覚悟はしていたつもりだった。
は奥州に居て、この上田城どころか躑躅ヶ崎館にも居ないのだと、きちんと理解しているつもりだった。 それでも幸村は、寝所の襖を開け、そこが空っぽであることに気付いたとき、 言いようも無い疼痛が左胸のあばら骨の下でぐずぐずと暴れるのを感じた。 は奥州に居て、この上田城のどこにも居ない。 躑躅ヶ崎館にも居ない。甲斐の国のどこを探しても、居ない。 分かっていたはずなのに、改めてその現実を突きつけられると、ずしりと堪えるものがあった。 が泣きながら逃げるように自室へ戻ったあの夜から数えれば幾日も経過しているのだが、 甲斐への道中などを差し引いて考えてみると、上田城のこの寝所へ戻ってくるのは 分岐点となったあの夜以来初めてのことであるのだった。 だから、不意を突かれた。空っぽの部屋を見たとき、身体が硬直した。 「……旦那?どしたの?」 「いや……が、居らんなと、思った」 佐助は「何を当然のことを、」と言いかけて、止めた。 無人の部屋をただ映しているだけの幸村の眼が必死での面影を探しているような気がして、口を噤んだ。 その代わりに襖にかけた手を外させて蒲団へ誘導し、「湯冷めするよ」と小さく言う。 幸村はのろのろと足を進めて大人しくそれに従うと、夜着の上にどさりと座った。 ごしごしと瞼を擦ってみても何も変わらないのが、ひどくもどかしい。 数日前のこの場所で己がに対してとった行動を思い返してみると、 ただひたすらに膨大な羞恥と悔恨が押し寄せてくるのだった。 なぜあんなにむきになってしまったのか。 自分にも友が居るように、に友が居て当然のことであるのに、 なぜあんなにも頑なな態度を取ってしまったのか。 最初に手を握ったときに、が痛いと思えばすぐに離すと約束したのにそれすら守れなかった。 なんと愚かなことだろう。なんとみっともない有様だろう。 「佐助。今から俺の言うことにすべて『そうだ』と返せ」 「………えー…なにそれ。なに遊び?」 不満そうな佐助に「なに遊びでも無い」と命令であることを言えば、 やはり不満そうに「はいはい」と溜息混じりに返事があった。 目を閉じて、数瞬ばかり頭の中を落ち着かせて、口を開く。 「俺は馬鹿だな」 「うん、まあ。そうだろうね」 「馬鹿では武田一番槍の名が泣くな」 「そうかもねえ」 「つまらん嫉妬をした」 「まーそれが男ってもんでしょ」 「……なのにが居らぬだけで、此れほどまでに狼狽する俺は、おかしいか?」 主君の「俺は馬鹿だ」という独白にはあっさりと同意したのにも関わらず、 佐助は最後の問いかけには「そうだね」の「そ」の音を喉に詰まらせて黙り込んだ。 そんなことないさ、と言ってやりたいと思う。 それでも幸村がじとりと見上げてくるので、「それが男ってもんだろ」と、ひとつ前と同じ答を返した。 一応は肯定に聞こえるその言葉に納得したのか、幸村はばたりと無造作に寝転がった。 寝転がったというよりは、座っていた体勢を崩してそのまま倒れ込んだという表現が正しいかもしれない。 「が居らん」 「うん」 「…嫌だな」 「だから迎えに行くんでしょ」 蒲団の半分、襖から遠いほうにはいつもが居た。いつもとは言ってもまだたったの一月だが、 それでも刺客が飛び込んで来ても自分が壁になれるように毎晩気をつけていた。 その半分が薄ら寒さを伴って、ただ空いている。 眠れるのだろうかと幸村は不安になった。 香を焚き染めたの袖が無い。白く細長い、あの流麗な音を奏でる指先が無い。 何もかもが足りないなかでは、たとえ無理に眠ったとしても悪夢に苛まされそうだ。 「……のあの打掛を此処に持って来いと言ったら、お前は俺を破廉恥だと思うか?」 「あー………これまだ続いてんの?それとも正直に答えていいの?」 「さっきの命令は取り消しだ。さあ正直に申せ。 俺は破廉恥だな、そうだな、そう言いたいのであろう!」 じたばたもがきながら「破廉恥だ!」とのたまう主は、いつも通りに見えた。 佐助は軽くふきだしてしまった口元を押さえつつも、なにをひとりで盛り上がっているんだか、と呆れるのだった。 「さては俺様に姫さんに変化させてあの打掛着て添い寝しろって言うつもり?」 「ちがっ…誰がそのようなことをしろと言った!!」 幸村はがばっと起き上がって佐助に言う。 月明かりでも判断できるほどに、その頬やら耳やらが赤くなっていた。 佐助は殴られないうちにと幸村から距離を置き、ついでにそのままの部屋へ向かうことにした。 目標物は例の朱色の打掛である。 「うそうそ。まあ、後から姫さんに怒られたくないからさー、 へんなことに使わないって約束してくれるんだったら持ってきてもいいけど?」 「へ、変とは何だ!巾帳代わりにするだけだ!」 の愛用するあの練香の匂いが無いと落ち着かないのだろうと佐助には最初から分かってはいたが、 先ほどの妙な命令の仕返しに意地悪く言ってみたまでだ。 まさか本気で幸村がの着物を抱いて眠るつもりだとは思っていない。 それでもそう言ってみたところでまた「破廉恥だ!」と叫ばれ、城中の者の安眠を妨げるのが目に見えているので、 佐助はにやぁと笑って鴨居をくぐった。 ◎ ◎ ◎ 宴の夜が明けて。 入るぞ、と声がしたと思った次の瞬間には、に宛がわれている部屋の襖が呆気なく開いた。 どうぞと返事をする一瞬の暇さえなかった。 今はただ鏡架に向かって髪を梳いているだけだったから良いものの、 もし着替え中であればどうするつもりだったのだろうか。 は批難を込めた視線を遣ったが、政宗は口の端を持ち上げてそれを流した。 「爪、わざわざ落としていくとは粋なことする奴だな。 小鳥のくせに爪が無くちゃあ止まり木からも落っこちるぞ」 「……まことに申し訳ござりませぬ。 演奏の疲れで所作への配慮が些か手薄になってしまいました」 「なんだつまんねえな。もっと食って掛かって来いよ」 にやりと笑い、政宗はに琴の演奏用の爪を懐から取り出して見せた。 今度はが口の端を僅かに持ち上げてそれを受け流す番である。 政宗は軽く口を尖らせて、ひゅぅ、と音を出して揶揄する。 ただ大人しいだけの女じゃないが、ただ立場を分かっていない馬鹿というわけでもない。 姫という肩書きや豪勢な着物を無しにして単なる『』という人物を見れば、 恐らくは甲斐で垣間見た感情豊かな姿が根底にあるのだろうということは分かる。 そこからどうやってこの喰えない女になってしまったのかは知らないが、それでも現状だってさほど悪くはない。 「何かわたくしに御用であられましょうか?」 「いいや別に。あんたの顔を見に来ただけだ」 は呆れたように小さく空気を吐き出すと、きちんと向かい合っていた政宗からわずかに視線を外した。 自身とも幸村ともそう大きく離れているわけではない年齢で奥州全体を纏め上げているという自負がそうさせるのか、 それともが差し出された立場であることによるのか、 彼はどうにもに対して対等以下の扱いをしているように思う。 今だって、身だしなみを整えている、他人の妻に対しての態度とはとても思えない。 隠された右目の分だけ研ぎ澄まされているかのような視線が、 面白いものを見るかのようにを観察している。 「気にするな」とでも言いたいのだろうか、政宗は手の甲をに向けてひらひらと振る。 人前で化粧をするのは気が引けるものの、このまま向かい合っていても何も進展しないことだけは確かだ。 いつまでも化粧をしないままというのも無礼に当たるだろう、と言い訳のようなことを考えながら、 は正座をしたまま膝をずらし、鏡架に向かった。 「なあ、武田の隠れ名物って何なんだよ」 「隠れ名物、でございまするか?」 「ああ。あんたが虎のおっさんに泣きついてる時にな、 猿飛の野郎が『武田の隠れ名物二重唱』だとか言ってたんだが、意味が分からねえ」 は政宗が言っているときの自分のしていたことを思い返してみた。 そのときは不安定な心情を吐露し、みっともないほど泣きながら信玄に縋っていた。 幼子のときのように、「おやかたさま」と何度も何度も呼びながら。 まだ幸村が弁丸と名乗っていた時代、「どちらのほうがお館様のことを敬愛しているか」の 雌雄を決するために、ふたりで何度も何度も「おやかたさま!」と叫び合ったことを思い出した。 竹刀で小突きあい、相手の身体に多く当てたほうが勝ちだとか。 庭の池に分け入り、一番大きな金色の錦鯉を捕まえたほうが勝ちだとか。 警備に就いている佐助を追いかけ、木の上に居る佐助を先に見つけたほうが勝ちだとか。 そのたびにと幸村が掛け声として「おやかたさまー!」「おやかたさまぁ!」と大声で言い回っていたものだから、 城中のものたちはまるでふたりで仲良く謡っているようだと言って笑っていた。 おおっぴらに『“お館様”二重唱』と名付けられたわけではないが、 躑躅ヶ崎館周辺に館を構えていたり、登城してきたりしていた信玄の家臣たちなら誰でも知っていることだったし、 の父親だってもちろんそのことは知っていた。 きっと佐助はそのことを思い出して言ったのだろうと思い当たり、はくすくす笑った。 「What are you laughing?」 「異国語は存じませぬが、二重唱というのは幸村さまとわたくしの幼少時の名残りでございます。 伊達殿がお聞きしていたとは知らず、お恥ずかしいところをお見せして申し訳ございませぬ」 「そりゃ別に構わねえが、なんだよその“幼少時の名残り”ってのは」 「幼少時に、その……ふたりでよくお館様の御名をお呼びしていたのです。 其の声が二重の唄のように聞こえたのでございましょう、二重唱と揶揄されておりました」 なるほどなァ、と納得し、政宗もからからと喉を震わせた。 が、そこで『ふたりでよくお館様の名を呼んでいた』というところに引っ掛かりを覚え、 「あ?」と声を漏らす。 「てことはあんたもあれか、あの馬鹿みてぇに『My Lord!』 っつってた、ってことか?」 「…………はい。負けじと、張り切りましてござりまする」 小指に紅を取り、少量をくちびるに乗せながらが言うと、政宗があぐらをかいた膝を叩いて笑った。 は可能な限り何でもないような表情を装いながらも、 内心は隠しておきたかった過去を自分で語るという恥ずかしさに満ちていた。 政宗は宴の場で慶次が『素のはもっと可愛くてお転婆で大酒呑みで博打が強い』と言っていたことを思い出した。 なるほど幼少から幸村と張り合っているようなじゃじゃ馬姫であれば、そのような修飾も為されるだろう。 「面白ぇなあ、あんた!今度は骨牌でもしながら呑み比べと洒落込もうぜ」 「……僭越ながら、わたくしは伊達殿が思っておられるより強うござりましょう」 「あ?望む所だ。小十郎のありえねえ強運舐めんなよ」 横目で政宗を窺い、口の端をゆったり持ち上げては笑ってみせる。 政宗は「はっ、」ともう一度鼻で笑い、目の前でさらさらと揺れるの髪を一房摘み上げた。 「俺が勝ったら、あんた、ずっと奥州に居ろよ」 「…お戯れを申されまするか」 指に巻きつけると、の髪から白梅の香がふわりと漂う。 幸村のものを彼の手の届かないところでこうして弄っているというのは、それだけで実に気分が良いが、 一筋縄で行かないという女の、なんと惹き付けられることか。 涼やかな甘い声を持つ小鳥と見せかけて、猛禽のように鋭い部分が見え隠れする。 それらを全て暴き、手中に収めてみたいと、胸の奥から声がする。 政宗は強めにの髪を引っ張り、自分のほうへ顔を向かせた。 眉を顰めるその顔にぐっと近寄ると、逃げられないように顎を掴む。 「その顔、もっとよく見せてみろ。 あんたに似た奴を国中から探し出して、甲斐へ人質返しに寄越してやる」 「伊達殿、」 「幸村も案外そっちを気に入っちまうかもしれねえなあ。 そしたらあんたはどうする?今の内にこっちにくれば可愛がってやるぜ?」 はむっとして政宗を押し返す。 「幸村さまは必ずわたくしを迎えに来てくださると仰いました。 わたくしは、わたくしの夫を信じて待つのみにござりまする」 「Oh,you're a perfect picture of the wife. それなら、俺がいつか幸村が討ったら、あんたを奪ってやろうか」 は「幸村さまは、」と反論しようとしたが、 顎を掴む政宗の指が口を覆ったせいでそれは不可能だった。 文字通り目と鼻の先で、竜と喩えられる強い眼光がぎらりと瞬くと、 「その声は唄うときのために温存しときな」と低い声がする。 愉快そうな表情を浮かべて離れていく政宗を眺めてみると、 何もかもが幸村と違うことに気付いた。 髪色の褪せ具合も、まなじりの柔らかさも、何もかもすべて。 これが幸村の宿敵なのかと、は息を呑んだ。 |