「おぅい慶さん、あんたに文が届いてるよ」 花の都、京都。 一週間ほど前に妓楼で知り合い、意気投合した銀細工師の家の縁側に寝そべっていた慶次は、家主の男が自分を呼ぶ声に 身を起こした。念のために言っておくが、ただ飯食らいではない。家主の男の見事な細工を狙う盗人たちを退治する、 用心棒として置いてもらっているのだ。 それはさて置き、彼は、文が届いていると言ったか。 「また恋文かい?今月だけでもう三度目じゃないか」 「へへっ、いいだろ?でもひとりに決められなくて困っちまうんだよなあ」 「まあ、その文は藤屋の女将からだけどな。おれならご勘弁だよ」 男がにやりと笑って、綺麗に畳まれた和紙を差し出す。慶次は「げっ」と呟いてそれを受け取った。 藤屋というのは慶次がよく通う芝居茶屋で、少なくない額の『つけ』があった。そこの女将からの文ということは、 まさかその支払いの催促だろうか。ちなみに女将は知命(五十歳)を迎えて早幾年の熟女である。 支払いの催促であっても困るが、恋文であっても困る。 にやにやする銀細工師に背を向けて、慶次はそっと封を解いた。 慶次さま 一筆申し上げます 吹く風もさわやかな好季節となりまして、あなたさまもすっかりお悦びのことと存じ上げます。 此度文を差し上げましたのは、ついぞお別れの挨拶を申し上げられなかったゆえにございます。 まだ拙いわたくしめの琴をあなたさまが一番に褒めてくださったことは、良き思い出にございます。 あなたさまは、わたくしがどこかの姫ではないのかと、いつも仰っていましたね。 最後まで嘘をつくのは忍びなく思いますので、ほんとうのことを申し上げましょう。 わたくしは、甲斐の国の武家の娘でございます。 とは申しましても、ほんとうに小さな小さな、名もなき家でございます。 あなたさまがお家を出た“風来坊”であるのと同じように、 わたくしもまた、家を飛び出した“女風来坊”なのでございました。 家出の理由までは、どうかお訊ね申さないでくださいませ。 京での生活はまことに有意義でございましたが、父や母に長く心配をかけるわけには参りません。 師匠から皆伝のお言葉もいただきましたので、わたくしは甲斐に戻ることと相成りました。 実は、この文を書いているのは、お館様に帰還のご挨拶申し上げた日の夜でございます。 あなたさまにも何度かお話ししました幼馴染たちとも再会致しました。 父や母もあたたかくわたくしを出迎えてくださり、家はやはり良いものだと、実感しております。 差し出がましいことではございますが、あなたさまも偶にはお家にお帰りくださいませ。 さて、どうやらお館様と父は、わたくしと幼馴染を引き合わせようとしているようなのです。 彼は幼い時分に比べ、ほんとうに立派な殿方になっておられました。 日の本一の武士になられる日も近いのではないかと、女子だてらに思う次第です。 わたくしが彼のお家に輿入れすれば、いつあなたさまと敵対するやもわかりませぬ。 喩えその日が来ても、わたくしは都での日々を良きものとして思い返すことでございましょう。 ですからどうか、あなたさまもわたくしの門出を祝ってくださいませぬでしょうか。 甲斐にお出でになられることがおありでしたら、どうぞ尋ねて来てくださいませ。 天候定まらぬ季節柄、どうかご自愛を専一になさいますよう。 かしこ 甲斐国武田一門弐之姫、 慶次は文末にまで目を通し、「ぶはは!!」と笑い出した。家主の男は慶次のその大声に、思わず身を竦ませる。 「なんだいなんだい、近頃さっぱり見かけなくなったかと思えば、 やっぱりお姫さまだったんじゃないか!それも、甲斐――虎のお膝元とはねえ!」 「け、慶さん?」 「あ、いやね、藤屋の女将が可愛がってるってお弟子さんが居たろ? おれさあ、あの子はただもんじゃねえって思ってたんだ。そしたら、どんぴしゃ! “あの”がお輿入れ、ねえ……ぶはっ!似合わねえなあ、おい!!」 男が「痛いよ慶さん」と文句を言うのにも耳に入らず、慶次は銀細工師の背中をべしべし叩いて笑う。 恐らくこの文は、決まった宿を持たない慶次に確実に届くようにと、が女将へ宛てて出したのだろう。 どうせ慶次は三日ないしは五日に一度は藤屋に顔を出すのだから、と。気を回してわざわざここまで届けてくれた あたり、女将の人の良さが窺える。これだから慶次は、藤屋に通うのが止められないのだ。 「あー……笑った…腹が引き攣るよ、ほんとに… ―――よしっ、決めた!おれ甲斐に行くよ。そんであいつの白無垢ひやかしてくる!」 「はあ?ちゃん、お嫁に行ったのかい?わざわざ甲斐くんだりまで?」 「そうそう、わざわざ甲斐くんだりまで!水臭いよなあ、一言も挨拶無しで。 ま、だからこの文が届いたんだろうけどさ。おれがぶらぶらしてたってのもあるし」 慶次は文の末尾を見て、目を細める。『甲斐国武田一門』、とくにその家名を聞いたことは無いが、 文中に“お館様に帰還のご挨拶申し上げた”とあるくらいだ、信玄公に目通り出来る程度の地位はあるのだろう。 それに、もうひとつ気になる一文がある。 (――…“日の本一の武士”、ねえ……) どこかで聞いたことがあるような。 ◎ ◎ ◎ 上田城の一室、見るからに上等な袴を着付けられながら、幸村がぽつりと呟いた。 「どこでこうなったのであろうか」 「………………」 「なあ佐助」 「……………うん、ごめんね」 落ち着いた声で自身の名を呼ぶ主に困惑し、咎められたわけでもないのに佐助は謝った。 どこでこうなったと聞かれても、きっと初めからこうなる運命だったのだろう。 幸村が真田の次男として生まれ、がの次女として生まれた、その瞬間から。 先日の見合いもどきから十日、恐らくは史上例を見ないほどの手早さで二つの家は話を取り纏め、 この日を迎えていた。つまり嫁入りの祝言である。 直前まで報せてはならないという信玄の言いつけを忠実に守った家臣一同の団結力のおかげで、 幸村がこの決定を侍従から聞かされたのはわずか二日前であった。 ( 「今日はお着物が仕立て上がって参りますゆえ、丈合わせをせねばなりませぬ」 「なんの着物だ?俺は仕立てよなどと命じた覚えはないぞ」 「幸村さまの婚礼袴でございますよ」 「は?」 ) この後、困惑した幸村が信玄のもと駆け込み、祝いとばかりにいつもより高く遠くへ殴り飛ばされていくのを、 佐助は生暖かく見守った。本当にこれ、大丈夫か、と。 恐らくは様々な衝撃的な現実のせいなのだろうが、幸村は二刻ほど伸びたままだった。 そこをすかさず、侍女たちが布団でも被せるように幸村の体に着物をかけて、丈の長さを確認したのが一昨日の話。 政務中に突然「無理で御座る!!」と叫んで逃げ出そうとしていた昨日とは打って変わって、今日の幸村は静かなものだ。 もう逃げられないと悟ったのだろう。 「俺はなにか道を誤ったのだろうか」 「……あの、ごめんね、まじで」 戦略を練っているわけでもないのにこうも静かな主は、不気味だ。 着付けられていく幸村を、壁に寄りかかって眺めながらそんなことを思う佐助の耳に、 「長」という小声が届いた。視線は正面のまま、佐助は意識だけで天井を仰ぐ。 「……なに」 「弐之姫さまはご無事に出門なされました。二刻も掛からず到着されるでしょう」 「……りょーかい。最後まで気ィ抜くなよ」 ごく小さな肯定の返事を残し、部下は気配を絶った。佐助は数歩分だけ足を動かし、 障子の向こうに声をかける。 「姫さまが出門なさったそうだよ。 二刻も掛からないだろうってから、そろそろ門火焚きの準備しないと」 「御意にございます」 控えていた侍女が小気味よい足音を立てて去っていく。 余談だが、なぜが弐之姫と呼ばれているかというと、単にの次女だからというわけではない。 まるで男勝りな幼少期の彼女にほとほと困憊した当代当主が、 「此の子は男子に生まれるべきであったのだろうか」と呟いたという噂が拡がり、 最終的に『今回のの子は次女であって次男でもあるそうだ』という話にまでなったのが大元にある。 「……はこれで良いのだろうか」 「それは姫さんに直接聞いてくださいよ。 時間ならこれからたーっぷりあるでしょ?それこそ今夜から」 「っ―――、ああああああもう無理だ!! お、お、お前は俺の心の臓がぶち破れても構わぬと申すのか!!」 「構う構う。すっげー構う。俺様お給料貰えなくなっちゃうじゃん」 今にも壁に頭を打ちつけようとする幸村の襟首を捕まえ、佐助は飄々と言い放った。 耳まで赤くなった顔をした雇い主に睨まれたところで、ちっとも怖くはない。 「大体さあ、旦那だって姫さんのこと好きでしょ? 他の男に盗られなくてよかったってことでいいじゃん」 「だ、誰がいつそのようなことを申した!」 「あっれぇ、『大きくなったら弁丸の嫁御になれ!』って言ったのはどちらさんでしたっけ?」 幸村は何のことかと首を傾げ、次の瞬間には目と口を大きく開いて「なぜそれを!!」と叫んだ。 あの枇杷泥棒事件のとき、佐助はそれなりに離れた場所に居たのにも関わらず、その会話をしかと耳にしていた。 たとえ出で立ちのせいで目立っていようとも、佐助は忍であるのだ。 ちなみにそれを報告したときの信玄と昌幸の笑い様は、いま思い出してみても五本の指に入るほどの“大爆笑”だった。 「で、約束通りお庭に果樹園造るつもり?」 「造らぬわ!庭のどこにそのような土地が余っておる!」 「うそっ、俺様けっこう楽しみにしてたのに」 佐助が言うと、幸村は恨めしそうに見上げてくる。 これでいい。佐助はほっと胸を撫で下ろした。あんまり緊張しすぎて、二刻後には倒れてしまいましたでは話にならない。 こうして軽口を叩き合っている間にが到着してしまえば、後はこっちのものだ。 ◎ ◎ ◎ 門火の灯りが宵闇を切り裂き、上田城にはひとりまたひとりとその灯りを目指して客がやって来る。 彼らは一様に上等な着物を身につけ、明るい表情をしていた。中には祝い酒を持参している者まで居る。 この城下町に住む庶民たちもまた、城主がついに御正室を娶られるということで、どこか浮き足立っていた。 やがて登城者の途切れる頃、質素ながらも上質な飾りを施された輿が、大手筋に姿を現した。 先頭を率いるのは嫁迎えの儀に遣わされた真田の家臣二名で、続いて輿、引き出物を容れた籠、侍女たちである。 輿はそのまま大手門をくぐり、二の間、三の間まで担ぎ入れられてゆく。 輿寄せの儀が済み、が輿から降りると、すぐに真田の侍女房がやって来て脂燭に火を灯して出迎えた。 頭を下げる彼女たちに軽く頷いて見せ、先導するように促す。 不気味なほど白い着物をするすると滑らせながら、は徐々に城の奥へ奥へ案内されて行く。 やがて侍女房たちが立ち止まり、煌びやかに絵を入れた襖の両脇に膝をついた。 今回のために祝言の間に設定された、城内から庭の景観が最も良く見られる部屋である。 頭部に被った角隠しが落ちるんじゃないかと内心でひやひやしながら、は侍女房が襖を開けるのを待った。 す、と音も立てずに襖が開く。 今か今かと待ち望んでいた客たちの視線が一斉にこちらを向き、「おお」と小さなどよめきが起こった。 端の上座には国主である信玄公が座し、次いで武田軍の勇将たちが席を連ねている。 伏目がちにゆっくりと座敷の真中を歩むは、その歳若さ故の贔屓目を除いても十分に美しかった。 よくもあの『弐之姫』がここまで立派な“武家の姫”に化けたものだと、老境に差し掛かった者たちは胸中で思う。 その姿に自らの娘が嫁いで行ってしまったような寂寥感を抱くのと同時に、 婿があの“紅蓮の鬼”だとか“虎若子”だとか異名を取る割には女気の無かった真田の小僧であることが愉快にも思われる。 が上座について少し経つと、再び襖が開いた。 客たちがの時と同じように高揚した視線をそちらに向けると、幸村がびくりと肩を震わせた。 若い婿の両頬にはなぜか赤い手形がついている。いや、なぜかというか、恐らくは自分で自分に気合を入れるために 二度か三度かあるいはそれよりも多く頬を叩いたのだろう。 丹精に着付けられた姿でそのような暴れ業に及ぼうとする幸村を引き留め宥めすかしてここまで連れて来た 佐助の苦労を考えると、信玄は「あいつにも褒美が必要かのう」と思わざるを得なかった。 口許を引き締め、しかし視線は定まらないまま、幸村は部屋を横切った。 幽霊のように白一色のの横にどかりと腰を下ろすと、彼女は幸村のほうを横目で見て、少し笑う。 それが号令であったかのように、祝宴が始まった。 侍女たちが幸村との両人に盃を配り、ふたりがそれを三度ずつ仰ぐ式三献の酒式が済んだあとは、 あまり堅苦しくしては幸村が途中で逃げ出して戻って来れなくなるかもしれないという配慮によって、 極普通の宴の様式に従った。 戦勝の宴などに比べて違うのは、床の間の前の上座が信玄ではないことと、 お膳の盛り付けがより凝られていることくらいだろう。 「幸村殿、まことにめでとうござるな!」 「之ほどお美しい姫は近頃お見かけしたことがござりませぬぞ!」 「―――か、かたじけ、な、い」 「ほれ幸村殿、たんとお飲みなされ。夜は長う御座りますよ」 「やっ、や、山県殿!!!」 「はははは!その真ッ赤な顔、正に“紅蓮”の鬼であらせられる!」 「そっ――のようなことは御座らん!!」 幸村は「破廉恥!」と叫びそうになる口に手を覆い被せたり、酒を一気に飲み干したりして、 自覚できるほど赤い顔を誤魔化そうとした。にやにやと、楽しそうというか面白がっている ような表情をした馴染みの武将たちの言葉が、次から次へと流れ込んでくる。 (――もう良い。もう知らぬ。どうとでも成れ!!) 手渡された酒瓶を一気に傾けると、あちこちから拍手が涌く。 は穏やかな笑みを貼り付けたまま、そんな幸村のことなど構わずに、ただ煮豆をつまんでいた。 |