信玄から「思うがままに動いてみろ」と焚き付けられた幸村は、 そこにまだ妻が留まっているとも知らず、主君の屋敷内を疾走し、そしてまつを待たせていた門前へ辿り付いた。

まつは門前に放置されている間、しばらくすれば信玄公のもとへ通され、 事態の釈明を求められるのだろうと覚悟していた。そしてどう謝ればよいものかと、ひたすら悩んでいた。 しかし屋敷へ通される気配は一向になく、幸村の「お館様ぁぁ!」といういつもの大声だけが僅かに聞こえていた。



「まつ殿!お待たせ致した!」



幸村は満面の笑みで戻ってきた。
屋敷に入る前は心配で死にそうな顔をしていたのになんという変わりようだろう、と思ったのだが、 まつはそれを口には出さずに「いいえ」と微笑んだ。 これほどまでに上機嫌であるなら、探し人と再会できたのだろうと思ったのだ。



「真田殿、奥方様は……」

はお館様の命で奥州へ赴くことと相成った。
 入れ違いになったようだが、しかし某は思うように動いて良いとのお言葉を賜った!」

「奥州?何ゆえ奥州まで差し向けられるのですか?」

「伊達と不可侵の盟約を締結したのだ。
 長期となるか一時となるは伊達の勝敗に依るゆえ断言は出来ぬが、人質は必要で御座ろう?」



心配のあまり機嫌を損ねていた彼はどこへ雲隠れしたのか、 至極あっさりと言う幸村に、まつは「まあ」と声を詰まらせた。
批難するようなまつの視線を受け、幸村は「心配でないわけではないが、」と苦笑する。



「確かに奥州は信濃や甲斐や京に比べれば寒かろうし…
 見知らぬ者たちの間へ放り出されるがゆえに、苦労をかけさせることであろう」

「なればこそ、いま追いかけずして…!」

「だからは、某が必ず迎えに行く。
 そのためにはどうすれば伊達の戦が早期に決着するかを考えねばならぬのだ」



幸村は馬の準備を整えながら考えた。
やはり、伊達の戦に直接に介入することは避けたい。 それには独眼竜が幸村の手助けを望まないだろうという理由もあるし、 なにより、幸村の個人的な理由で兵たちをいたずらに命の危険に晒してはならないという理由もある。 自軍らを信頼していないわけではないが、少しの怪我であろうとも、それは甲斐の国力を損なうものになるのだ。



(…なればやはり、支援か)



たとえば、奥州から相模まで、戦況の最前線へ人や物資を運ぶための街道を、甲斐の領地を経由させる。 すると伊達軍の補給路は北条領を通らないことになり、従って北条から補給路を絶たれるという可能性も低くなるだろう。
武具や馬をそのままそっくり提供するのは気が進まないが、鍛冶場や厩舎を整備するくらいなら出来る。 それは武田から伊達への同盟成立の賜り物となるだろう。
となれば、その後に「さあを返してもらおう」と言うことに何か問題があるだろうか。



「まつ殿、某は一度上田に戻り、皆と話をしようと思う。
 慶次殿は恐らくと共に奥州へ向かったのであろうが、如何なされる?」



幸村は馬に跨り、まつに訊ねた。
まつは少し思案するような素振りを見せたが、すぐに「よろしければ、」と口を開いた。



「真田殿がお許し下さるのであれば、わたくしにもお手伝いさせてくださいませ。
 前田の立場ではなく、慶次の叔母という立場から、少しでもお役に立たせて頂きとう存じまする」

「…かたじけない。では共に、上田へ」



まつの言葉を聴くと、幸村は馬を進ませた。 佐助が木立の合間を縫って着いて来る気配を感じる。
まつともうしばらく同行できることは都合が良かった。 城の女中たちではなく、と同じ、武家の女子という立場にある彼女になら、 どうすればあそこまで夫婦仲を良好に保てるのか色々と聞いてみることができるだろう、と幸村は思った。











◎ ◎ ◎
◎ ◎ ◎












Good Newsだ小十郎、虎のおっさんが“これ”くれたぞ」



そう言ってを指差すと、政宗の脳天に拳骨が降って来た。 だが彼が自らの右目と称するほど信頼している部下から脳天に拳骨を貰ったのは、 何もこれが初めてではなかった。



「人を指差してはなりません、人を“これ”扱いしてはなりません、
 他人から許可なく何かを貰ってはなりません、見知らぬ者を連れ込んではなりません!」

「―んだよ所帯くせぇな。
 見知らぬ者じゃなくて同盟成立の人質だぜ?なあ、真田の奥方さんよ?」



そこで小十郎はようやくを見た。
柔らかな目尻と、たおやかに笑む口元、身に着けた 武田を象徴するような朱地の打掛には流水に浮かぶ檜扇があしらわれている。

一見すれば、その艶やかな髪の先まで非の打ち所の無い姿に、小十郎は息を呑んだ。
こんなにも大人しそうな女が、あの真田幸村の室だとは。

果たしてにあの熱血馬鹿の相手が出来るのだろうかと訝しそうな表情をする小十郎に、政宗はにやりと笑う。



Can you hear me?
 おいおい、お前が骨抜きにされてどうする」

「政宗様!」



は何も言わずにゆったりと微笑んでいる。
政宗はそんなを見て、 これがさっきまで幸村を彷彿とさせる姿で「おやかたさまぁ」と泣いていた女だろうかと、内心で首を傾げる。 しかしあの真田幸村の室ともなれば、一筋縄でいかない女であろうという方が納得できるというもの。



「ともかく、これで伊達と武田の同盟は成った。
 奥州に帰るぞ。いつあの馬鹿が追って来るともわからねぇ」

「追って来る、とは?まさか政宗様、真田の了解を得ずに……!」



まさかと言いつつも政宗が強引にを人質にしたと断定しているかのような小十郎に、 政宗は「待て待て」と声を掛ける。 は涼しい顔をしていて、自分が引き合いに出されていることなど気にも留めていないようだった。

ちくしょうめ、と奥歯を噛みながら事の顛末を語る。



「虎のおっさんがくれたって最初に言っただろ?
 何だか知らねぇけどこいつら喧嘩中で、あの馬鹿の頭ァ冷やさせるのに離れさせたってこった」

「……信玄公に厄介払いを押し付けられた、と仰りたいので?」

No,no,it's just a unexpected windfall!
 こっちからすりゃ悪い話じゃねぇし、ありがたく貰っとこうぜ。なにせ良い女だ」



若干の皮肉を込めてそう言うと、はにこりと笑って「ありがとうございます」と返事をした。 やっとまともに喋った第一声がそれかよ、と、些か拍子抜けしてしまうのも致し方ない。

そこへ、どすどすと畳を踏み抜くような足音をさせて慶次が走ってきた。



「やばい!やっばい、どーしよう!!」

「如何なさいました?」

「なんだもう猫被りかい、つまんねえなあ。
 いや!それよりとにかく、まつ姉ちゃんがすぐそこまで来てたんだって!!」



の準備が整ったあと、慶次は再び越後に戻るつもりで躑躅ヶ崎館を辞するつもりでいた。 ところが門から顔を覗かせて周囲を窺えば、なんと幸村と連れ立って去っていく自身の叔母、まつの姿があるではないか。 いま出立したところで確実に気配を悟られ連れ戻されてしまうだろうと踏んだ慶次は、慌てて館内に引き戻したのだ。

あわあわと大振りな動作で門の方向を指差す彼に、が「まあ」と驚いた声を返すが、 政宗と小十郎は顔を見合わせて「猫被り?」と不思議そうな顔をする。



「きっと幸村から話を聞いて、一緒におれを捕まえに来たんだ!
 なあどうしよう、まつ姉ちゃんが来るなんてそんなの予想外だ!」

「叔母上さまに一声おかけになってから上田にいらっしゃればよろしかったのではありませんか」

「冷たいなあ、のために一肌脱いだってのに!
 もうこうなったらおれも奥州に連れてってくれよ!護衛でいいから、なっ!?」



時間をずらしたとしても、越後へはもうまつの手が伸びているだろうし、 上田に戻れば「奥方さまを攫った不届者」にされるのは目に見えていることだった。 ならばいっそ別の地へ逃げる他に打つ手は無い。

慶次、、小十郎の三人の「どうするのか」という視線を向けられた政宗は、 しばし頭を掻きながら考え、「Reject,」とだけ言う。



「よく分かんねーけど、それ駄目って意味だろ、声色からして!」

「おう、よく分かったな。却下だ、却下。
 てめぇを置くと飯代がばかにならねえんだよ。ふざけんな」



はぎゃいぎゃいと言い合う慶次と政宗に呆気に取られるが、 そもそも慶次が甲斐へ来ることになった経緯を考えれば笑ってはいられない。 慶次は、の心中を推し量って連れてきてくれたのだ。



「伊達殿、片倉殿…わたくしからも、ご無理を承知でお願い申し上げます。
 見知らぬ地に独りでは心細う存じますゆえ、どうか慶次さまをわたくしに同行させて下さいませ」

「……あんたそれ、本気か?」

「無論にございます。
 扶持が嵩むと申されるのであれば、どうぞ彼の地でのわたくしの扱いを貶めて下さいませ」



折り目正しく頭を下げ、は言う。
慶次の食費の分だけ自分の扱いを粗雑にしても構わないと客人本人に言われては、 これ以上に慶次を突っぱねるわけにもいかない。

喰えねえ女だ、と胸中で思いながら、政宗は小十郎に「そういう事らしいぞ」とだけ、告げた。











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を乗せた輿が奥州と甲斐との国境を跨いだころ、 幸村は上田に戻り、兵や忍隊や奉公人たちに事情を説明していた。

が伊達との同盟の証に取られたことを話すと彼らは一同に憤ったような悔しそうな顔をしたが、 それも信玄公の計らいだということで、今すぐに奥州へ向かおうと言い出す者は居なかった。
そして伊達と北条の戦に間接的にでも貢献するために一隊を組むと幸村が告げると、 普段鍛錬に励んでいる屈強な兵たちがこぞって志願した。

の居場所は、伊達の元ではない。
此処、真田の元であるのだと、そう言われたように思った。


まつは慶次の行いの責任を感じてか厨での手伝いを申し出て、給仕の一部を担った。 客であり、そして外部の者であるために一食そのまま作るようなことは不可能だったが、 それでもまつの料理は城内でも評判が良かった。





「まつ殿と利家殿の仲睦まじさには何か秘訣があるので御座ろうか」



その夜、夕餉の膳を前にして、幸村がぼそりと言った。
まつは不思議そうな顔をしながらも「いいえ、特には」と答えるが、幸村は聞いていないようだった。



「…やはり手ずからの料理が…?だが俺が厨に入ると佐助が怒るし……」

「真田殿?料理がどうされたのですか?」



幸村はぎくりと肩を震わせてまつを見る。
ひとり言のつもりだったのに、まさか聞かれていたとは思わなかったのだ。 しかしまつに言わせれば、こんなに大きなひとり言など耳を澄まさずとも聞こえようというもの。



「あ、いや、何でも御座らぬ!
 少しその……か、考え事をしていて、呆けてしまったので御座る」

「お隠しにならずともよろしいではござりませぬか。
 奥方様に喜んでいただけるものを、とお考えなのであられましょう?」

「そっ!其の様なことでは……………、ある、が…
 しかし某は握り飯すら握り潰してしまうがゆえに別の方法を考えることに致す!」



早口で言い切ると、幸村は汁椀を持ち上げて吸い物を一気に飲み下す。 佐助が真横に居れば「こら!」と叱っていたかもしれないが、生憎と彼は天井裏で警備中である。

まつには、“虎の若子”ともあろう真田幸村が、叱られるのを覚悟で厨に入り込もうと 一瞬だとはいえども考えたということが何よりも信じられないような思いだった。
慶次を追って上田に入ってから、驚かされるばかりである。

そうして、加賀でお腹をすかせているだろう利家のことを思うと自然と微笑みが漏れた。
夫婦円満の秘訣など、賤ヶ岳の攻略情報などではあるまいし、この悩める若虎に教えてあげたいとは思うのだが、 なにせ利家もまつも諍いを起こすことが無いので掛けるべき言葉が見つからない。

では何が違うのだろうか?
真田方の奥方についての詳細は不明であるが、幸村のこの執着っぷりを見る限りは人柄の良い人物だろうとまつには思われた。 となれば、前田・真田共に各人の個性ではなく、環境に差があるのだろうか?

真田方になくて、前田にあるもの。
家臣ではなく、栄えた城下でもなく、仕える主でもないだろう。
ならば夫婦となってからの時間か、それとも裏山に居ついた猪や鷹やらの動物たちが居ることか。



「これはわたくしのひとり言にござりますゆえ、お聞き流しになって構いませぬが、」



まつは箸で沢庵をつまみながら言った。
幸村は耳をぴくりと動かしたが、視線は菜っ葉の煮びたしに向いている。



「わたくしは殿と共にある時が至福にござりまする。
 殿もそう思って下さっているようで、わたくしたちは二人で散策などによく参ります」

「……………」

「裏山に分け入り、夕餉の材料とするわらびやきのこを採ったり……
 それとは別に山葡萄やあけびを採って、その場で食したりも致しまする」

「………某だって、茶屋に行ったり、…」

「採ったものを食べさせていると、いつの間にやら犬や猪や鳥やらが懐いておりました。
 太郎丸、次郎丸…などと名前をつけ、今では殿とふたりで可愛がり、世話をしております」



それがどうしたと言いたいような顔で、しょんぼりと背中を曲げた幸村がまつを見上げる。



「ふたりでひとつのことをするというのは、多くのものをもたらすと学び申しました。
 連帯感……一体感というのでござりましょうか?気持ちがひとつになったように感じまする」

「ふむ……なるほど…」

「心も落ち着き、共にあれる時間も増える…わたくしには良いこと尽くしに思えまする。
 そういえば聞き及んだ所によりますと、甲斐は、甲斐犬という優秀な猟犬の産地であられるとか」

「佐助!決めた!犬を飼うぞ!」



何気ない風を装ってまつが最後に呟いた言葉に、幸村は立ち上がって言った。 その言葉の向かう先は天井裏の佐助であり、その佐助は「はあ?」と天板をずらして顔を覗かせることとなった。



「犬だ佐助、甲斐犬だ!知らんのか?お館様のお屋敷にも居たであろう?
 あれをこの城でも飼おう!きっともふわふわで気に入るぞ!」

「いや犬くらい知ってますけどね!そうじゃなくて、本当に旦那に世話出来んの?」

「何を言うか、俺だけではなくと共に飼うのだ。
 仔犬が良いな、あまり大きいとを噛むやもしれん」



ひとりで納得している幸村を無視し、佐助はまつを泣き笑いような表情で睨む。
よくも面倒事を増やしてくれた、と恨み言のつもりなのだろうが、まつはにこりと笑い、 幸村に対しても有効な一言を放った。



「猿飛殿、真田殿が奥方様との赤子をもうけられた時分の練習にもなりますゆえ、」

「――っ!ぅぐ、げほっ!…ま、ま、まつ殿っ!食事中に御座る!」



佐助は意地悪く笑い、「そういうことでしたら、」と言って、再び天井裏に引っ込んだ。