好い塩梅に酔いが回り、自分がなぜこんなにも酒を呑まされているのかも分からなくなり、
「きっとお館様が天下を取られた祝いの宴に違いない」という都合のいい解釈をした幸村の脳は、
酔い醒ましにと湯浴みにやられても信玄公の天下から脱却することは出来なかったのだが、
寝所の襖を開けることで、それはもう見事に現実に戻ってきた。 「幸村さま」 「………………な、……!!」 なぜここに、と叫びそうになるのを必死で飲み込む。 壁を丸く刳り貫いて造られた窓の傍らに立ち、が城下を見下ろしていたのだ。 の薄い色の襦袢からさっと視線を外すと、幸村は頭から血の気が引いていく音を聞いた気がした。 なぜがここに居るのか、なぜ佐助が「そんな酔っ払ったままじゃさすがにまずいっしょ」と言ったのか、 なぜ自分はあんなにも酒を呑まされたのか、なぜ今夜は宴会だったのか、 現在に近いことから徐々に記憶が戻ってくる。そこに『信玄公が上洛したから』という答えは無い。 そうだ。そうだった。今宵をもって、真田幸村は室を迎えたのであった。 「好い月夜でございますね」 「そ、そうか、」 「ええ。吉日の宵は月までもが輝くのでございましょうか」 確かに湯殿から見えた月はいつもより輝いているように見えが、 この状況で幸村がどうするべきなのか、月が助言を与えてくれるわけではない。 に気付かれないように、幸村は小さく深呼吸を繰り返した。心臓が暴れている。 夕刻、佐助に言ったように『ぶち破れて』しまいそうに思う。 しかしそうなったら困ると佐助が言っていたので、勢いに任せて心房を破ってしまうわけにはいかない。 ああいったい自分はどうしたらいいのか。 どうすればいいのか。本当は幸村にも分かっている。 つまり布団まで行って「こっちに来い」とを呼ぶか、の元へ行って布団まで連れ込むかしたあと、 襦袢を剥ぎ、鬼が人を喰らうが如く、柔らかそうなその四肢に齧り付けばよいのだ。 要するに問題なのは『なにをすればよいのか』ではなく、『行動に移せるかどうか』なのである。 このような苦悩をするくらいなら、今すぐここを飛び出して鍛錬を始め、 佐助に叱られるほうがどれだけ楽なことか。 しかしそれは不可能であるし、してはならないということもよく分かっている。 初夜だというのに夫から求められないことが、女子として務めを果たせないことが、 どれだけ女子という生き物を傷付けることだろう。 幸村にその具体的な傷の深さまでは分からずとも、少なくとも逃げてはいけないということだけは分かっている。 そんな幸村を嘲笑うかのように準備された一枚だけの蒲団が、なんとも恨めしい。 彼は重い足を引き摺り、夜着の置かれた蒲団に座り込んだ。枕がふたつあるのも嫌味なものだ。 「その、なんだ…………、」 「はい」 「ち、近う寄っ……ては、くれぬか」 「近う寄れ」と言い切るつもりだったが、駄目だった。 は特に戸惑う様子もなく「はい」と言って窓辺を離れた。 絹糸のようなその髪が、振り向きざまの月光で淡くきらめく。 一歩、一歩とが近寄ってくる様子が、ゆっくりと幸村の瞳に映った。 その度に馨る、白梅の上品な芳香。 が幸村のすぐ正面で足を止め、手で裾を端折りながら膝をついた。 ぴんと伸びているのに固さを感じさせない背筋と、正座をした膝に置かれた手の白さが、 月明かりを背景に幸村を圧倒する。 一際大きく、心臓が鼓動を打ち始めた。指先が震える。どくり、どくり、とうるさい音がひどく気に触る。 口の中が乾き、水が欲しくなる。どくり。どくり。心臓が跳ねる。 出来るのか、いや出来ぬなどとは言えないのだ。 これは戦だ、喩えるならば。だから退くな。退けば、負けだ。 「――――」 覚悟を決めて顔を上げ、すぐ近くにあったの肩をがしっと掴む。 しかし思っていたより顔の位置までもが近くて、幸村は顔が熱くなるのを感じた。 背中で揺れるの髪が幸村の手に触れる。その度にまた、白梅の香り。 このまま組み敷くなりなんなりしてしまえば、あとはきっと身体が本能のままに動くだろうという確信があった。 だからあと少し勇気を出せば、この苦悩も終わる。あと少し。このまま、そう、このまま。 「ゆきむらさ、ま、」 が驚いたような顔で見上げてくるのが視界に映り、 このまま突っ走ってしまえという幸村の勢いが、徐々に萎んでいく。 いま彼の手のなかにある肩は薄くて小さくて、このまま勢い任せに触れていれば、 そのうちごと蛇腹のように折り畳んでしまえるのではないかというほどだった。 もしそうなったら、は「いたい」と泣いて嫌がるのだろうか。 誰かひとが傷付くのを見るのは嫌だが、が、それも自分のせいで悲しい思いをするのはもっと嫌だ。 どうすればいい、女子に合わせた力加減など、どうすればいいのかまるで見当もつかない。 先ほどまでの逸る気持ちとは違って、焦燥感ばかりが募る。 分からない、どうすればいいのかも、がいま何を思っているのかも、 心臓が跳ねるのに気恥ずかしさ以外の理由があるのかどうかも、何も分からない。 肩を掴んだまま俯き、幸村は身動きしなくなった。 何か自分に落ち度があったのかと、はもう一度「幸村さま?」と声を掛けながら幸村の顔を覗き込む。 泣きそうな赤い顔が見えたと思ったその瞬間、幸村はから飛び退いて頭を下げた。 ごつん、と音がしたのは、気のせいではないだろう。 「―――すまぬ!そ、某にはやはり無理だ!だ、だがが悪いのではない、某が悪いのだ! 某は女子の扱い方など知らぬゆえ、に何か不都合な思いを強いるやもしれぬ。 わ、我ながら臆病者の言い訳だと自覚はしておるのだが、どうにも某は、それが恐ろしい」 「幸村さま、」 「すまぬ!まこと、面目ない! に恥をかかせようという思惑など無いのだが、しかし、!」 「幸村さまどうかお声を小さくなさりませ!」 の短くともぴしゃりとした言葉に、幸村は口を噤んだ。 ついでに、畳に押し付けていた額も少しずつ持ち上げる。 は相変わらず月明かりを背負い、困ったような顔で微笑んでいた。 「幸村さま、いったい何を恐れておいででおられるのです?」 「……だから、某は…」 「めはもうあなたさまの妻にござりますれば、さいごまでお供致しまする。 たとえ何をなされようとも、何を仰られようとも……あなたさまのお命尽きる、その時まで。 それこそが武家に生まれ、武家へ嫁ぐ、女子の覚悟にございます、幸村さま」 「だがは……好んで某に嫁いだ訳ではないのであろう?」 つい、と視線を外し、幸村は朴訥に喋った。 今のの言葉は、『嫁いでしまったものは仕方ない』と言われているように思えたのだ。 「なにゆえ斯様に思われるのですか?」 「昔…言っておったではないか。の夢のためには真田の家では事足りぬ、と。 遊学の動機にしてもそうだ。は、本当はお館様に嫁ぎたかったのであろう?」 「……まあ、相変わらず不器用な御方であられますこと」 はくすりと笑い、それでもまだ憮然とした表情の幸村を見た。 そうしてなぜか、「“虎の若子”に、“紅蓮の鬼”……」と、指折り数え始める。 「それから“日の本一の武士”と……これくらいでしょうか。 幸村さま、都に轟いておられるのは、お館様のお名前だけではござりませぬ。 あなたさまが甲斐の国の立派な武将であること、めはよく存じ上げております」 「しかし…」 「これほど立派なお家とご縁が出来て、はこの上ないほど名誉に思うておりまする。 加えてわたくしにとって、幸村さま、あなたさまほど誇れる幼馴染はおりませぬ。 めは、父上や母上が心から喜んでくださるお家に輿入れできたこと、 他の誰でもないあなたさまのもとに嫁げたこと、どちらも心から嬉しゅう思うております」 そこまで言われ、幸村はやっとの目を見た。 喋り方も物腰も昔とはすっかり違うが、それでも、その目にある素直な好意は変わらないように見えた。 十数年前もその素直な目に惹かれたのだと、なつかしい思いが湧き上がる。 「………さあ幸村さま、もう夜更けにございますよ。 このままでは夜が明けてしまいますゆえ、お早くお休みなさいませ。 本日はわたくしのために立派な宴を催して下さって、さぞかしお疲れでございましょう」 「あ、ま、待て!」 場を仕切りなおすように言い、はさっさと眠ろうと蒲団に向かう。 幸村は慌てて立ち上がると、宵闇のなかを揺れる白い腕を取った。 は足を止め、少し驚いたように振り返る。 「お、俺も、いずれは迎えねばならぬと思っていた室がで良かったと思うておる! 先ほどの、俺の命尽きるまで供すると申した言葉、まことに嬉しかったのだ!」 「もったいなきお言葉にございます」 「だ、だからっ、……今宵は、手を繋いでいても構わぬか……?」 はぱちりと瞬きし、「無論にございますよ」と笑った。 今はまだ、加減が分からないのが恐ろしいということが、幸村にとってはどうしようもなく重い。 だから少しずつ、雛鳥ほどの歩幅でいいから、本当に少しずつ慣れていきたいのだ。 命尽きるまで共にあれば、そのうち息子や娘と共に笑いあう日が来るかもしれない。 「い、嫌だったら遠慮せずに申すのだぞ」 「ええ」 「痛ければ振りほどいて構わぬからな」 「心得ました」 燭台の灯りを吹き消すと、あとはもう差し込む月明かりだけが頼りだった。 夜着を被り、の小さな温かい手を握り締めながら瞼を閉じる。 「お休みなさいませ、幸村さま」 命尽きるまで、いや命尽きようとも、この手だけは離すまい、と、幸村は思った。 ◎ ◎ ◎ 「ばっかじゃねえの?」 「ば、ばかとはなんだ佐助!」 昨夜、天井裏で事の成り行きを見守りながら何度も何度も思った言葉を、佐助はようやく吐き出した。 「だってばかだろ!なんだよあれ! せっかく姫さんが気ィ遣ってくれたってのに!ああもう勿体ねえなあ旦那はさあ!」 「う、うるさいぞ!これは俺たちめ、め、夫婦の問題だ!」 釈然としない思いを武器に乗せ、佐助はそれをぶんぶん振り回す。 対する幸村は槍に炎を纏わせて、お節介を言う佐助を追った。 普段より幾分か私情を孕んだ朝稽古の風景である。 城の者たちはそんなふたりを見て、「まあ幸村さまったら昨日の今日でお元気ですこと」 と薄ら笑いを浮かべて去って行く。佐助はそれに気付いているが、幸村は恐らく気付いていないだろう。 「幸村さま、佐助さま、朝餉が整いましてございます」 「おお!わざわざすまぬな」 洗いたての手拭いを幸村と佐助に一枚ずつ渡し、はにこりと笑う。 佐助はその花のような笑顔の裏に『ふたりだけ楽しそうにしやがって』という思いがあるように思えた。 幸村とが連れ立って朝餉に向かい、佐助は天井裏から進む。 まあ、何にせよ、主夫婦がなんとかやっていけそうな雰囲気であることは良いことだ。 「……そういえば気になったのだがな、」 ぴしりと背筋を伸ばしながらも流し込むように米を頬張るという矛盾した姿を披露する幸村が、 両頬を栗鼠のように膨らませながらもごもごと呻いた。 「幸村さま、零れておりますよ」 「む、すまぬ。朝稽古のあとはどうにも腹が減ってな。 ………で、。なぜそのように堅苦しく喋るのだ?」 「あーそれ、俺様もちょっと気になった」 がそうやって喋るときは、いわゆる『猫被り』時の態度であったはず。 ここはもう、たとえ見せかけでも淑やかな態度を望まれていた黒塚の屋敷ではないのだから、 昔のように「朝餉だよー!」と呼びに来ても一向に咎めるつもりはないのだが。 は合点がいったような顔をしながら魚をほぐしていた。 「わたくしなりのけじめでございます。 武家の妻となったからには、いつまでも“藤屋のちゃん”でいるわけには参りませぬ」 「藤屋の………何だ?」 「それはめの秘密にございます」 問答無用、と語る笑顔を向けられ、幸村は不満そうながらも大人しく引き下がった。 新婚一日目にして早くも手綱を握られている雇い主の姿に、佐助は笑いたいやら情けないやらである。 再び米を頬張りだした幸村は「おかわり!」と茶碗を差し出す。 が、は茶碗ではなく幸村の手を取り、自分の胸の前へ引き寄せた。 何事かと目を丸くする彼の顔を、は上目遣いに見上げる。 「……お知りになりたいのですか?」 「そ、れは、まあ、気になるが、」 「でしたら早く……めに女子の務めを果たさせてくださいな。 ――見たいんでしょう?……わたしの…ありのままの、姿を…」 げほっ、とむせ返り、幸村はの手を払って立ち上がった。 「なっ、なっ、なにを朝から…!!」 「ふふ、幸村さまが女子に慣れるためには実践が一番かと思われますので、 不意を狙ってみたのです。ですが、めも無理は強いませぬゆえ、 お嫌であればそうと申されなさいませ。いつ何時であろうとも油断大敵でございますよ」 そう言って笑うは、言葉だけは『猫被り』時のものであるが、纏う悪戯っぽい雰囲気は素のままである。 幸村は口を開いたが、言葉が出てこない。幸村より早く冷静になった佐助は「金魚みてえ」とこっそり思った。 「――お、お館様のところへ挨拶に行って参る!!」 「朝餉は如何なされます?」 「戻ってから食べる!」 「はい。では、お戻りを待ち申しております」 幸村は早足で部屋を突っ切り、襖を開けた。 耳まで赤いその後姿を見送って、は感慨深そうに呟く。 「『真田と云えば絶叫“破廉恥!”』……が聞けるかと思ったのですが。 あと一歩、というところでしょうか。わたくしとしては喜ばしいことですけれど」 「………姫さん、旦那を鍛えてくれるのはいいんだけど、あんま苛めないでやってよ」 「愛あらば、ですもの。それにご本人が仰いましたから。 “恥をかかせるつもりは無い”のだ、と。ですから、多少は目を瞑って下さいませ」 「まあ、うん……姫さんにも面子があるだろうしね…」 頑張れ旦那、敵は手強いぞ。佐助は溜息をついて、幸村を追うために立ち上がった。 |