「すまぬ、稽古中であったか?」

「いいえ、弦の手入れだけでございますから。
 加えて申し上げるのならば、たとえ稽古中であっても幸村さまが遠慮なさることはござりませぬ」



幸村がの自室を訪ねると、は柔らかそうな布で琴の手入れをしているところだった。 そうと知っていればわざわざ邪魔をしには来なかったのに、と幸村は申し訳無さそうな顔をする。

そもそも彼がこんなにも頻繁にの元へ通うのは、京から甲斐、 そして信濃へと落ち着く暇もないの気晴らしになれば、と思ってのことである。 が自分の時間を見出だせるようになれば、そこに介入することは却っての安息を脅かすものになりかねない、 と幸村は気を揉んでいるのだ。しかし実際には、 このささやかな休憩が最近の幸村の何よりの楽しみにもなっているのが現状であるため、が「もういいです」と言ったところで“お役御免”とばかりに政務に没頭することは不可能であろうが。



「琴もそのような手入れが必要なのだな。俺の二槍と同じだ」

「なにも琴に限った話ではござりませぬ。この世にあるものは全て手入れを必要といたします。
 楽器も女子も、武具と同じにございますよ。心を込めて磨く者が無ければ鈍ってしまいまする」



なるほどそれも一理ある、と幸村は感心した。 普通の女子なら、自分たちが武具と同じ、などとは考え付かないだろうに、 流石はである。



「面白い。なれば、は武具であったか」

「ええ。女子の世にも戦がございますが、女子は、武具としてこの身ひとつしか持ち合わせませぬ。
 ですから常に手入れをして磨き続けるのです、夫の愛が側女にとられてしまわぬように、と」

「そばっ……は其のようなことを気に病まずともよい!俺は側室を置くつもりはない」

「まあ、それでは幸村さまはわたくしひとりにお世継ぎの重圧を全て被せ、
 その重みで潰されて死んでしまえと仰せであられますか」

「そ、そうではない!そうではなくてだな、」



幸村は顔を蒼くして必死に否定するが、は「存じ上げておりますよ」とくすくす笑うだけである。 ようやくからかわれたことに気付き、幸村は拗ねたように顔を背ける。 その横顔がほんのりと赤いことに、はまた笑う。



「はいはい馬鹿夫婦、お熱いところ失礼しますよ」



その時、天板を外し、佐助が逆さ吊りで顔を覗かせた。
慣れているはずなのに、幸村は「佐助!」と驚きを含んだ声を上げる。



「とっても唐突で申し訳無いんだけど、姫さん、この文出した覚えある?」

「―――え?ええ、京の友人へ……一月ほど前に」



佐助はに慶次から預かった文を見せ、問う。 一月ほど前、京にいる友人に宛てて出した文をなぜ佐助が持っているのかと訝りながら、は頷いた。
の首が縦に振れるのを見て、佐助は「まじかよー」と小さく漏らす。 ならばあの風来坊は、城主の妻の正当な来客ということになるのか。



「………いま城門前に前田慶次が来てて、姫さんに会わせろって言ってんの。
 姫さんの友達だって本人は言ってるけど――姫さんのその反応なら、どうも本当っぽいね」

「なに、慶次殿が?」

「慶さんが?」



幸村とは、揃って目を丸くした。
これで慶次とが友人関係にあるということは明確になったわけだが、 だからと言ってすぐ城内に通せるかといえばそうではない。 最終的な判断を下すのは幸村である。



「如何するの旦那、通す?追い返す?」

「追い返すのは……流石に失礼であろう」



以前に慶次が“大暴れ”して帰った記憶は幸村や佐助の記憶の中でもまだ忘れられたわけではない。 出来れば追い返したいのが二人の本音だが、彼は今回はの友人として来ているのであり、 しかも大人しく門前で待っているというのだから無下には出来ない。
幸村が仕方なく「通せ」と言うと、佐助は気だるそうに頷いた。











◎ ◎ ◎
◎ ◎ ◎












その日、京の街には雨が降っていた。

慶次は馴染みの妓楼を出て、目下居候中の鍛冶屋に向かおうとしている途中だったが、 ふと視界の隅にあった少女が細い路地へ入って行くのに気付き、目を細めた。
その路地は確かに大通りへの抜け道としては利便のよいものだったが、 ごろつきや気性の荒い浪人などがよく集まっていることもあり、 先ほどのような少女がひとりで通るには危険だった。

少女がひとりで通れるとしたら、よほど腕っ節に自信があるのか、それともごろつきの仲間か。
しかし後者ではないだろうと慶次は確信していた。 なぜなら少女が差していた唐傘には、藤屋の紋が染め抜かれていたのだ。 慶次は、藤屋の女将がとても厳しい人であることを知っている。 ごろつきとつるむような、素性の賤しい娘を拾う人柄ではない。


( おいおいおいおい、女将は何してんだ?小路の良し悪しくらい教えといてやれって )


慶次は急いで駆け出した。
少女が悪漢たちに絡まれる前に、引っ張ってでも大路に連れ戻さなければならないと思ったのだ。 概して、雨のせいで薄暗い今日のような天気の日には、事件が起こりやすいものである。

案じていた通り、慶次がその小路に入ったとき、数人の男に取り囲まれている小さな人影があった。 見たところ相手は刀など武具の類は持っていないようだった。しかしだからといって、 芝居茶屋で芸妓に合わせて琴だの三味線だのを弾いているだけの少女が、大人の男に敵うわけもない。


「あのう、急ぐので退いてもらえませんか?」

「そう言わんと付き合いや。な?悪いようにはせんって」



浪人たちはにやにやしながら少女に手を伸ばすが、彼女はそれをぺちりと叩き払った。 「そんなことしちゃまずいって」と胸中で呟き、慶次は長刀を鞘から抜いた。

浪人たちはひどく不機嫌そうな顔をしていて、いまにも彼女に掴み掛からんばかりである。



「おいお嬢さ――」

「欲しいのは銭ですか、わたしですか?
 ………まあどちらにしても、あげませんけど」



お嬢さんこっちに逃げろ、と、慶次が声を掛けようとしたその時、少女が動いた。
彼女は傘を投げ捨てると、路地を囲む長屋の壁に立てかけてあった竿を掴み、ぶん、と勢いよく振り回す。 その急襲にふたりほどが足元を掬われ、尻餅をついた。
途端に男たちが身構え、懐から脇差を抜く。それでも彼女は怯えることもなく、 実に手際よく右へ左へ竿を操り、男たちの背中や腹を容赦なく突くと、手から刀を取り落とさせた。 素人とはとても思えないその棒術の腕前に、彼女が只者でない、と男たちも慶次も気が付いた。



「天、覇、絶槍っ!――なあんて、ね。
 弱い弱いっ、そんなんじゃ弁丸にも勝てないよっ!」

さま!」



既に逃げ腰の浪人たちに竿の先端を向け、彼女は恐らくは決め台詞らしきものを口にした。 と、その時、長屋の屋根から降り立つ黒い影。
目まぐるしく移り変わる展開に着いていけず、慶次は完全に観衆と化してしまった。



「貴様ら、この方に手を上げて、生きて帰れると思うてはおるまいな!」

「いいじゃない、見逃してあげましょうよ。
 わたしは無事だし、久しぶりに身体を動かしてすっきりしたもの」



くないをぎらつかせて吼える忍の背後で、彼女はのんびりと言い放つ。 忍が呆れて「さま」と彼女のほうを振り向いた隙に、男たちは逃げ出した。



「随分早かったわねえ!せっかく撒いたと思ったのに、さすがは佐助のお仕事仲間だわ!」

「おひとりで行動召されるなと何度申し上げたら分かって頂けるのですか!
 このことは佐助づてにお館様にもご報告申し上げておきますからね!
 ともかく、さま、お下がりくださいませ。まだひとり残っております」

「あ、おれのこと?なんだ、ようやく気付いてくれたのかい」



忍は少女を庇いながら、慶次に殺気を向けた。
長刀に寄りかかって、いつ気付くかと半ば面白がっていた慶次は、そこでようやく振り返った少女の顔を見ることが出来た。 その顔には見覚えがあり、確かに藤屋の女将の弟子のひとりである。 女将から聞いた話では、『博打で成り上がったせいか庄屋連中に見下され、 連中を見返すための政略結婚の一環として行儀見習いに出された商家の娘』だったか。 なんとも回りくどい身の上だと思って憶えていたのだが、この光景はそれよりも遥かにきな臭い。 さては実態はどこかの間者か、それとも姫君か。



「おれは慶次。慶さん、って呼んでくんな。藤屋の女将には色々と借りがあるもんで、
 お弟子さんでも助ければいくらか帳消しにしてくれっかなーと思って追って来ただけさ」

「先の奴らの親玉ではないという証拠がどこにある」

「いやだねえ!おれはいっつも『慶さんは良い人ね』って言われて恋が終わるくらいだってのに!」



慶次がいくら言っても、忍は殺気を放つことを止めようとしない。 これは力尽くで押し通すしかないか、と双方が覚悟を決めたとき、 が忍に「おやめ!」と声を掛けた。不満そうな顔で、忍が振り返る。



「ねえ止めて、その方はお店の常連さんよ!
 きちんとした方だっていうのは女将さんが保証してくださるわ!」

「しかしさま、」

「お止めったら!これは命令よ。もう一度言わせるようなら減給なんだから!」



忍は諦めたように溜息を吐き、小さく一礼して姿を消した。
残された慶次とは、しばらく無言で見詰め合う。



「―――お嬢さん、あんた何者?
 どうして茶屋に奉公に出された娘が忍なんて物騒なもん飼ってるんだい?」

「父が心配して付けてくれたのです。奉公に出されはしましたが、売られたのではありませんもの。
 それに、忍をそうやって犬のように扱うのはおやめください。彼らだって生きている人ですから」



傘を担ぎ直し、は慶次を見据えてきっぱりと言った。
忍など犬以下の扱いが当然とされる世において『生きている人』とは、中々面白いことを言う。 慶次は長刀を鞘に収め、にこりと笑い掛けた。



「………へへっ、いいねいいね!おれ、面白い子は大好きだよ。
 もう一回ちゃんと名前を聞かせてもらってもいいかい、お姫さま?」

、です。姫というほどの身分ではございませんが」

「ふうん。ま、とりあえずそういうことにしておくよ。
 とりあえずその堅苦しい喋り方は止めようぜ。あんだけお転婆な姿を見た後だ、今さらだろ?」



慶次が長屋の壁に戻された竿を指差すと、は「それもそうか」と、照れたように笑った。












◎ ◎ ◎
◎ ◎ ◎












すぱん!と襖が開いて、現れたのは大きな体に派手な衣装の慶次である。
幸村は無意識の内に僅かに眉を顰めるが、次の瞬間に「!」「慶さん!」と、 まるで信玄と幸村のように名前を呼び合う慶次との姿に、驚きで口が半開きになる。



お前、水臭えよなあ!おれたちに何も言わずにお嫁に言っちまったって聞いて、
 五兵衛なんか口をぽかーんとさせて驚いてたぜ!あ、いまの幸村みたいな感じな」

「だってその時に限って慶さんも誰も来なかったじゃないの。
 さっさと出てけ、って京の街から拒絶されたのかと思ったくらいよ」

「藤屋の一座を見放すなんざ出来ねえって。あ、みんなからのお祝い預かって来たぜ!
 こっちの酒はおれからな。わざわざ越後まで行っていいやつ選んできたんだ、たんと呑めよ!」



どこに隠し持っていたのか、慶次が酒やら簪やら京野菜やらを次々と取り出すと、 幸村との前に所狭しと並べていく。はそれらをひとつひとつ手に取り、目を輝かせた。

と慶次ばかりが盛り上がり、幸村が相変わらず話についていけていないのに気付くと、 「ちょっと姫さん」と佐助はの着物の袖を引いて注意する。
何事かというように佐助を見たは、佐助の視線に促され、ようやく困惑した顔の幸村に気付いた。 途端に「あ、」と小声を漏らすと、背筋を伸ばして口を噤む。



「……久しゅう御座るな、慶次殿。わざわざ土産まで持ち寄って頂き、かたじけない。
 既にご存知かと思われるが、改めて紹介させて頂く。此方は、某の妻に御座る」

にございます。京においては身許を隠さねばならなぬ事情がございましたゆえに、
 慶次さまが加賀国主殿の甥御さまと知りながらも無礼をはたらき、まことに失礼を致しました」



やや憮然とした態度で幸村がを紹介すると、は畳に指をついて頭を下げた。
座敷での態度とも素の態度とも違う、武家の女としてのの態度に、慶次は少し驚いた。
それでもすぐに相好を崩すと、豪快に笑い始める。



「だから言ってるじゃねえか、堅苦しいのは無しにしようぜ!
 おれと幸村との仲じゃねえか!あと猿飛もな」

「――――って言われてもねえ。
 正直、風来坊と姫さんがどういうわけで知り合いなのか、こっちはさっぱり知らないわけだし」

「おっ、猿飛はおれとが好い仲だったんじゃねえかと疑ってるわけかい?」



慶次が言うと、は佐助の方を向いて「そうなの?」と視線で尋ねてくる。 むしろ尋ねるべき相手はいやに静かな幸村だということになぜ気付かないのだろう、 と思いながら、佐助は曖昧に笑って誤魔化した。



「んなわけねーって!だって、最初っから好いてる奴が居るって言ってたし。
 まあそれが幸村だって知ったのはここに着いてからだけどさあ」

「えっ!姫さんそれほんと?」

「あー………それは……まだ分別の無い当時のことで、
 その、幸村さまというか………むしろお館様のことというか……」



歯切れの悪いの言葉に、幸村の機嫌は目に見えて下降して行く。 よりにもよって最悪な話題を降ってくれたものだと、佐助は慶次を軽く睨む。 幼少の頃の信玄・・幸村の妙な三角関係を知らない慶次だが、 佐助の鋭い視線に「あ、やべ」と内心で冷や汗をかいた。



「ま、まあそれはいいとして!
 おれとは、えーと、が浪人に囲まれたときに出会ったんだよな」

「え?ええ、確か、供の忍を撒いて外出したときに……」

「そうそう、撒くなって話だよな。おれは助太刀しようと思ってを追ったんだけど、
 がそこらへんにあった竿で浪人どもをびびらせちまって、おれってばいいとこ無しでさあ」

「…………竿?」



それは一体どんな状況なんだ、と幸村は怪訝そうな顔をする。 は言及を避けるように顔を背けたが、慶次は身振り手振りでその状況を再現した。



「なんかこう、今思えば、竿ってか槍の扱いに似てたなあ。
 最後に『弁丸より弱いっ!』って一喝して………あ、思い出した!
 竿を突き出して、『天、覇、絶槍っ!』――って。ありゃ幸村の真似だったのかい?」

「慶さん!それは内緒って――もう!」



恥ずかしいのか、は顔を赤くしながら慶次の着物に縋って口止めする。
幸村は「別に隠さずとも良いではないか」と言うのだが、が頑として「だめです!」と言い張るのが、 これまた幸村にとっては面白くない。



「竿で大立ち回りはするし、忍はついてるし――只者じゃねえやと思ったね。
 表向きの素行は良かったから、気付いてたのは多分おれだけだろうけど。
 そこからかな、気付けばこうやって気楽に話し合える仲になって早幾年ってな!
 あとおれの役割ってったら琴と舞踊の師匠其の二ってとこ。其の一はもちろん女将だぜ?」

「より正確には、師匠というか一番の聴き手、ですけれどね」



「つれねえなあ」と慶次はの背中を叩いて笑う。

幸村はその間もほとんど相槌しか打たず、手元の京野菜を弄ったりしていたのだが、 ついに痺れを切らしたのか、と慶次が楽しそうに話しているさなかに突然立ち上がった。



「申し訳無いが某は未だ政務が残っているゆえ、中座させて頂く。
 京より遥々参られたのだ、、無礼のないようお相手致せ」

「え?あの…幸村さま、」

「まつ殿の料理には及ばぬであろうが、夕餉には頂いた京野菜で膳を給させる。
 越後の美酒もあるのだ、略式ながら酒宴と致しましょうぞ。……では、御免」



一刻ほど前に慶次が勢いよく開けた襖を通って幸村が去っていくと、 「あーあ、拗ねちゃった」と言い残し、佐助もふっと姿を消した。
慶次は呆然としているの肩を叩き、「愛されてるねえ」と言う。



がちゃんと大事にされてるみたいで一安心、ってとこだな。
 本当はの白無垢をひやかすつもりで来たんだけど、
 それも間に合わなかったし、今のを良い土産話にさせてもらうとするよ」

「……ええ、あの人なりに大事にしてくれている、んでしょうね。
 側女は要らない、わたしだけでいいって、そう言ってくれましたから。
 女将さんたちに『は良い旦那さまと巡りあえて幸せです』と伝えて下さいね」

「おうよ、いまの惚気もしっかり伝えとくからな」



ああそうか、ついに“あの”真田幸村も恋に目覚めたか、と、慶次は堪らずにくつくつ笑った。