政務をこなしつつ奪還のための計画を練っていると、佐助がやって来て来客を告げた。
さて誰であろうかと考えながら幸村は筆を置き、襟の合わせを直してから立ち上がると、 佐助を案内役として来客が通されたという部屋へ向かった。

しかし後ろからついてくる佐助がにやにや笑っているのが気に掛かる。
そういえば「お客さんですよー」と言った先ほどの言葉にもどこか笑いが含まれていたように思う。



「佐助、今度は何を企んでおるのだ」

「あっ、またそーやって人聞き悪いこと言う。
 言っとくけどそんな余裕ぶってられんのも今のうちですからね、っと、はい着いた」



後方から廊下の奥の障子をひとつ指差し、佐助が言う。
幸村が小さく頷いたのを確認すると彼は忍らしく天井裏へと姿を消した。

別に余裕ぶっているつもりはないが何だというのだろうか。
この先にが居るとすれば動揺してしまうだろうが、そうでなければ幸村は自分が余裕を無くような状態にはならない だろうと思った。たとえ伊達政宗が居ようが、前田慶次が居ようが、である。

信玄公が来ているという報せもない。ならば動揺する謂れなどない。 どこかの軍のくのいちが色で迫ってくるというなら話は別だが城内に通されているのだからそれも無いはずだ。
不可解な言葉に首をかしげながら、幸村は障子の先へ「御免、」と声をかけて戸を開けた。



「おお真田殿、こうして相見えるのは久方振りで御座ろうか。健勝そうで何よりだ」

「は、あ?殿っ!?」



そこに居たのは家の当代当主、つまりはの父親である。

幸村は頭の先から血がさっと降りてゆくのを感じた。
そのまま足早にの父親の前に腰を下ろし、次いで頭を下げる。 ざりっと擦れるような音がしたがそれには構わない。 なぜ、なぜ、と心が逸る。を追い詰めてしまったことで苦言を呈しに来たのか、 こんな若造にくれてやったのは間違いだったとでも言われるのか、 それともさっさと離縁してくれとでも言われるのか。



「こ、此度の弐之姫の奥州行きの件は、ま、まことに、申し訳御座らん!
 全て某の配慮の行き届かぬ結果、姫の父君であられる殿に合わせる顔が無う御座る!」

「いや、真田殿…」

「しか、しかしっ、某は姫を必ず伊達の手より取り戻す所存ゆえ、離縁だけはご再考願われたい!
 某はその……ひ、姫でなければならぬのです。ですからどうか――― 義父(ちち) 上!」



これ以上不可能なほどに額を畳にめり込ませると、しん、と場に静寂が下りた。
幸村の耳に届くのは天板のかたかた鳴る音と、どくどくと暴れる己の鼓動のみである。

ごほん!、と、幸村にとっての舅が喉を鳴らした。



「真田殿が拙者に謝られることなど何も無い。面をお上げ下され。
 むしろ謝罪すべきは、あのじゃじゃ馬がとんだ迷惑を掛け申した、我がに御座ろう」

「しかし某は…」

「なに、離縁の申し入れに参ったのでは御座らん。
 仮にそうであったとしても……さ、先程のように請われては…ふ、ははは!」



言葉の途中ではあったが、堪えきれなかったように笑い声が上がった。 それに加えて天井裏からも佐助が腹を抱えて必死に笑い声を抑えている気配が伝わってくる。

幸村はそろりと顔を上げると、天井を睨んだ。天板がかたかた鳴っていたのは佐助の所為だったのだ。 悔しいが確かにこれは余裕ぶってはいられない状況になると予測がついたことだろう。



義父(ちち) と呼んでくださるか!ああ全く、昌幸殿と同列になれる日が来ようとはなあ!
 加えてあのじゃじゃ馬でなければならぬと……弁丸さまもご立派になられたものだ!」



余裕を無くし必死で懇願した言葉を思い出し、じわじわと湧き上がってくる気恥ずかしさで幸村の 頬から耳にかけてが薄い紅色に染まっていく。

との付き合いが幼少の頃からであるため、必然的に、この舅との付き合いも長いものとなっていた。 近頃はめっきり年老いたというので全ての合戦に参加出来ているわけではないが、彼の人は確かに “弁丸”にとって父親に並ぶ武将であると思っている。
だから多少冷静になって考えることが出来ていれば、 その人が娘のことで見境をなくして怒鳴り込みに来るような人物でないことくらい分かるはずだった。



「此度のあらましをお館様より聞き申し、本日は詫びを申し上げに参ったのだ。
 もし真田殿が、あのようなはしたない女子など要らぬと申されるのであれば、
 あれには真田殿以外に居らぬゆえ離縁だけはご容赦下されと頭を下げるつもりで御座った」

「某は其の様な事など申しませぬ!」

「しかし、が勝手に城を飛び出したのは動かぬ事実。
 申し訳御座らぬ。先刻の真田殿の寛大な御心、真にかたじけのう存じる」



笑うのを止め、頭を下げる舅に、今度は幸村が「頭を上げてくだされ」と言う番だった。



「そ、某にも責が御座る!某が詰まらぬことを気に掛けたせいで、
 つい手荒に接してしまったせいでを、な、泣かせてしまった」

「あれは昔からすぐにべそをかきましたからな、お気に病まれぬよう願いたい。
 恐らく真田殿のなされたことより、拙者たちのあれに対する扱いに手落ちがあったので御座ろう」



幸村が意味を図りかねるように首を傾げると、舅はもじもじと居住まいを正した。
そして頬を掻きながら、「恥ずかしながら、」と苦笑ぎみに切り出す。



「妻に叱られましてな……女子は、婚姻に対して男子以上に繊細であるのだ、と。
 それを十日の内に全て覚悟せよというのはとても無理だ、いつ箍が外れても仕方ない、と」

「そ、そうなので御座ろうか、」

「拙者にはよく分からぬが、拙者の妻の場合はそうであったと。
 不安に苛まされ、祝言まで泣き暮らす夜が何度も何度もあり、
 侍女や母や姉妹たちと語り明かし、そうしてようやく覚悟を決めて輿に乗るのだ、と」



それがの場合は、十日程しか無かった。
身辺整理だとか結納だとかを慌しくこなすうちに、吹っ切れる前に祝言を迎えてしまった。



「此度のことはあれがようやく不安を覚え始めた時期と重なってしまったので御座ろう。
 重ねて申し上げるが、真田殿に手落ちは一切御座らぬ。此方としては感謝さえしているのだ」

「感謝されるようなことなど…」

「十日しか暇が無かったのは真田殿も同じこと。
 それでもあれを妻として置いておきたいと仰られた。拙者たちに感謝以外の何が出来ようか」



不安で泣くというのは、幸村にはやはりよく分からない感覚だった。 それでも幸村より人生経験の豊富な、それもの母である人が言うことなのだから、 正しいのだろうと己に言い聞かせる。

泣かせてしまったことは自分の所為だという思いは消えないし、 気に病むなといわれて簡単に忘れられるようなものではないが、 少しだけ、やりなおせるだろうという希望が強くなった気がした。



の当主ではなく、の父として、改めて真田殿に願いたい。
 あの子を厳しく温かく迎えてやってほしい。そうして、どうか、末永く頼む」

「某からも同様にお願い致す所存に御座る!……ち、 義父(ちち) 上!」



ふたりは同時に頭を下げ、「こちらこそ」「いやこちらこそ」と延々と言い合い、 それは茶を運んできた女中が何事かと訊ねるまで続いた。

その後、幸村の隠し財産である秘蔵の団子を茶請けに齧りながら「死ぬまでに孫の顔も見たい」と舅に付け加えられた 幸村が顔を赤くも青くもしながら「ご、五年以内には」と言い、佐助はまた天板を鳴らさないように 耐えながら笑った。











◎ ◎ ◎
◎ ◎ ◎












「退屈で死にそう、って顔になってるぜ、



がぼんやりと琴を磨いていると、ぎしりぎしりと重い足音がして慶次が部屋に入ってきた。 は「そうでしょうね」と答えながら琴を部屋の隅に追いやり、慶次が座れるだけの場所を空けた。 慶次の肩から降りた夢吉がの膝元に駆け寄り、撫でてほしいとでも言うように潤んだ瞳で見上げてくる。



「幸村、来ねぇなぁ」

「あれで中々お忙しい御方だもの。
 政務を放り出すなんてそうそう出来ることじゃないでしょう」



慶次は「そうだけどさあ」と不満そうな声を出した。
は何も言わず、夢吉を片手に乗せながら反対の手で撫でた。

正確な日数は数えていないが、が米沢に移ってから既に十日以上は経過しているように思えた。 その間、政宗は戦の準備に忙殺されているらしく、に構っている時間はそう多くは無かった。 伊達と因縁の深い武田からの人質であるためか女中たちも恐縮しきりで、 は貸してもらった琴を弾くか慶次と話すかのどちらかしか出来ることがなかった。 その慶次も城下と街道の境で毎日幸村が現れるのを待っているのだから、本当に退屈で死にそうにもなる。



「おれ毎日待ってんのになぁ。
 幸村が来たらさ、『よくもを泣かせやがって』って殴ってやるんだ」

「お手柔らかにお願いね」

「いやぁ、に会いたきゃおれを倒して行け、ってなるかもな」



慶次が虚空を殴る真似をして、は少し笑った。
撫でられる感覚が心地好いらしく、夢吉はうとうとと瞳を閉じかけている。



「仮にそうなったとしても、慶さんはきちんと負けてくれるんでしょう?」

「…なんだい、はそんなに幸村に会いたいって?」



は「もちろん」と言って目を細めた。

早く迎えに来て欲しいと、心から思う。
朝早くから庭先で鍛練するきりりとした姿や、 政務をさぼろうとして佐助に見つかったときの気まずそうな姿や、 嬉々として甘味を頬張る姿を、もう一度見たいと思う。



「……あのね、慶さん。わたし反省しているの。
 確かにわたしは武家の女として振る舞う必要があったけど、少し融通の利かない部分があったと思う」



それは宴の夜に慶次に指摘されてからずっと考えていたことだった。

輿入れしたからには、と思ってかしこまった態度を通していたが、慶次の前ではそれを崩していたことは確かである。 本当に猫被りを通すつもりなら、慶次の前であろうと誰の前であろうとそれを通すべきだった。 そうでなければ、そもそものそんな態度を望んでいなかった幸村や佐助の前だけでくらいは、 慶次のときと同じように振る舞うくらいの融通は利かせるべきだったのだろう。

分かってくれているはずだという、一方的で自分に甘い期待を寄せていたのはなのだから、 幸村が期待通りに思ってくれなかったからといって彼ばかりに責任を押し付けるのは身勝手なことに思った。

慶次はのその言葉を聞いて、ようやく認めたか、と笑った。



「まあ、そういうところもらしさなんだろうけどさ、
 でも幸村ならきっと、が異国語喋り始めても受け入れてくれると思うぜ」

「そう、かな」

「そーだって。おれ、独眼竜から教えてもらったからにも教えてやるよ」



そう言うや否や、慶次は部屋の隅のほうから文机を引っ張り寄せ、筆を取った。
ごく少量だけ墨を磨り、適当な紙にいくつか単語を書き付ける。



「これがたしか、『旦那さま』って意味で、こっちが『幸せ』な。
 利とまつ姉ちゃんみたいなのを『はっぴーな奴ら』って言うんだって」

「それは褒めているの?」

「さあ?でも言葉として悪いもんじゃないだろ?」



軽く息を吹きかけて墨を乾かし、慶次はそれをに渡した。
まさか政宗のように異国語で会話できるようになりたいとは思わないが、 新しいものを取り入れることが悪いことだとは思わない。

はお礼を言ってその紙を懐に仕舞った。
甲斐に戻り、この言葉を使ったら、幸村はどんな顔をして驚くのだろうと考えると、 思わず「ふふっ」と笑ってしまった。 幸村はきっと、最初はが聞きなれない単語を使ったことにきょとりとした顔をするのだろう。 その顔を楽しんでから意味を教えたら、顔を赤くしておろおろするに違いない。



「さて!ずっと閉じこもってたら黴が生えるぜ!
 裏山に抜ける隠し小路を見つけたんだ、散歩にでも行かねえかい?」

「良いけど、怒られたら慶さんに唆されたって言うからね」

「要は見つからなきゃいいのさ」



膝を打って立ち上がり、慶次はの袖を引っ張った。
仕方ないという表情を装いながらも立ち上がったが、内心はわくわくしていた。

いっそ本当に淑やかに生まれていれば良かったと思うときもあったし、 その気になれば一生演技で通せるんじゃないかと思うときもあったのだが、 やはりそろそろ猫被りにも疲れてきた。



「ねえ慶さん、上田まで見渡せるかしら」

「そりゃどうだか。でも幸村が来てるかどうかは見張れると思うぜ」



「それは楽しみね」とが言い、ふたりはこっそりと部屋を抜け出した。