そうだ、相模にしよう、
と、そう言ったかどうかは定かではないが、 奥州米沢城の本丸に座していた伊達政宗は手にしていた扇を打ち鳴らし、側近を呼んだ。



「お呼びですか、政宗様」

「Yes,小十郎。やはり次は相模を攻めるぞ」



随分と唐突な主君の言葉に眉を顰め、片倉小十郎は「失礼ながら、」と言葉尻を取った。
なにも考えなしの言葉ではあるとは思っていないが、普段が普段なので些かの不安がある。



「小十郎には時期尚早かと思われますが、
 政宗様がそう仰るならば某かの策がおありなのでございましょうな」

「あぁ、まぁ武田と上杉にはちょっくら待ってもらうぜ。要するに同盟だな。
 奴らを潰す手も考えたんだが、たまには堅実に進めるのも悪かねぇ」



北条、武田、上杉の領地の印された地図の上を扇でなぞり、政宗はにやりと笑う。 扇の指し示す先は信濃、上田近辺。小十郎は主の考えを読み取り、嘆息した。



「……そのように理屈を捏ね回さずとも、真田の室が気に掛かると正直に申しなされ」

「だが間違っちゃねぇ策だろう?」



確かにそれは道理ではあった。 この状況下で下手に武田や上杉に追い込まれるよりは、ひとまず比較的勢力の弱い北条を潰しにかかるのが定石。 そうと心得ているからこそ、小十郎も黙って頷く。


伊達配下の忍軍・黒脛巾から『真田幸村がついに室を迎えた』と報告を受けたのは一月ほど前のことだった。 それ以来、なんとかして政宗は小十郎を出し抜き信濃へ忍び行こうとしていたのだが、まだ成功には至っていない。

あの男に嫁ぐなど、政宗に言わせればよほどの物好きである。 どちらかが惚れ込んだのか、はたまた単なる政略によるものか、どちらにしろ大いに興味深い。



「甲斐は俺とお前、越後には綱元と成実だな」

「人質に推す者は既に決めておいでですか?」

I leave everything to your decision. 適当に見繕っておけ」



小十郎は「御意」と言うと、頭を下げて部屋を出た。
これから綱元、成実の両人に話をつけ、そして馬の手配に奔走するのだ。

政宗は地図を取りまとめ、煙管に火を入れて庭に下りた。
空は快晴。自らの陣羽織が如き蒼に、竜は左目を細める。

知らず知らずのうちに精神が昂っているのだろうか、右目が疼いている気がする。 しかしこれから甲斐へ、その後に上田へ寄って例の女を見定めるのだ。昂らないわけがない。 もし余りにも良い女だったら、いっそ奥州へ連れ帰ってしまおうか。



「……、ねえ」



右目が、両手が、期待に疼く。











◎ ◎ ◎
◎ ◎ ◎












昨日の慶次のように、軋む音を立てるほど勢い良く襖を開けると、そこはやはりもぬけの殻だった。 虚しくも、のお気に入りだった朱色の打ち掛けだけが、悔しさに顔を歪めた幸村を出迎える。

あの風来坊は上田に来る度に好き勝手振る舞って、つむじ風のように去っていく。 やはり追い返せば良かったと思うが、それこそ後の祭というもの。

慶次は甲斐方面へ向かったのだというが、目的地はやはり甲斐なのだろうか。 甲斐ならば、信玄が居る。忍隊から報せが行けば、慶次を足止めしてくれるかもしれない。



「……情けないな、俺は」



そこまで考えて、他人に頼る気である自分に気付いた。
もしもが望んで出奔したのだとしたらこれ以上に不甲斐ないことはないが、 それでもやはり自分で引き起こしたことには自分で対処しなければ。

口許を引き締めたとき、背後に薄い気配が降り立った。 佐助の部下だろうと予測をつけ、「どうした」と短く聞く。



「幸村様、門前に前田の者が来ております」

「慶次殿か!?」

「いえ、その叔母の、まつの方が……如何なさいましょう」



まさか慶次が戻って来たのかと思ったが、期待は外れた。

前田まつ、慶次の叔母であり、加賀国主・利家の正妻である。
家出癖のある慶次のせいで、夫の利家と共に方々を探し回らされているという中々の苦労人ではあるが、 前田家の覇権を手中に収めているのは彼女であるとも言われている。 恐らくは慶次がこの信濃に向かったという噂でも聞き付けてやって来たのだろう。 あと一歩、のところでの入れ違いはもはや定番化している。



「前田の奥方か。良い、通せ。
 ……いや、やはり俺が出よう。その間に馬の準備を頼む」

「御意に」



の琴を横目に捉えながら、幸村はその場から立ち去った。
弾き手のいないそれは、ひどく淋しげに見えた。






「真田殿、突然に押掛け参ってしまって申し訳ござりませぬ。
 実はうちの慶次が、越後を介してこちらへ向かったという報せを受けましたので、」

「慶次殿ならもう居らぬ」



ぴしゃりと吐き捨てる幸村に、まつは心中で「けーいーじー!!」と甥の名を呼んだ。 ああ、いったいあの困った甥っ子は今度は何をしでかしてくれたのか。
まつは薙刀を握りなおし、「真田殿」と声を絞り出す。



「もしや慶次が……また粗相を?」

「粗相?……左様で御座るな。此度の慶次殿は、某の妻を、拉致して行った」

「らっ――それは真でござりまするか!」



目の前が真っ暗になるとは正にこのことだ。
忍を殴ったとか蕎麦を食い荒らしたとかだったらまだ謝りようもあるが、 余所様の奥方を拉致したとなると庇いようもない。 背に隠した菓子折りを渡したところで今度という今度は許されないかもしれない。 真田と前田の戦、いや武田と織田の戦に発展し兼ねないのだ。

そこまで最悪の想像を廻らせ、まつははたと気付いた。
彼は『某の妻』と言ったが、真田幸村はいつの間にどこの誰と婚姻関係を結んだのだろうか。



「も、申し訳ござりませぬ、真田殿!我ら夫婦の教育の至らぬ結果でございまする!
 あれには厳しい罰を与えますので、どうか前田に戦意無きことをご理解頂きとう存じます!」

「其れについては千万承知。……申し訳ない。某はいま、虫の居所が悪いのだ。
 幸いなことに慶次殿が甲斐方面へ向かったことは判明しておりますゆえ……」

「ではわたくしも共に甲斐へ!」



まつが力強く言い、幸村は彼女をまじまじと見つめた。
脚が大きく出ているまつの着物を見ても、以前のように「けしからん」だとか「破廉恥である」とは思わなかった。 いつの間に以外の女子を特にどうとも思わないようになっていたのかと、無意識に笑ってしまう。



「真田殿?」

「あ、いや、何でも御座らん。
 ただその……前田殿ならこのような場合、どの様に奥方に声を掛けるのだろう、と…」



まつは幸村のその言葉と表情に眼を丸くした。そしてすぐに、柔らかく相好を崩す。
慶次の受け売りではないが、恋をするというのは、いいものだ。 まさかあの虎の若子が、こんなに人恋しそうな眼をするなんて。



「我が殿は特別なことなど申されませぬ、真田殿。
 朝夕の挨拶をし、食前食後の挨拶をし、ただ素直にわたくしを呼ぶ、それだけです」

「奥方はそれだけで良いのか?」

「我が殿がわたくしをきちんと見てくださる、それだけで十分すぎるほどでございます。
 さあ真田殿、甲斐へ向かいましょう。慶次は山道でも構わずに馬を駆けさせますゆえ、」



だからもしかしたら、もう大きく引き離されてしまった可能性もある。
幸村が「うむ」と頷いて城内に戻ると、まつは少し笑った。 慶次のやり方は決して褒められたものではないかもしれないが、 恐らくこの不器用な青年を焚きつけるための出奔だったのだろう。



「お会いしてみとうござりますね、真田の奥方様」











◎ ◎ ◎
◎ ◎ ◎












「珍しいこともあるものよのう、独眼竜よ。
 幸村の元ではなくこの儂の元へ、いの一番に顔を出すとは」

「まあな。今回は“甲斐”に申し入れに来たんだ。若虎じゃ話にならねえよ」

「話にならんとな、どれ面白い!申してみよ、小僧」



数刻前に甲斐・躑躅ヶ崎館へ到着し、信玄との謁見に通された奥州伊達主従は、 上座に堂々と座する虎の威圧に口の端を歪ませていた。
そう固くなるなと笑い飛ばし、信玄は下手に座る政宗に話の続きを促す。



「伊達は近いうちに北条を潰す」

「ほう」

「信玄公、甲斐にはその間、不可侵を盟約して頂きたい。
 勿論こちらの戦が終わった暁には放棄されても一向に構わない。
 ……そうだ、ついでに、こっちは先日上杉との同盟を成立させたということを報せておこう」



政宗から間を開けて控えていた小十郎は、信玄をちらりと伺う。 そしてこちらの策が見抜かれたかどうか、それを見極めようとした。

信玄は顎をさすりながら思考していた。
上杉が伊達と同盟を組んだという報せは聞いていない。 十中八九、はったりであろうと思われる。が、 甲斐に持ちかけているのと同じ内容で上杉とも同盟の交渉中なのではないかと推測された。

はてさて竜の誘いに乗るべきか、乗らざるべきか。
別に同盟を結ぶこと自体に不利益があるわけではない。 ただ、何回りも年下の小僧の策にうかうかと乗せられるというのが少し面白くない、と思うだけだ。



「………会談中失礼致します、お館様、お耳にお入れしたいことが、」

「うむ……独眼竜よ、客人に無礼を承知で申し上げるが、暫し待たれい」

「構わねえよ。ゆっくり考えながら戻ってきてくれ」



信玄が何度目かに顎を撫でたとき、侍従の控え目な声が静寂を破った。
これ幸いとばかりに信玄は口の端を持ち上げ、政宗を置いて襖を開ける。


客人が来ていると聞かされ、通された次の間、
そこに居たのは困りきった顔の見慣れた侍従と、何やら悲痛に思いつめた表情のだった。



ではないか、久しいのう!」

「お久しゅうございまする、お館様。
 先日の祝言の折には上田までお出で頂き、かたじけのうございました」

「良い、良い。お主も幸村も、儂が特別に目をかけた童どもであったからな!
 まこと、月日の経つのは早いものよのう。……して、何用か?」



は一層深く頭を下げた。



「加賀前田家当主の甥御、慶次さまがお館様へのお目通りを希望しておりますれば、
 わたくしめは彼の人の友人として、どうかお顔見せだけでもとお願い申し上げに参りました。
 身許や敵意の無いことなどはわたくしめが保証致します。ですので、どうか一度だけでも、」

「うむ、前田のならば面識が有る。わざわざ苦労をかけたな、



信玄がそう言うと、は「勿体なきお言葉にございます」と答えた。
そしてふと、「なぜ幸村が来なかったのだろうか」という疑問が思い浮かぶ。 まさかあの馬鹿弟子が身体を壊したのではないだろうか?いや、それとも、 無いとは思うが、忠実な妻を得てすっかり怠けてしまったのか。



、幸村は息災であるか」

「…………はい、」

「ならば良いが……なんじゃお主ら、痴話喧嘩でもしたか」



よく見れば化粧も無く、髪もどこかぞんざいなの姿は、まるで家出をしてきた童のようだった。 信玄は冗談めかして訊ねたのだが、はじわりじわりと目に涙を浮かべて俯いてしまう。
これはまずい、と信玄はの傍へ寄り、幼子をあやすように頭を撫でた。



「おっ――お館さまぁぁぁ…!!」

「落ち着けい、。泣くでない!何があったか申してみよ。
 なによりお主まるで幸村と上杉の忍を足し合わせたようになっておるぞ」



抱きつかんばかりの勢いで身を乗り出すに、信玄は心なしか身体を引いた。 侍従に目配せをして、誰か女中かの縁者を連れて来いと命令する。

支離滅裂ながらも、「幸村さま」やら「不安」やらの言葉がの口からこぼれるのを辛抱強く聞き、 それでもやはりただの痴話喧嘩かと信玄は内心でほっと息を吐いた。 女気のなかった幸村と娶わせられて、少しも苦労がないわけがないということは予測できていたことだった。

よしよしと撫でても撫でても泣き止まないに、悪戯心で訊ねる。



「――お主は幸村と離縁したいのか、?」

「ちが、ちがいます、そうじゃなくてっ……ただっ…お館さまぁ…!」



さて困った、竜と泣く子とどちらを先に相手にするべきか。











◎ ◎ ◎
◎ ◎ ◎












慶次は完全に迷っていた。

思った通り、躑躅ヶ崎館にはだけしか通ることを許されず、門前で大人しくしようとは思っていたのだが、 どうにも厠に行きたくなってしまったものは人間なので仕方が無い。
番兵に気絶してもらって敷地内に入り、すっきりとした気分になった慶次は、 もういっそこのまま館の中で待っていても同じことではないかと気付いた。

しかし見慣れない余所の家をうろついて迷子になるのは当然のこと。
肩の夢吉に「これやばいかなぁ」と笑って言うと、夢吉は高い声できゃっきゃと鳴いた。

とりあえずひたすらに人の気配のあるほうへ進んでいくと、何やら話し声が聞こえる襖の前に着いた。 そっと耳を当てて音を拾うと、聞き覚えのある声だということが分かった。 驚いたそのままの勢いで、慶次は襖をすぱん!と開ける。



「――いよう独眼竜!!奇遇だなあ、何してんだよこんなとこで!」

「あ?なんだ前田慶次か。あんたこそ何してんだこんな所で」

「おれかい?おれは荷物の配達と、それからお姫さまの護衛でね。
 いやいや悪役と言うべきか?それとも在原業平ごっことでも言うべきか?」



そこに居たのは奥州に居るはずの伊達政宗と、その側近の片倉小十郎だったのだ。
迷惑そうな顔をした二人に構わず、慶次は室内に入って政宗の横に腰を下ろす。 意味がわからねえ、と政宗は溜息を吐いた。



「要するにあれだよ、ほら、南蛮の月下氷人!美人の神さまの息子で、
 弓矢を持ってて、羽が生えてて、名前がえーと……く、くぴ……」

「Cupid?」

「それそれ!きゅーぴっど!」



たどたどしい発音で笑う慶次に毒気を抜かれ、政宗も小十郎も「ああそうかい」とだけしか返せなかった。
それとほぼ同時に廊下の方がにわかに騒がしくなり、慶次は『ばれたか?』と身を強張らせる。

女中だろうか、軽い足音が慌てたように右方向から左方向へ走っていく気配。 通り過ぎる瞬間に聞こえた「弐之姫様が」云々という言葉から察するに、 勝手に館内に入ったことがにばれたのかもしれない。



「わりぃ、おれもう行くわ。に怒られちまう」

「……おい、いま誰っつった?」



腰を浮かせかけた慶次は、高く結った髪の先を政宗に掴まれた。 ぶちっと音がしたので、何本か髪が抜けたかもしれない。 「いてーよ!」と文句を言うが、政宗はにやりと喜色も露わに笑うだけ。



「真田幸村が正室、弐之姫――が此処に居るんだな?」

「……なんだ、あんたもにご熱心なくちかい?」

Oh,yes!That's right!



政宗がにやりとした笑みを崩さないまま「案内しろよ」と慶次に言うと、 今まで沈黙を守ってきた小十郎がとうとう「なりませぬ」と嗜めた。