米沢の城に着いた夜、小十郎から浅葱地の着物を渡され、が不思議に思っていると、 それを着て今夜の宴会に出ろ、と言われた。

着物なら信玄がたくさん持たせてくれたのだが、どうやら名高き竜殿は を“伊達の人間”として扱いたいらしい、と自分に言い聞かせ、大人しくその浅葱の着物を着ることにした。


朱色――甲斐の、武田の、真田の赤から、
藍色よりも幾らか明るくて薄い、奥州の、伊達の、浅葱色へ、身を移す。


ただそれだけのことで、ひどく遠くに来たのだなあと、寂寥感が押し寄せる。 上田に居たのはほんの一月程度で、それ以前は上田や甲斐からも離れた京に居たのだから、 まるで上田を故郷のように言う、その表現が正しいのかどうかは、よく分からない。

ただ、遠いと思った。

侍女が導くのに任せて、は廊下を進んだ。
茶屋時代に座敷に呼ばれたときと同じように、足音を立てないで、摺り足をするように。

目的の襖の前まで着くと、は畳に膝をついて頭を下げた。
両脇に控えた侍女が呼吸を合わせ、襖を開ける。



Lady,you're so late that I've been tired out.
 しかし、まあいい、さっさと面ァ上げてこっち来な」



その尊大な物言いに多少思うことはあれど、は言われた通りに顔を上げた。
視界に映るのは見渡す限り蒼を着込んだ家臣たちと、青絣の着流しだけで上座に堂々と居座る独眼竜。
その左隣に慶次が座っていなければ、どこか悪い集団の根城に迷い込んでしまったのだと勘違いして、 もう帰らせて下さいと口走ってしまいそうな光景だった。

しかし本当に「帰りたいです」と言うことも出来ないので、は柄の悪い男たちの間を通り、 政宗の正面まで進む。



「……参上が遅くなりまして申し訳ございません。
 斯様にご立派な城内であられますので、勝手の違いに多少手間取ってしまい、」

「世辞はいらねぇ。あんたの席はそこだ」



は再び畳に指をついて口上を述べるが、政宗はそれをあっさりと切り捨て、 自身と慶次の間の空間を煙管で示した。 お前はそんなに偉いのか、と苛立ちを感じないこともないが、実際偉いのだから仕方がない。

が大人しく着席したのを見届けると、政宗は家臣たちに呼びかけた。



Listen carefully,you guys!
 これは今回の武田との同盟の証として寄越された、弐之姫、真田幸村の室だ。
 弐之姫への無礼はそのまま武田に返ると思え。……それから、そこのでかいのはおまけだ」

「ひっでえ!ちゃんと紹介してくれよ!」



慶次が頬を膨らませて反論するが、政宗はそれを無視する。
探るような視線が一斉に向けられると、座敷での経験から視線には慣れたはずのでさえたじろいでしまった。 茶屋の座敷とは向けられる視線のひとつひとつの重さが違うのだ。

それでもかろうじて、正面を向いてしっとりと微笑むだけの対面を保つ。
強張りそうになる頬を叱咤し、出来るだけ余裕を感じさせるような表情を作る。



「存分に呑め、無礼講だ。そんで、北条のじじいをぶっ潰す!――Now,Let's party!



その言葉が乾杯の音頭だったようで、伊達の家臣たちが一斉に「Yeah!」と叫び返し、酒を呷る。
言葉が理解出来なかったせいではわずかに出遅れたが、誰も気にしては居ないようだった。

ここは本当に日ノ本・葦原の中つ国なんだろうかと疑問に思わずにいられない。 思わずにいられないが、思ってもどうしようも無い。 は猪口を呷り、酒の香りを楽しむことにした。



「あんた、呑めるくちかい」

「伊達殿……ええ、以前は都の茶屋におりましたゆえ、嗜み程度ですが、」



政宗はが一気に酒を飲み干すのを見て、少し意外そうに言った。
の居た茶屋は芝居茶屋で、筝曲などを演舞付きで披露する場所ではあったが、 演奏ではなく客の酌をすることもあった。 それに付き合ったり、姉弟子と一緒に女将の秘蔵酒をこっそり頂いたりしているうちに、 多少の酒量では前後不覚になるほどに酔うことはなくなった。

にとって意外なことには、膳の料理はどれも素朴で、ほっこりとした味付けだった。
思わず「おいしい、」と呟くと、嬉しそうな声で政宗が猪口に酒を注ぎながら言った。



「美味いだろ?小十郎の野菜を使った特別な膳だからな」

「小十郎……片倉殿の、野菜、でございますか?」

「ああ。あいつ、土いじりが趣味なんだ。似合わねえだろ?
 でも腕は本物だ。俺だって滅多に食わせてもらえねぇくらい貴重だからな、心して食えよ」



その姿は心から部下を誇っている顔で、もつられて笑った。
威圧感やふてぶてしさは確かにあるが、や幸村ともあまり歳の離れていない、 青年らしい人の顔も持っているのかと思うと、何かがおもしろかった。

「なに笑ってんだ」と言われるが、ただ笑って首を振るだけで返す。



「あんたは?聞けばどうにも、琴の名手なんだってな」

「名手にはまだまだ遠くございますが……」

「んなことねーって!
 藤屋の女将がちゃんと認めたってことは、それなりに名人級の腕前ってことなんだからさぁ」



横から乱入してきた慶次が、その長い腕で政宗との肩を一抱えに抱き込み、 酒臭い吐息で笑いながら言う。ほろ酔い、は少し通り過ぎているかもしれない。



「重うございます、慶次さま」

「またそうやって変に喋る!
 あんたもさぁ、普通に喋りゃいいのにって思わないかい、独眼竜?」

「それが普通じゃねえのか?」

「違う違うっ!の素はもっと可愛いぜ!
 そんで、ちょっと容赦ないな。あとお転婆。大酒呑み。博打が強い!」

「慶次さま、それ以上仰るならそのお口を塞いで差し上げましょうか?」



でれでれ笑いながら、酔いで饒舌になった慶次が言う。
政宗はそんな慶次を押し遣りながら、興味深そうにを見た。



「………公私の混同は致しませぬ」

「無礼講だって言っただろ。
 伊達殿、じゃなくて政宗、って呼んでみろよ。ほれ、」

「伊達殿」



顔色さえ変えずに、は政宗の要求を却下する。
慶次と同じくらいとは言わないが、彼も多少は酔っているらしく、ほんのりと首筋が赤い。



「あーあ、ほら、そんなことばっか言うから幸村と喧嘩するんだぜ?」

「……………斯様な内情は、この場にそぐわぬものであるかと存じまする」



は慶次の枡にどぼどぼと酒を注ぎ、黙れ、と視線で語った。 そのことはこんな場で蒸し返して欲しいことではなかった。 もっと落ち着いてから、ゆっくり考えたかったのだ。
政宗がにやにや笑いながらを見ていることさえ、無性に腹立たしい。

こんな宴会ならさっさと引き上げてしまおうかとは腰を浮かせかけるが、 政宗がその腕を掴んで来たため、不可能だった。



「どこ行くんだ。まだ始まったばっかだろ?」

「……気分が優れぬのでございます。
 皆様の歓迎のお気持ちはしかと受け取りましたゆえ、武田へ不徳を嘯いたりは致しませぬ」

「そんなに酔ってるようには見えねぇがなぁ?なら一曲披露してからにしねぇか?」



面白がっている感はあるものの、政宗が酔いの弾みで言い出したのでないことは瞳が語っている。
掴まれている腕は軽くゆすっても振り解けそうにないが、 あの夜の幸村のように力加減が出来ていないというわけでもない。



「では、一曲だけでご容赦願います。
 慶次さまが舞いを披露して下さるようなので、広く空けて頂きたいのですが」

「そう来なくちゃな!
 おいてめぇら、京仕込みの演舞が始まるぞ!ちっと端に寄れ、端に」



政宗が目配せをすると、小十郎が襖を開けて侍女を呼ぶ。
すると、最初から謀られていたのではないかと思うほど手際よく琴が運ばれてきた。

は溜息を吐いた。
こうなったら慶次も巻き込んで盛大に盛り上げて、隙を突いて逃げてやろう。


家臣たちが膳を持って数歩下がったおかげで、部屋の中央にはぽっかりと空いた空間が出来ていた。 琴は上座の右手側に置かれ、はそこへ移動して座る。



、何やるんだい?」

「……いまの慶次さまでも舞いきれるもの……新娘道成寺で如何でございましょう?」



この酔っ払いめ、と言外に匂わせると、慶次は「へへっ」と笑って屈伸をした。
それを承諾の意味と受け取り、は弦をいくつか弾いた。

びぃん、と空気が揺れる。調律は済んでいるようだ。



「演じますは“新娘道成寺”。無論、ご存知の方々もおられましょう。
 僧侶の安珍に恋慕した清姫が彼の人を追い求める余り、蛇体と相成りまして、
 道成寺の鐘のなかに逃げた安珍を情念の炎で焼き殺してしまいます物語」



は喉を慣らしながら口上を述べる。
慶次は開始位置についていて、の琴を待つだけだった。

一の弦、三の弦、三の弦の嬰、そして唄い出し。





「かねに うらみは かず かず ござる
 しよやのかねを つくときは しよぎやうむじやう と ひびくなり
 こうやのかねを つくときは ぜしやうめつぱう と ひびくなり」



    鐘に恨みは数々御座る
    初夜の鐘を撞く時は、諸行無常と響くなり
    後夜の鐘を撞く時は、是生滅法と響くなり




「り、い、い、ぃ、」と余韻を残しつつ、序の調べを終える。
爪弾く速度を徐々に速める。慶次は真如を体現する舞を踊る。





「じんじやうの ひびきには しやうめつめつゐ
 いりあひは じやくめつゐらくと ひびけども きいておどろく ひともなし。
 われは ごしやうの くも はれて しんによの つきを ながめあかさん」



    晨朝の響きには、生滅滅已
    入相は寂滅為楽と響けども、聞いて驚く人もなし。
    われは五障の雲はれて、真如の月を眺めあかさん。




斗、八、巾、一、一、四の変、四、五の嬰
一の調べが終わり、暫しの間奏。





「いはず かたらず わがこころ みだれしかみの みだるるも、
 つれないは ただうつりぎりな ああ どうでも をとこは あくしやうな。
 さくらさくらと うたはれて いうて たもとに わけふたつ つとめさへただ うかうかと、
 どうでも をなごは あくしやうな あづまそだちは はすぱなものぢゃえ」



    言はず語らずわが心、みだれし髪のみだるるも、
    つれないはただ移り気な、ああどうでも男は悪性な。
    さくらさくらとうたはれて、言うて袂にわけ二つ、勤めさへただうかうかと、
    どうでも女子は悪性な、東育ちははすぱな者ぢゃえ。




一、三、三の嬰、六、八、為、為、十、





「こひの わけざと かぞへ かぞへりゃ
 ぶしも だうぐを ふせ あみがさで はりと いくぢの よしわら。
 はなのみやこは うたでやはらぐ しきしまばらに、
 つとめするみは たれと ふしみの すみぞめ」



    恋のわけ里数へ数へりゃ
    武士も道具を伏せ編笠で、張りと意気地の吉原。
    花の都は歌でやはらぐ敷島原に、勤めする身は誰と伏見の墨染。




五の嬰、四、三の嬰、三、三の変、二、一、斗、





「ぼんのうぼだいの しゆもくまちより なんばよつすじに かよひきつじの
 かむろだちから むろのはやざき それがほんのいろぢゃ。ひい、ふう、みい、よ」



    煩悩菩提の撞木町より、難波四筋に通ひ木辻の
    禿立から、室の早咲き、それがほんの色ぢゃ。
    ひい、ふう、みい、よ。




十、為、為、八、六、巾、斗の嬰、九の嬰、
終曲に向かう間奏へ、爪を弾く。速く。軽く。





「よつゆ ゆきのひ しものせきじを ともに このみは なぢみかさねて、
 なかはまるやま ただまるかれと おもひ そめたが えん ぢゃえ」



    夜露、雪の日、下関路を、共にこの身は馴染重ねて
    仲は丸山、ただ丸かれと、思ひ染めたが縁ぢゃえ。




「え、え、ぇ、ぇ、」と、最後に音を引かせる。
慶次は音に合わせてつま先を軸に半回転ずつ身体を回し、鐘に絡む蛇を舞う。

音が徐々に消えてゆくと、慶次の蛇も、徐々に息絶えてゆく。


一の弦、三の弦、三の弦の嬰、そして終曲。


が爪を嵌めたままの両手を膝の上に揃えると、そろりそろりと拍手が起こった。
慶次は相変わらず「へへへっ」と笑いながら観衆を煽り立て、更なる拍手を要求する。

すぐ近くでの手元をじっと見ていた政宗に頭を下げると、その視線が刺さるのが分かった。
「拙い腕前で失礼致しました」と言うが、特に反応は無い。



Fine voice,Lady Canary.

「………え、っと?」



再び不意打ちで聞き慣れない言葉を言われ、は聞き返した。
しかし彼はが戸惑うのも構わず、指を伸ばして髪を一房掬うと、 まるで蜘蛛の糸を掴んだかのように物珍しそうな表情を浮かべた顔を近付けて観察してくる。



「ああ、まさに金糸雀だな。
 琴弾いて、唄って――……で、閨では旦那に啼かされて」

「それ以上仰るのであれば侮蔑と受け取らせて頂きます」

「それがあんたの素か?まあそう睨むな、ほんの冗談だ」



は政宗の手を払い除けると、立ち上がって襖へ向かった。
慶次が夢吉と舞の真似事をしているおかげで、好奇の視線に晒されることはなかった。




Good night,My Fair Lady!




演奏用の爪を指から抜き、腹いせに廊下に投げ捨てる。
せっかく満足のいく演奏が出来たのに腹の奥から苛々した気分がせり上がってくる。

もはや酔いすら、醒めた。