慶次と政宗は躑躅ヶ崎館の廊下を我が物顔で歩いていた。
小十郎はもちろん政宗を引きとめようとしたのだが、「厠に行くだけだ。断じてそれだけだ。 お前は主君が信じられないのか」と政宗が屁理屈を通したせいで元の部屋で待機している。 そして勿論ながら政宗に厠に行くつもりなど無い。

案内しろと言われて一緒に館内を歩き回っている慶次だが、自分が元から迷子だということは忘れてはいないので、 「あっちじゃないかな」と適当な廊下を指差しながら進む。

聞いた話では伊達が武田に同盟の申し入れに来ていたところで、 信玄はその場を中座してまで来客の対応に当たったのだという。 その時の来客といえばと慶次のふたりであり、 信玄が未だ政宗のもとへ姿を見せないことから、のところに居るだろうと予測される。
幸村との名物・殴り愛を一瞥でもすれば分かるように、甲斐の虎もなかなかに声量は大きい。 だから聞き覚えのある音を辿れば、当てずっぽうでもそのうち目的の人物に会えると踏んでいた。


じろじろと詮索してくる武田家臣たちには政宗のひと睨みを、
ちらちらと窺ってくる女中たちには慶次の「ちょっとごめんね」のひとことを、
それぞれ効果が一番高いと自覚している役割をこなし、ふたりは進んだ。

そうしている内に、話し声が漏れ聞こえてくる襖の前に辿り付いた。



「わたしは、お館さま、わたしでは、幸村さまに恥じない妻にはなれないのでしょうか?
 不安なんです、怖いんです。だからつい、あの人の気持ちを試すようなことをしてしまって、」

「仕方のない奴じゃのう、幸村もお主も、どうにも不器用でいかん。
 どれ、孫の顔を見るためとあらば、この信玄がお主らのために一肌脱ごうぞ!」

「お館さまぁ…わたしは、は、武田に生まれてまことに光栄でございます…!」



”という言葉が聞こえ、やはり此処か、とふたりは顔を見合わせて頷いた。
廊下に膝をつき、音を立てないよう、慎重に慎重に襖を細く開けて中を窺う。



「うむ、此れは愛の試練じゃ、
 お主が真に武田の誇る姫であるならば、乗り越えてみせよ!」

「っ…おやかたさまぁぁ……!」



そして覗き込んだ先は、まるで予測もしていない光景だった。

こちらからでは顔の見えない女がひとり、三つ指をつきながらも信玄公の方へ身を乗り出している。 慶次にはその後姿でだと分かったし、会話の内容から判断しても、 これが真田幸村の室であるということは政宗にも理解できた。

理解できないのは、「おやかたさまぁ」という鼻に掛かった声が、どこかの誰かを彷彿とさせることだった。 鼻に掛かった声であるのは、涙混じりであるためだろう。 だがどうして、「お館様ぁぁ!」と叫ぶ赤い人影が脳裏に浮かぶのか。 いま覗き見しているのは真田幸村本人ではなく、その室であったはずなのだが。



「おい、此れどういうこった」

「ごめん、おれにも分かんねえ」



小声で言い、瞼を擦って何度か見直してはみるものの、その光景はまるで変わらない。
素のを知らないわけではない慶次でも、ここまで信玄公を慕っているとは流石に初めて知る一面だった。 ましてや「琴の名手で淑やかな姫」としか聞いていなかった政宗など、 実はは真田幸村の従姉妹か何かだったのだろうかと無意味に勘繰ってしまう。



「――あらら、知らないの?武田の隠れ名物“お館様”二重唱」



慶次と政宗が「おやかたさまぁ…」「泣くな!」の繰り返しを背景に困惑していると、 すっと音もなく背後に影が降り立つ。はっと気付いた瞬間には、ひやりとした鉄の感覚が首筋にあった。



「てめぇ猿飛、出会い頭に物騒じゃねえか」

「そりゃ、不審人物と不届き者の捕獲は俺様のお仕事ですから。
 で、うちの姫さん覗き見してどうするつもり?まさかやらしいこと考えてたり?」



くないを押し付けてくる佐助に「待て待て、」と政宗が声を掛けると、 佐助は「冗談だよ」と笑って武具を収めた。 ように見えたのは一瞬で、すぐに佐助は慶次の首元にくないより大きく、 鋭利な刃を持つ自身の武器を押し付けていた。



「さーて、やっと追いついたよ風来坊。一宿一飯の恩を仇で返すなんて、
 それもあんな方法で返してくるなんて、さすがの俺様もしんどかったかなあ」

「はは……褒め言葉かい?」



冷や汗をかきながら言う慶次に、佐助は短く「まさか」とだけ応えを返す。 まさか慶次がを拉致して甲斐まで連れてきたのだとは知らない政宗は怪訝そうな顔をしている。

どこか緊迫したその場の空気を変えたのは、 背後から聞こえる「おやかたさまぁ…」の繰り返しが途切れたことだった。 振り返れば、山のように大きな、どっしりとした人影。
佐助はようやく武器を収めると、にやにやしながらこちらを見ていた信玄に向き直る。



「よう働くのう佐助。感心、感心」

「ほんとにもー、忍遣い荒いったら。すんませんね大将、どうもお騒がせさまでした。
 多分そろそろ旦那も追いついて来るんで、そしたらちゃっちゃと仲直りして帰りますから」

「まあ待て、儂に任せろ」



信玄は佐助を脇に退かせると、室内に手招きしてを呼んだ。 先ほどの会話から、この遁走劇も終演を目前に控えたことを悟ったは、観念して信玄の招集に応じる。 幸村がもうすぐ着くと佐助は言っていた。それがの耳から離れないのだ。 果たして彼はどのような心積もりで追ってきたのだろう、ただ義務感からだけだったらどうすればいいのだろう。
俯いたまま襖から一歩踏み出すと、そこには門前で待たせていたはずの慶次と、 眼つきの鋭い見知らぬ眼帯の男が居た。



「独眼竜よ、其方の提案、此度は承諾致そう。
 不可侵の証として、武田からは真田幸村が正妻を差し向ける」



眼帯の男にを見せ付けるように、信玄が背中を押して言った。
その声が耳に届いた途端、は「え、」と声を詰まらせる。



「ちょっと大将!なに言っちゃってくれてんの!?
 もうすぐ旦那が来るって言ったよね、言いましたよね?ちゃんと聞いてました!?」

「落ち着けい佐助!見苦しいぞ」

「そりゃ見苦しくもなるよ!駄目ですって!旦那、ほんとやばいんですって!
 これで姫さんが奥州に遣られたなんて聞いたら同盟壊してでも取り返しに――……まさか、」



慌てた声を荒げる佐助と余裕の態度の信玄の会話に、はついていけなかった。 何がどうなって「まさか」に繋がるのか、と慶次や眼帯の男に視線を遣ってみても、 にやりとした笑いで受け止められるだけである。

自分はどうなるのだろう?と心臓が低く鼓つ。本当に人質として奥州に送られるのだろうか。 このまま、幸村と顔を合わせることも謝罪をすることも会話をすることも、何もできないまま。



「佐助、これは愛の試練じゃ!!」



分かるのはただ、何を言っても無駄だろうということだった。











◎ ◎ ◎
◎ ◎ ◎












幸村はまつに門前で待つように言うと、躑躅ヶ崎館の中へ突進して行った。
今日は来客が多いなァとぼやく下男や女中の戸惑いなどはすべて無視して、 幸村はひたすらに信玄公の居室へと向かった。 は居るだろうか、無事だろうかと、ひどく気が逸る。



「お館様ぁぁ!が、が此方へ参ってはおらぬでしょうか!!」

「騒々しいのう幸村。然り、ならば先刻この館へ参ったぞ」

「それは真に御座いまするか!!ではは今どこに、」



襖を開け放ったまま僅かに安堵した幸村をちらりと見て、信玄は「その事だが、」と切り出した。
ただし文机に向かい、書をしたためる手は休めないままに。



は伊達との同盟の証として、奥州へ出向させる」



襖に掛けていた手がずるりと滑る。
幸村は耳がおかしくなったのだろうと思った。 事実、心臓が早鐘のように打つ音で、あまり他の音が聞こえないのだ。

伊達。同盟。奥州。



「其れは……を、人質に、」

「左様」

「なぜっ―――何ゆえを!
 斯様な話、某は何ひとつとして聞いてはおりませぬ!!」



幸村は室内に踏み入ると信玄の傍らに膝をついた。 伊達と同盟を結ぶなど聞いていない。 ましてやを人質に差し出すなど以ての外である。
手が震えていた。信玄に掴みかかりそうになり、殴りかかりそうになり、 それでも抑えようとするたびに胸がつかえた。 自分は何ひとつ聞かされていない、何ひとつ了承していない、それなのに。



「ひとつ、奥州への旅路に耐え得る若い者でなければならん。
 ひとつ、伊達の小僧が一目置くような立場の者でなければならん。
 ひとつ、同盟成立は火急であるため、直ちに派遣できる者でなければならん」

「だから!だからを推したと申されるのですか!!
 時機よくお館様の元へ駆け込んだがために此れ幸いと使われるのですか!
 ならば奥州の厳寒に晒されても構わぬと、伊達の陣中に放り込んでも構わぬと!」

「“武田がため、真田が名誉なるなれば如何様な命でも拝聴致す”、と本人は言っておった」



それを言われると幸村は拳を握り締め、引き下がった。 信玄が愉快そうに「不服か」と聞いてくるのに対し、黙って首を横に振る。 だが正直に言うならば、不服だった。信玄に指示されたならば、一も二も無く従うのが家臣の定め。 それは分かってはいるのだが、またしてもに逃げられたような気がした。
信玄は必死でなにかを抑えこむかのような顔をした弟子を見て、また愉快そうに笑う。



「不服ならば、幸村よ、取り返すが良かろう?」

「お館様、其れは…」

「なに、伊達の小僧は北条攻めの間の不可侵を申し入れて来たまで。
 戦が早く片付けばそれだけ早くも戻ろうぞ。儂の言いたいことが分かるか?」



幸村は困惑した顔で信玄を見た。
戦が早く片付けば、それだけ早くが戻ってこれる。 ならばそれは幸村に伊達と手を組んで北条を攻めろという意味なのか、 それとも物資や交通の面で協力するように、という意味なのか。

幸村は眉を八の字に下げたまま、「分かりませぬ」と正直に言った。
取り返しに行っても良いというのなら、いっそこのまま奥州に行かせてほしかった。



「お主はを追って来たのであろう、ならば追い続けるが良い!
 不和や諍いなど夫婦にはつきものよ、此れしきで腑抜けて何とする!」

「お、お館様…!」

「これは試練じゃ、幸村。夫婦の、愛の試練じゃ!
 一隊をお主に任せる。攻めるも守るもお主の思った通りに動いてみせよ!
 そして武田の誇る一番槍は斯様な試練で屈するものか、漢を見せい!!」

「お館様…!必ずやこの幸村、試練を乗り越え、そしてを取り戻して見せましょうぞ!!」



「うむ!」と信玄が力強く頷くと、幸村は握り締めた拳を「お館様あぁ!」と勢いのままに信玄へ突き出した。 そしていつものように殴り返され、襖を破って廊下へ庭へと転げ落ちるが、それ以上殴りあうことはしなかった。 一寸の暇さえ勿体無いとばかりに立ち上がり、幸村は睨むように空を見上げた。



「必ず迎えに行く、だから待っていてくれ、











◎ ◎ ◎
◎ ◎ ◎












そこから襖一枚隔てた隣の部屋では、が両手で顔を覆って肩を震わせていた。



「いやあ熱烈な告白だねえ!恋だねえ!愛されてるねえ!」

「ちょっ、も、だめ、慶さんそれ以上言わないで……!!」



恥ずかしさに震えるに構わず、女中たちは荷造りを進めていた。
要するに、まだたちは奥州へ出発してはいないのだった。

「うおあぁあああ」と聞こえてくる幸村の声はいつも通りで、 襖越しの信玄は「聞いたか!」と大笑いしている。 佐助も笑いたかったが、髪の隙間から見えるの耳が真っ赤なので、 どちらかというと幸村よりを笑ってしまいそうだった。



「姫さん、旦那はね、ほら何も変わってないっしょ?
 ただ馬鹿正直で、真っ直ぐにしか進めなくて、姫さんが大好きなだけなの」

「やめ、佐助、これ以上言われたら、わたし、恥ずかしくて死ぬ…!」

「旦那さ、頑張るらしいから、ちゃんと奥州で待っててやってよ。
 そんで旦那に愛の篭った抱擁でもなんでもしてやってそれで仲直り!はいめでたしめでたし」

「佐助のばかあ!」



は女中たちが綺麗に畳んでおいた襦袢や足袋や手拭いの山へ倒れこんで、足をばたばたさせた。 年若い女中たちは初めて見る「お淑やかな弐之姫さま」の乱心しきった姿に瞠目するが、 武田の気性であるのか、すぐにくすくすと笑って歳相応なところもあるのだと受け入れた。



「…………、っ、つ、ょ…」

「え?なーに?聞こえないなあ?」

「―――い、いつまでも待つよ、って言ったの!
 う、あ、おやかたさまぁぁ…!佐助が、佐助が…!」



「それは反則だろー」と佐助が慌てて言うのも構わず、は襖を開けて信玄に抱きついた。
幸村の声は、まだどこか遠くから木霊して聞こえてきている。



行って来ます、とは胸中で呟いた。
真田幸村の妻として、その名に恥じないよう、立派に努めを果たしてきます。


だからいつまでも待っています。遠い奥州の地に、炎が灯る日を。