頭が痛い。飲み過ぎたのだろう。 重い足取りで、幸村は寝所へ向かった。 窓の外の月は明るく、一月前の祝言の夜を思い出させるようだった。 あの時はこれから向かう先がどうなっているかなど全く気にも留めなかったが、 今はが侍していることを頭のどこかで確信している。 幾つか廊下を通り過ぎ、幸村は最後の襖を開けた。 「幸村さま」 いつものように、そこには髪を下ろしたままのが居る。 やはり居た、と冷静に思う己の一面を感じながらも、幸村はに曖昧な言葉を返すだけだった。 いつもなら『待たせたか』『湯冷めはしてないか』などと気遣ってくる幸村であるだけに、 は不思議そうな顔をする。 「幸村さま、今宵はお手はよろしいのですか?」 「………別に、よかろう」 のことなど構わず眠ろうとする幸村に驚き、は声を掛けた。 しかし返って来るのは不機嫌そうな短い返事のみである。 何をそんなに怒っているのか、と、はもう一度「ゆきむらさま、」と声を出した。 「どこかお加減が優れないのでは、」 「違う」 「では何ゆえ、」 「分からぬか?」 ことごとくの言葉を遮る幸村にほとほと困惑しつつ、は「お恥ずかしながら」と答えた。 奇妙なほど静まり返る寝所に、ふたりの息遣いが微かに響く。 頭が痛い。こめかみを押さえながら幸村は深く息を吐いた。 気遣わしげに伸びるの腕が、いまはひどく疎ましいものに感じる。 なぜこれほどにも気分がささくれているのか、理由は分かっている。 もしかしたら本当はにも分かっているのかもしれない。 ただ彼は、慶次との仲の良さが不安で、そして不快だった。 幸村にはについて知りえないことが多すぎた。 慶次が当たり前のように語る“藤屋のちゃん”時代のの話のなかで、幸村が知っていることはひとつもない。 知りたいと思っても、ありのままの姿が見たいのかとからかわれて、いつも聞けずに終わっていたからだ。 しかしは、幸村が“虎の若子”“紅蓮の鬼”と称され、戦場を駆け抜けていたのだということを知っている。 が自ら尋ねようとしなくとも、それらは家臣や庶民の話のうちから自然に察することが出来るのである。 なんという不平等。 なんという較差、隔絶の感があることか。 「幸村さま、こちらをご覧になってくださいませ」 「なぜだ」 「なぜって……いつもとご様子が違われますれば、めは心配申し上げて、」 目を合わせようとしない幸村の視線を自分に向けようと、は幸村の袖を軽く引く。 くいくいと袖が引きつるたびに、焦燥に似た感情が幸村の心中を奔った。 この一月の間、が触れてくるたびに幸村が何度己に『落ち着け』『まだだめだ』と言い聞かせていたのか、 毎晩繋ぐ手の先に彼がどれほど神経を遣っていたのか、 茶屋に連れ立って忍び行くごとにどれだけへ向ける想いが深まっていたのか、 きっとは何ひとつ知らないのだろう。 なぜこれほどにも、想いの溝は埋まらないのか。 「――――苛々する」 幸村はの手を袖から払うと、所在無く宙に浮いたそれをがしりと掴んだ。 驚いたのか、が僅かに身を竦ませるが、 幸村はそれに気付かなかったようにじわりじわりと握る指先を強めていく。 「ゆきむらさ、」 「慶次殿には『さま』など付けぬではないか! 俺のことはいつまでも他人行儀であるのに、慶さん慶さんと親しげに呼んで…… 語調もそうだ。態度もそうだ。なぜ俺にはいつまでも『』を見せぬ。ああ苛々する!」 「ゆ、き、…いたっ、」 の手首は骨が軋みあう感覚がした。反射的に腕を振りほどこうとするものの、 一介の町娘として過ごしてきたが、国を越えて名を馳せる武将である幸村の握力に敵うわけもない。 「は、はな、して、」 「振りほどけばよかろう」 「っ、やだ、ゆきむらさ――あぅ、ん 」 まるで容赦のない幸村の言葉に批難の声を上げようとするが、“噛みつかれ”てしまい、 の声が音になることはなかった。それはからすればくちづけを交わすだとか 口を吸うだとかいう表現の枠には収まるようなものではなく、文字通り犬が噛み付いてきたような衝撃だった。 がつりと、時折歯がぶつかる。は息継ぎをしようと身を捩って抵抗するのだが、 そのたびに幸村が顔や身体の角度を合わせて追ってくる。 これ以上息が続かない、と、が幸村の肩を叩いたり向う脛を蹴飛ばそうとすると、 幸村はきつく掴んでいた手首を離した。の指先にようやく血流が通う。 けれどもそれは両端から綱を引っ張っていたのを片側が急に手放したのと同じ状況であり、 は手首の開放と同時に体勢の均衡を失ってそのまま仰向けに倒れた。 「そんなに嫌か。そこまでして抗うほど、俺が好かぬか」 「……ちが、っ……」 言葉を発そうとすると、途端に気道が軋んで咽こんでしまう。 げほげほと咳き込みながらが必死に呼吸しようとしていると、 天板の木目が見えていたはずの視界はいつの間にか幸村の海老茶の髪に占拠されていた。 「何が違う?慶次殿と居る時のほうが楽しそうだったではないか! は卑怯だ。言葉で態度で俺を翻弄するのに、素を隠していつも一線引いている! なぜ何も飾らずに俺を見てくれぬのだ。は……は、俺の、妻であるのに!」 「ゆき、…やっ」 「今さら嘆願など聞かぬ!そもそも女子に慣れろと言い出した目的を忘れたとは言わせんぞ。 それとも俺をからかっていただけか?なあ、あまり――俺を、ばかに、してくれるな!」 言葉尻には荒れた感情が剥き出しであるものの、幸村の表情は泣きそうな子供と同じだった。 一瞬、は追い詰められたようなその幸村の表情に息を呑む。 その隙を突いて、僅かばかり残っていた身体の距離を無くし、幸村がに覆い被さった。 が肩を押し返そうとしてくるが、そんなものは大した抵抗ではなかった。 月明かりが差し込むのを頼りに、の首筋をざらりと舐める。 身を竦ませて「ひっ」と声を零すの姿に、まるで先日と正反対だと幸村は思った。 「やっ……やだ、ゆき。違うの、こんなの、違う! ば、ばかになんかしてなっ……わたし、こんなっ……やだあ…!」 びくともしない肩が怖かった。先ほど掴まれた手首に残る、自分には無い握力の強さが怖かった。 確かには幸村を女に慣れさせようとしたし、 その目的はといえば祝言の夜に果たされなかった契りをきちんと果たさせるためではある。 けれど、こんなに一方的なものになる予定ではなかった。 より早くに嫁いだ姉は『立派な男子は決して乱暴などしない』と言っていたし、 が京へ遊学する以前からの家で世話を焼いてくれた女中は 『殿方はまるでそよ風のように触れて来られますよ』と、そうに教え込んできたのだ。 それがどうだろう。いつも槍ばかり握っていたのだろう大きな手が、襟の合わせ目を容赦なくこじ開ける。 もう一度「やめて」と幸村に呼びかけるものの、返事はない。 あばら骨から腰骨へ、そして髄をなぞるように今度はうなじへ、間違っても自分のものではい指先が通っていく。 首に、鎖骨に、熱い吐息。再び噛まれるのかと思いきや、味見をするようにただざらりと舐められるだけ。 ざあっと背中が粟立つのを、は感じた。 喰らわれる。と、そう思った。 紅い鬼が、若い虎が、もはや抵抗の術もない女をひとり、喰らおうとしている。 じわりと、の目尻に涙が溜まり始めた。 これでは色茶屋で買われる遊女たちと何が違うだろう?いや、銭という目に見える対価が得られるだけ、 まだ遊女たちのほうが恵まれているかもしれない。これでは賊に押し入られたようなものだ。 こわい。こわい。こんな“真田幸村”は、知らない。 「やだっ、やだあっ……佐助!とめて、おねがい、やめさせてっ―――さすけぇ!!」 「来るな佐助!手出しは無用だ!」 涙で声を詰まらせながら、が佐助に助けを求める。 全身でを押さえ込んだ幸村は、決して手を緩めようとはせずに短く言い放つ。 佐助はたっぷり何拍か躊躇ったあと、意を決して天井裏から降り立った。 「――ごめん、旦那。旦那の気持ちはよく分かるけど、それはだめだ」 「何が駄目なのだ、戻れ!」 「姫さんの様子、よく見てみな。 このまま勢いに任せてやっちまったら、あんた、明朝すげえ後悔すると思う」 背後に降り立ち、軽く肩を掴んで引き剥がそうとしてくる佐助を睨んだ幸村は、 その言葉通りにに向き直ると、途端に言葉を失った。同時に、頭の先からさぁっと血の気が引いていく。 「……あ………」 乱れた襦袢の襟元には髪が絡まり、荒い呼吸のせいか、肋骨の浮き沈みの激しいのが見て取れる。 咽び泣き以外の声を発さない口許には、歯で切れたと思しき赤い痕。 顔を覆う手がひどく震えていること、片方には悪霊にでも掴まれたかのような手形、 そして何より、頬を伝って夜着に落ちるのは、月明かりに光る涙。 「す――すまぬ、!い、痛かったか?痛かったのであろう? 俺はっ……つい、頭に血が上って……それで…っ……な、泣かんでくれ、。 すまぬ、俺が悪かった!決してを傷付けようと思ったわけでは……」 「…………っ、……」 「い、医者か?薬師か?それとも水のほうが良いだろうか?な、なあ佐助、」 「旦那が泣かせたんだから旦那が責任取りなさいって。 なんでもかんでも俺様に聞かねえの!姫さんもほら、もう大丈夫だから」 はただ無言で首を左右に振るだけで、幸村は途方に呉れることしか出来なかった。 ◎ ◎ ◎ さてそのように一騒動あったことなど知らず、眩しい朝陽を受けて慶次は目を覚ました。 両腕を突き上げて筋を伸ばすと、空腹を訴えてか腹が鳴る。 慶次は自身の髪に隠れるようにして眠っている夢吉をそっと揺らすと、 昨夜のうちに女中がきっちりと畳んでくれた服に着替えた。 朝餉はどこで給仕されるのだろう。もし指定できるのなら、昨夜の酒宴で通された見晴らしの良い部屋がいい。 そんなことを考えながら城内をぶらぶらしていると、見慣れた緑の人影がある。 「おう猿飛、今朝も男前だねえ」 「はいはいありがとね。でも今それどころじゃねえんだわ。 ほら姫さん、風来坊まで起きてきちゃったよ。朝餉だから出てきなさいって」 「がどうかしたのかい?」 佐助は襖の向こうに呼びかけるが、返事はない。 なるほど思い出してみれば、この部屋は昨日も通されたの自室である。 しかしまたなぜ佐助が困りきった声を出しているのか分からず慶次が尋ねると、 佐助は深く溜息をついて苦々しい視線をぶつけてきた。 「……元はといえばあんたがさあ………」 「えっ、おれ?」 「そうそうあんた!風来坊の前田慶次! もういいや、あんたちょっと責任取って姫さん引っ張り出してよ。姫さん!開けるからね!」 平時より苛ついているかのような声で言い、佐助は襖を開けた。 薄暗いその部屋の奥に、なにかこんもりとした影が視界に映ったと思った瞬間、慶次は佐助に蹴飛ばされていた。 「うおっ」と声をあげながら、慶次はの部屋の中へ転がり込む。 「―――……慶さん?」 「うん、慶さんだけど。どこに居んの?なんでこんな部屋暗くしてんの?」 慶次は膝を突いて立ち上がり、明かり取りの窓を塞ぐように置かれた巾帳をどかした。 ようやく陽光が差し込むと視界が一気に明るくなり、そして先ほど見えたこんもりとした“影”が 蒲団を被った人影であることに気付いた。 視線だけでざっと室内を見回すが、他に人の気配はない。ならばこの、膝を抱え込んで座っているらしい人物がなのだろう。 「……お嬢さん、その邪魔ッ苦しいのをどかして可愛い顔を見せてくんな。 なあ、いきなりどうしたんだい?なんか突然すぎてまったく状況が読めねえんだ」 「…………わたしだって、」 「分かんねえ、って?……んー…まあとりあえず朝餉に行こうや。 な?そこで何が分かんねえか話そうぜ。きっと幸村なんか待ちくたびれてらあ」 「…待ってないよ…」 ぐすりと鼻を鳴らしてが言う。 慶次は「さては夫婦喧嘩でもしたのかね」と検討をつけた。 そうだとしたら、どうせ“犬も食わぬ”というものであろう。 いやあ朝から仲良しだねえと溜息をつくと、慶次はが頭に被っている蒲団を取り払った。 「あっ」と慌てたような声を零しながら、が布の影から現れる。 「………お前、その顔、どうした?」 の目元にはうっすらと青黒い隈が出来ていて、まるで夜通し起きていたかのようだった。 それだけではない。瞳は明らかに充血していて、そして口の端が切れたように赤く滲んでいる。 「………その切れてるの、幸村か?」 「………………」 は答えない。ただ俯いたまま、慶次の手元から蒲団を奪い返す。 その手首に、隈と同じような色の痕が残っているのを見止めた慶次は、ただ呆然とするしかなかった。 |