を黙らせるためであり、またの家との約束でもあった。 遊学に出る許可を与える代わりに、京で女の嗜みを学んで来い、と、つまりはそういう事だった。 数年間の京滞在により、は武家の姫として恥じない程度の態度を繕う術を身につけたが、 その本質はといえば「お転婆姫」だった頃に比べても何ら変わりない。 「しかしなぜ遊学に出ようなどと思い立ったのだ?」 「家出したかったのよ」 昔と同じように喋るにすっかり安心し、幸村もごく自然体に振舞うことが出来るようになった。 お付きの女中が戻ってくればそれも終わってしまうが、琴などという大きな道具を運ぶように 言いつけられたためまだ戻ってくる気配はない。そこで尋ねてみれば、至極簡素には言う。幸村は茶請けの菓子を頬張りながら、その思い切った返答に眉を顰めた。 「ねえ、覚えてる?わたしの夢。 お館様に嫁ぎたいって言ってたでしょ?」 「む。そう言われればそうであったやもしれぬ」 「それを父上に申し上げたら、こっぴどく叱られてしまったわ。 ただでさえうちは目立った評価も無いのに、わたしのように女らしさの欠片も無いのを お館様に差し上げられるわけがないって。あんまり悔しかったから、見返してやろうと…… だから琴を学びたいとか、胡弓を学びたいとか、そういうことは全部後付けの理由なのよ」 でもねえ、と、は草餅を一口大に切り分けながら言葉を続ける。 「京に出て、お館様の偉大さを改めて知ったわ。 天下の情勢に変化があったときには、武田の領地のことも話題になるの。 そうやって、お館様はわたしなんかがお相手出来る御方ではないと思い知ったのよ」 「おお!お館様は京でもその名を轟かせているのだな!」 噛み合っていない会話に、佐助は胸中でこっそり笑う。 は信玄への恋慕を諦めた辛さをひたすらに語り、 幸村は信玄の名が全国に響き渡っていることにしきりと感心している。 このふたりは幼い頃から似たもの同士だとは思っていたが、 何も折角設けられた見合いの場でまで信玄公への思いの丈を語り合わなくてもよさそうなものだが。 やがて静かな足音が近付いてきて、琴を抱えた女中が戻ってきた。 「――姫、ご所望の物を……っ姫! 斯様なはしたない姿勢は改めなさいませと何度申し上げれば…」 「ごめんなさい、気を抜いてしまったわ。 幸村さま、佐助さま、見苦しいところをお見せして申し訳ございません」 女中がやって来た途端に背筋を伸ばし、語調までがらりと変化させるに、 幸村と佐助は顔を見合わせて苦笑する。女中は未だ幾らか不満そうだが、一見 しおらしい態度を取るにそれ以上小言を言うことはなかった。 「幸村さま、佐助さま、よろしければわたくしに琴を披露させてはくださいませぬか? 拙い腕前ではありますが、師範より皆伝の太鼓判を授かっておりますゆえ、 日頃の激務の息抜きにでもなればわたくしも嬉しく思う所存でございまする」 「うむ、此方もぜひ聞かせて頂きたいと思っていたところだ」 「何かお好みの曲はございますか?」 「某はその道には疎いゆえ、特に希望のものはないのだが… だが、そうだな。の最も得手とする曲が聞きたい」 は両手に演奏用の爪を嵌め、ふわりと笑った。 ◎ ◎ ◎ 琴の音が響く部屋をそっと辞し、佐助は天井裏に身を隠しながら駆けた。 向かう先は、この見合いもどきのお膳立てを整えた信玄公の居室である。 「大将……あれ、の旦那もいらしたんですか」 佐助が天井裏からそっと声を掛けると、信玄との父親が待ちきれないような顔で出迎えた。 本来は主従の間柄であるが、今日この時だけはそれをも取り置き、男ふたりは佐助の報告を 揃って待ち望んでいたのである。 「して佐助、首尾はどうだ」 「いー感じなんじゃないですかねえ。今は姫がお琴を披露してらっしゃいますよ」 その言葉に、信玄との父親は視線を合わせてしっかりと頷いた。期待通りの結果である。 「うむ、ご苦労であったな!後は此方で話を進めておく。 よいか佐助、くれぐれも直前まで幸村には漏らすでないぞ!」 「わぁーかってますって」 浮き足立つ甲斐の武将ふたりを半目で見送りながら、佐助は小さく息を吐いた。 主には一日も早く落ち着いてもらいたいとは思っていたが、このような形で 自分が実質的にだめ押しすることになるとは予想していなかった。 「……悪いね旦那、これも謀反って言うのかねえ…」 凝りを感じて首を回すと、ごきりと音がした。 |