佐助が主の背後に降り立つと、幸村は振り向かずに「の様子はどうだ」と言った。
いつもなら膳が目の前にあれば『食べたくてしょうがない』といった体であるのに、
さすがの幸村もそこまで鈍感ではなかったらしい。
佐助は首を振って「全然だめ」と言う。 「姫さんってば返事もしてくんないんだもん。俺様さすがに傷付くわー」 「そうか」 「まあ確かにあん時の旦那は、まじで姫さん喰っちまいそうだったけど? でも未遂で済んだんだからちっとは機嫌直してくれてもよさそうなもんだけどねえ」 やれやれと佐助が肩を竦めても、幸村は「そうか」と言うだけだった。 (おいおいどんだけ重症なのよ)と胸中で呟き、佐助は幸村の正面に回った。 主の眼差しはどこか虚ろで、ただ目の前に盛られた米を映している。 それはもう湯気を発しておらず、ただの冷えた塊でしかない。 「いまは、風来坊が姫さんと話をしてる」 一語一語を区切って、しっかりと耳に残るように言ってやると、幸村の肩が跳ねた。 そのまま立ち上がっての部屋へ向かうかと佐助は期待したのだが、しかし幸村は 勢い良く箸を掴み、碗を持ち上げるだけだった。 表面の水分が飛び、固く乾いているであろう米の塊が幸村の口腔に消えていく。 「……いいの?」 「俺が出たところで、またを怯えさせるだけであろう。 ならば俺より付き合いの長い慶次殿に任せるのが現状では十全であると判断した。それだけだ」 「あっそ。いやだねー、いっちょまえに男の顔しちゃって。 本当は腹ん中で真ッ黒い嫉妬がぐるぐる渦巻いてるくせにさァ」 佐助が茶化すように言うと、両頬に米を貯えたままで「そのような女々しき感情など無い!」と幸村が吼える。 米粒散ったし!と口元を引き攣らせる佐助に構わず、幸村は味噌汁を一気に飲み干した。 米と同じように、もうすっかり冷めてしまっている。 いつまでも部屋から出てこないを待っているうちに、食べ頃など通り過ぎてしまったのだ。 と慶次がただの友人であることは、昨夜の反応でよく分かった。 ならばもう、何も案ずることなくどっしりと構えて待つしかない。 心配でない、とは言い切れない。もしや、という考えを捨てきれているわけではない。 だがの夫は、この真田幸村であるのだ。夫が妻を信じず、誰が信じるというのだろう。 「……どうにも分からんな」 「何がですか」 「慶次殿は“恋をするとひとは強くなる”と言っておったであろう? だが俺は、このままのことで思い悩んでいたら、そのまま腑抜けになってしまう気がする。 これが恋ではないのか、慶次殿が違っているのか、はたまた全く異なるものであるのか…… どうも俺にはさっぱり分からぬ。なあ佐助、夫婦というのは、難しいものなのだな」 沢庵をばりぼりと噛み砕きながら語る幸村に、佐助は一瞬瞠目する。 つい最近まで「破廉恥な!」と叫んでいたくせに、何を分かったような口を利いているのか。 恐らく信玄や他の武将たちの耳に入れば、「若造が!」と笑って一蹴されてしまうだろう。 「いやー俺様に言われてもねえ、こちとら独り身なわけだし。 なんなら今から風来坊んとこ行って、一緒に相談してくれば?」 「それでは本末転倒ではないか! ならば、よし、佐助も妻を娶れ!そして俺と共に悩め!」 「はぁ?んじゃ姫さんちょーだいよ。俺様、お嫁に貰うなら姫さんがいいなー」 「やらん!!」 再び米粒が飛び散り、佐助は「お行儀悪い!」と幸村の頭をぺしりと叩いた。 ◎ ◎ ◎ 「わたしはただ、真田のお家に迷惑かけないようにって、ただそう思ってたの。 “真田幸村の室は礼儀も知らない”って、そう言われないように頑張っただけなのに、」 「うん、」 「でも苛々するんだって。わたしのそういう態度が。 ……わたしはどうすればよかったの?馬鹿な女の振りをする方がよかったの?」 蒲団を被りなおし、再び膝を抱えて座ったは、ぐすぐすと鼻を鳴らしながら言った。 慶次が時折相槌を打ちながら聞いてくれるのに任せて、ただただ心情を吐露する。 庭を駆け回っていたころから、の本分は何も変わっていない。 ただ状況に応じて態度を使い分ける必要があるのだということを学んだだけだった。 そしてそれが大人になるということなのだろう、と自分なりに悟ったのだ。 それは幸村とて同じことだと思っていた。 外に出す態度が違えども、きっと彼なら分かってくれるだろうと思っていた。 だからは、敢えて『武家の姫』の態度を通した。 もしも素のままに振舞っていれば、幾多の迷惑を振りまいていただろう。 真田という武田随一の家に嫁ぐには些か身分差のあるの家を、それでも推してくれた信玄公に。 これまでを護って育ててくれたの家の両親に。 上田に、“真田幸村”という武将に仕える、多くの人々に。 『所詮この程度の娘であったか』と思われてはならないと、ただそう思って気を張ってきた。 それらは全て、何もかも間違っていたのだろうか? 「わたしも混ぜて!」と、薙刀でも持ち出して稽古に参加すればよかったのか。 佐助に気付かれないようにつまみ食いをしようと持ちかければよかったのか。 なるほどそれらは幸村と共に安寧な時間を過ごすのならば最も手軽な手段だっただろう。 だがそれは、“妻”のすることだろうか? 「……でもは、昨日言ってただろ? 良い旦那にめぐり合えて幸せです、って。幸村のこと好きなんだろう?」 「そんなの、分かんない。分かんないの。分かんないまま祝言の日になってたの。 いつかはどこかに嫁ぐって分かってた。お館様の元へは無理だってことも分かってた! だけど急に、訳が分からないまま上田に寄越されて、……好きになろうって、頑張って、」 幸村の人柄が良いということと、好きかどうかということがすぐに直結するわけではなかったが、 それでも娶わせられたものは受け入れようと、十日しか与えられなかった嫁入り準備期間の間に決意した。 輿入れをして、そのあとでゆっくりお互いを知ればいつか好きになっているかもしれないと期待していた。 それが幼馴染だったから、少し戸惑っただけで。 いつの間にか大きくなっていた彼が、ほんの少し別人に思えただけで。 だから祝言の夜に『嫁いでしまったものは仕方ない』という印象を覚えた幸村の勘は正しかった。 まあ仕方ないか、と、もその思いで上田に入ったのだから。 家にとって良い縁組であることは確かだったし、幸村が好青年であることも確かだった。 だから『まあ仕方ないか』は、ずいぶんと前向きな『ああ良かった』と同義であったはずだった。 けれど、昨夜のあの瞳を思い出すと、身体が震えてしまう。 あんなひとだっただろうか?あんなに、ひどいことをするひとだっただろうか? 茶屋に行き、甘味を頬張る姿からは想像もつかない力強さだった。 ああやって戦場を生き抜いてきたのだろうかと、あれが本来の“真田幸村”なのだろうかと思うと、 ひどく遠い人に感じられる。 「……たぶんね、好き、だと思う。……でもちがうかもしれない。 分からないの。わたしは誰を見てきたんだろう?わたしは誰に嫁いだの? 弁丸のお嫁さんになったつもりだったのに、いつの間にか弁丸じゃない人みたいで、」 「いつもと違うあの人に動悸が止まらない、って?恋だねえ」 「慶さん!わたしは真面目に、」 怒ったように言うから、慶次は蒲団を剥いだ。 「おれだって真面目だよ!」と返すと、が赤い目でじとりと睨む。 「それは恋をしてる人の悩みだよ、。 おれから見れば、幸村もにすっげー恋しちゃってる」 「ばか!」 「そりゃあだって、恋は人を馬鹿にさせるんだぜ! きっと幸村もに恋しすぎて馬鹿になっちまったんだ。だから泣くなよ。な?」 にかりと笑っての頭を撫でると、は俯いてぐすりと再び鼻を鳴らす。 そのまま「良い子だ良い子だ」と撫で続けていると、か細い声でが言った。 「………でもきっともう嫌われちゃったよ……」 「そりゃまたどうして?」 「だってわたし、すごく抵抗した。蹴ったし、叩いたし、佐助呼んだし。 今だって……待ってるからおいでって言われてるのに、怖くて……顔、見れない」 えっまさかあんたら“まだ”だったのかい?と言いそうになって、慶次は慌てて口を噤んだ。 「えっ」の部分くらいは声に出てしまったかもしれないが、その程度なら大丈夫だろう。 ああそれは幸村も意固地になるわけだよと納得して、未だ俯き加減のを見る。 きっとこの子は怖い思いもしただろうけど、ただ幸村のそういう一面を見て驚いたのだろうと思った。 戦場で伊達政宗と斬り合う姿を見せたら、泣いて逃げるのではないだろうか、とも。 どうしたらこの可愛い友人は、愛されていることに気付くだろうか。 緩む口元を押さえながら考えていると、夢吉が髪の隙間から顔を覗かせてきゃっきゃと鳴いた。 慶次は夢吉の乗っている方の肩と反対側の手を伸ばして、小猿の頭を撫でてやる。 なあ、お前もそう思うか?声に出さずに語りかけると、夢吉はきゃっと鳴く。 「…………じゃあ俺に拐かされてみるかい、?」 え、と小さな声を漏らし、が顔を上げた。 忍でも配されているのだろうか、天井裏から微かな殺気を感じる。 「逃亡先は、そうだなあ、滅多なとこ行くとおれが斬られちまうからなあ。甲斐なんてどうだい? 実は謙信から『とらへわたしてください』って土産を預かってて、いずれ行くつもりだったんだ」 「慶さん、本気?」 「本気も本気!信玄公にさっきの言葉ぶつけて幸村を叱ってもらうでもいいし、 親御さんとこ行って思いっきり愚痴るだけでもいいし、もちろんただ遊びに行くだけでもいい」 慶次はの腕を掴んで、ぶんぶんと振り上げた。それでもまだ、殺気は消えない。 「そんな時化た顔してたらせっかくの美人が台無しだぜ! ――なあ、不安なんだろ?幸村が追っかけてくるかどうか、賭けてみないか?」 「そんな、」 「それともこのまま、一生うじうじ悩みたいかい?」 はっとした顔でが慶次を見上げる。 「どうする?」と問い掛けながら、慶次はに腕を差し伸べた。 「……お館様……には、あ、会いたいよ。話がしたいよ。 でも駄目…わたしがそんな勝手な行動したら城のみんなに迷惑かけちゃ、」 「信玄公に目通り願うのに真田の奥方の口添えが要るんだ、って言ったら?」 「慶さん!」 本気で怒ったように、が言葉尻を荒くして慶次の着物の裾を握る。 それでも慶次はへらりと笑うと、いとも簡単にを肩に担ぎ上げてしまった。 「―――け、慶さん、おろ、おろしてっ」 「思ってることと正反対のことばっかり言ってりゃ天邪鬼になっちまう! さあさあ退いた退いた!いまおれに手ェ出すと奥方様に傷が付くぜっ!」 ばん!と勢い良く襖を開けて、慶次は廊下を疾走した。 肩に担いだは長刀よりはるかに軽いように感じられる。 忍が追って来る気配はあるが、攻撃してこないところを鑑みるに、 やはりに傷が付く危険性を憂慮していると見える。 「――貴様ッ!そう動くか!」 「長に――いや幸村様に至急伝令を――」 「様!早くこちらへ――」 手当たり次第に襖を開け、効率的な道順など考えずに逃げ回る慶次に、 如何な真田忍隊といえども意表を突かれてしまう。 それでも流石というべきか、慶次のすぐ背後にまで詰め寄って腕を差し伸べてくる者も居る。 その腕に飛び込むべきか、このまま慶次に身を任せてみるべきか、は一瞬躊躇い、忍に向き直った。 「ご……ごめんなさいっ………このまま、いかせてっ………」 「っ!」 忍が動揺した隙を突いて追手を大きく引き離すと、厩舎はもう目前だった。 「いやあ!色っぽいねえ!」 「えっなにが?」 ◎ ◎ ◎ 「―――報告致します!」 朝餉を済ませた幸村が、と慶次へ膳を給させようかとふと思い立ったその瞬間。 背後にざっと降り立った忍は、珍しくも息を切らせてひどく動揺しているようだった。 「前田慶次が様を拉致、甲斐方面へ出奔!」 「なっ………」 慌てて振り向いた折に膝が文机にぶつかり、墨が畳を這う。 幸村は報告に来た忍を労うことも忘れ、襖を乱暴に開けての部屋を目指した。 やれやれと首を回し、佐助は溜息を吐く。頭のどこかで、こうなるんじゃないかと思っていた。 「……取り逃すなんて、真田忍隊の名が泣くぜ?」 「す、すいません長……様が震えたお声でいかせて欲しいとお頼みになり、つい動揺を、」 「うっひゃー姫さんってば大胆!でもお前、減給」 出奔先が甲斐ならば、まだ予想の範疇だ。佐助は青ざめた部下を振り返り、にやりと笑った。 |