それからまた更に幾日か時が流れて、幸村は武田領と伊達領の境界近くの集落に居た。 集落、といっても武田を介して北条領に伊達軍を運び入れるために作らせた街道を中心とした、 いわば最低限の設備を備えた一種の軍事施設ともいえる。

幸村はそこで指揮をしていた。
上田での雑務・政務はこの数日でまとめて片付け、 伊達と北条が開戦した後に、この地が滞ることなく機能するよう監督するつもりで来たのだった。



「真田殿、炊き出しが整いましてございまする!」

「承知致した!かたじけない」



少し離れたところから幸村に呼びかける、手にしゃもじを持った人影はまつである。 彼女もまた此の地に来ていて、そして主に食事の面で尽力していた。
もはや伊達領は目前であり、それはつまりまでも目前に迫ったということだった。

幸村は話をしていた鍛冶場班の班長を促し、宿場として開放するつもりの広い平屋へ向かった。
そこでは大勢の男たちが釜を囲みながら雑多に喋っていて、 たすきで袖をまとめた女たちがその間を縫って茶や香の物を運んでいる。

幸村がどかりと腰を下ろすと、周りより少し豪華な膳が運ばれてくる。
人足たちと同じ食事で良いと彼は最初に言ったのだが、 それは女中たちに「それでは城主様の示しがつきませぬ!」と怒られてしまったのだ。 そしてまつもどうやら同じ考えらしく、幸村は仕方なく出されるがままに食べるという習慣になっていた。



「幸村様、本日の進捗状況を報告致します。
 宿場班は予定より成果をあげており、畳と障子紙、調理器具の準備を残すのみです。
 土均し班は行程を全て終えましたが、その他の班は予定通りで、滞っている班はありません」

「うむ。……では土均し班の者を均等に他班に振り分けよ。
 掘削班、水路班への比重を多少重めに振り分けても構わぬ」



報告をしにきた部下は幸村の指示に「御意」と答えて、元から座っていた場所まで戻って行った。
こうして総指揮を執るのは容易なことではなかったが、それでも概ね上手くいっていると幸村は思った。
あと少しだ。まで、本当にあと少し。ようやくここまで来たのだ。

幸村が流し込むように米をかき込むと、今度は忍隊の方の部下が報告にやって来た。 人足たちを無闇に刺激しないよう、その部下はいつもの黒い忍装束ではなく、 人足たちと同じような擦り切れかけた着物を着ていた。
幸村が視線で「まあ隣に座れ」と指示すると、部下は小さく頭を下げて従った。 傍から見ただけでは、先ほどのようにどこかの班の班長が総指揮官に報告に来ているだけのように見えるだろう。



「伊達側から人質として送られて来る者の情報が入りました。
 予定より遅れておりまして、明日の夕刻前にこの地を通り甲斐へ向かうとのことです」

「結局来るのか。要らぬと何度も申したというに…」



幸村は、と対になる人質が奥州から来るのを断っていた。
どうせはすぐにでも取り戻すつもりであるし、そもそも人質という形式ばったものなどなくても、 伊達が武田をそうした手管で陥れることはないと信用していたからだ。

確かに武田と伊達は元は敵同士で、幸村と政宗に至っては宿命と形容されてもおかしくないほど 何度も何度も衝突している。だがその間柄には『好敵手』という言葉を使うのが最も相応しい。 信玄公と越後の軍神のように、互いが互いを認めており、真正面からの戦いでしか打ち破りたいとは思わないのだ。

だから幸村としては、甲斐や上田に奥州からの人質など居なくても、同盟を破るつもりはない。
もしを取り戻すことを『同盟違反』と呼ぶなら別の話だが。



「独眼竜が右目、片倉の姉である喜多の方の従姉妹君との名目ですが定かではありません。
 恐らくは偽称であると思われます。歳の頃や背格好など、弐之姫様に非常に類似した人相です」

に?」

「はい。そのことについて、独眼竜より『言葉のままに伝えろ』との言付けがありますが…」



部下は言い難そうに言葉尻を濁したが、幸村は「良い。申せ」と端的に言った。
独眼竜のことだから、何か異国語交じりの何回な伝言でも残したのかもしれない、とは予測が出来るが、 だからといって部下の言葉で丁寧に直された言葉を「伊達政宗公の言葉」として捉えるのは些か据わりが悪いように思う。 あの男の言葉は、そのままであることが一番だ。

部下は「では、」と一度咳払いをして、言った。



「“おもしろい女だ。気に入った。礼と言ってはなんだが、
 あんたには国中から探させた弐之姫に似ている女を呉れてやる。
 気に入ったなら返さなくていい。こちらとしても弐之姫を手放すのは惜しい。”」

「――痴れたことを!」



幸村は憤然とした様子で茶碗を置き、語気荒く言った。
何事なのかと周囲の人足たちは幸村を見るが、幸村はそれに構わず席を立った。

あと少しなのだ。あと少しで取り戻せるのに、それを見透かして牽制するかのような言葉が腹立たしい。 なにが『面白い女』だ。幼い頃からお転婆な性格のを一番間近で見てきたのは、幸村だ。 なにが『気に入ったなら返さなくていい』だ。なにが『手放すのは惜しい』だ!
はあくまで同盟の保証として伊達領に行っただけのこと。 伊達に下ったわけでもなければ彼らのものになったわけでもないのに、まるで我が物顔の言葉だ。

ほんの数瞬前まで満ちていたはずの高揚感に穴が開き、そこから苛立ちや焦燥が滲み出てくる。
苛立ちは不敵な言伝を寄越してきた伊達政宗と、いつまでもここから先に進めない不甲斐ない自分へ。 焦燥は「もしが上田になど戻りたくないと言ったら」という不安へと徐々に侵食していく。


それらを振り払うように宿場の建物を出た幸村は水瓶の設置場所へ向かった。
水瓶の横に置いてある手桶に、瓶に満ちている冷たい水を汲む。 腰を老人のように曲げて着物が濡れないようにすると、幸村は頭から水を被った。

地面に滴り落ちる水滴をしばらくそのままの体勢で流し見たあと、乱雑に頭を振って水を切った。
その動作の流れで腰を持ち上げ、己に渇を入れるために頬を二度三度叩いた。



「――惑うな。躊躇うな!俺はを連れ戻す、そのために此処まで来た」



気を取り直してそう宣言したとき、なにか背中あたりに奔る予感があった。
なにか、決して歓迎できるようなものではない予感。視線。戦人である幸村は、それを殺気と判断する。

どこからそれが注がれるのかを判断しようとさっと振り向いたとき、 足元を抉るように尖った黒い鉄が飛来し、そのまま地面に刺さった。

敵襲。ならばその最有力陣営は武田と伊達の同盟を快く思ってはいないであろう、北条だ。

幸村が地面からその尖ったものを足先で掘り出し、蹴り上げて手中に収めたとき、 周囲の影に相乗するようにしていくつか人影が飛び掛ってくる。 先ほど掘り出したものを投げ返してやれば、人影は空中でも器用に体勢を変えた。

相手の顔は頭巾で覆われていてあまり見えないが、敵であると判断したならば人相など関係の無い話。 幸村は懐刀を取り出し、一番無防備な喉元を突くことでふたりほどを地に伏せた。

がきり、がきりと鉄が鳴る。



「答えよ!何処の手の者だ、どの首が狙いだ!」

「…………」

「大方北条の者だろう。武田の介入がそれほど堪えるか、北条も堕ちたものよ!」



本来の武器である槍が幸村の手元に無いとあって、その忍は楽に勝てるとでも思っていたのだろうか。 忍にしては積極的に姿を見せたが、ひとり、またひとりと幸村に確実に潰されていく。

やがて敵が最後のひとりになったとき、その忍は撤退を試みた。
幸村から大きく飛び退き、そのまま姿を晦ませるための忍術を発動させようと印を組む。

しかしそれは不可能だった。空を裂いて突如飛んできたくないがその忍の足の腱に刺さり、 次いで腹、腕、首、最後に眉間にと綺麗に並んだ。



「旦那!無事か?」

「佐助、戻ったのか」



上空から鳥を使って降りてきたのは、伊達軍の動向を観察しに行っていたはずの佐助である。
佐助は「今しがたね」と軽く言いながらも、倒したばかりの忍の傍に歩み寄り、ざっと一瞥した。



「結果から言う。伊達軍は北条軍と軽い前哨戦中。あと二日は戻らない。
 参戦している北条の忍の数は常時の半数。北条の奴らは伊達の同盟をかなり疎ましがってる」

「……そうか。ではやはり此奴らは北条の忍か」

「そーいうこと。で、こっから先は俺様の推測。
 足りない人数はおよそ二十、同盟を潰すために武田と上杉に奇襲を掛けるとして、
 ひとつの地域に割り振るのが十、だけど旦那がいま潰したのは十の半分の、五人。
 もし奴らの狙いが本当は旦那じゃなくて、例の遅れてる伊達からのお客さんだとしたら、」



佐助はそこで一旦言葉を切った。
続く言葉は少し考えれば容易に分かるもので、幸村から血の気を引かせるものだった。



「残りの五人が狙うのは、奥州に居る姫さんかもしれない」











◎ ◎ ◎
◎ ◎ ◎












慶次は今日も城下で幸村を出迎えるんだと張り切っていて、は今日も手持ち無沙汰だった。

だからは宛がわれている部屋をそっと抜け出し、いつもの裏山へ分け入った。
政宗や小十郎たちは北条領付近で起こった小競り合いの収拾に行ってしまっているので、見咎める人も居ない。

護身用に刃を忍ばせた杖を持ち、それを突きながら細い道を登っていく。
身の幅ほどの狭い地面の両側には雑草が生い茂っていて、の膝までを覆うほどだった。

慶次が教えてくれた、特別に見晴らしの良い中腹を目指して登っていく最中には 唐桃などが生えているので、背伸びしていくらか杖で落とし、抱えながら歩く。 護衛も侍女も連れずにひとりで出歩いていることを知ったとしたら幸村も政宗も 良い顔をしない(つまり、佐助や小十郎の説教が待っている)だろうとは分かっていても、 は山の上から景色を見渡すことを止められなかった。


一番大きな木の幹に右手を付けて、半歩だけ体を左に向ければ信濃の方角だ、と慶次は言った。
その方向に顔を向けながら、は木の根に腰を下ろした。


目の前に広がる山々はどれも均等に遠いようで、どれが信濃の山なのかさっぱり分からない。
それでも、もし幸村が来ていれば赤い着物がちらりとでも垣間見えるかもしれない、という 一心だけで、山に登るたびには目を凝らし続けていた。


どうせひとりなのだから、見知らぬ者たちの中でぽつんと孤立しているより、この山奥で 手頃な枝を拾って、杖の仕込み刃で削り、横笛を作ったりしているほうが遥かに有意義だ。
出来たばかりの荒削りな笛をがそっと吹いてみるとやはり荒削りなひどい音がして、鳥たちが迷惑そうにばさばさと飛び去って行った。

はそれでもいびつな音を奏で続けたが、そのうち止めて、口を開いてぽつりと小さく唄った。



「黒髪の結ぼほれたる思ひをば、解けて寝た夜の枕こそ、独り寝る夜の仇枕、
 袖は片敷く夫ぢゃというて、愚痴な女の心を知らで、しんと更けたる鐘の声、
 昨夜の夢の今朝覚めて、ゆかし懐かし遣瀬なや、積もると知らで、積もる白雪」



それは『黒髪』という題名の、が京に行って最初に習った曲だったのだが、 独り寝をする寂しさを唄っているこの曲の女は、まるで今の自分と瓜二つのような気がした。


『“あんたと居ると幸せすぎて素直にしかなれっこない。
 だからひとりで寝る夜はあんたの枕を見るのが辛いんだよ。
 枕をあんただと思って寝ようとすると、あんたの髪の香りがしてくるもんだから。”』

『“こうやって枕にひとりごとを言うあたしはなんて可哀想なんだろう。
 遠くで鐘の音がして、いつの間に寝てしまったのか、もう朝になっていて。
 夢にはあんたが居たのに、やっぱりここには居ないんだものね。
 あんたへの気持ちが積もっていくのも知らないくせに、雪ばっかりが降り積もる。”』



かつて女将が、この唄の意味をそう語っていた。
唄うときはこの曲の女になったように気持ちを込めて、と何度も何度も指導され、 姉弟子たちには『恋の“こ”の字も知らんには無理やって、おかあさん』と笑われたものだった。

今なら、この曲の女の気持ちが理解できる気がした。

次に幸村に会ったら、もっと素直になろうと思う。要らない意地を張った所為でこうなったのだから、 二度とこんな迷惑を掛けたくないし、こんな思いをしたくない。
は早く帰りたかった。 甲斐や上田と違う枕や蒲団にはちっとも馴染めない。肌触りが違うとか、重さが違うとか、 匂いが違うとか、何もかもが気になって仕方がない。 伸ばした手の先がからっぽで、ゆらゆら揺れる尻尾のような髪の一房が見当たらなくて、 たまに夜明け前に目が覚めると自分がどこに居るのか分からなくなるのだ。


だから、唄の女は、枕があるだけ自分よりはましなんじゃないか、とさえ思う程だった。


は信濃の方角にある山々をぼんやりと見つめた。 それはひどく遠く、やけに青々しく、ふもとに幸村が居るとは思えなかった。 幸村の治める地なのだから、もっと赤々としていてもよさそうなのに。

今ならこの曲の女の気持ちが理解出来るし、以前よりずっと感情を込めて唄える気がした。 ひょっとしたら感情を込めすぎて恨み節のようになってしまうかもしれないので、 聞かせる相手を選んで唄わなければならないだろう。
そうして唄うを見たら、女将や姉弟子たちは『も成長したんやなあ』と褒めてくれるのだろうか。 それとも慶次のように『恋やなあ』と笑うのだろうか。


ああそうか。
自分はいま幸村に恋焦がれているんだ。


一目でも上田の地を見たいと、一刻でも早く彼がやって来るのを見たいと、 いっそもう逃げ出してしまおうかと、そう思ってしまうのはやはり幸村のことが好きだからだ。 上田城を飛び出す前の、慶次に「好きかもしれないけどよく分からない」と言ったあの時の混乱が すっかり流れてしまえば、あとはもう話は単純だったのだ。

朝には鍛錬する姿を見て。正午前には一緒に城下へ抜け出さないかと誘いに来る姿を見て。 すぐ後にそれが見つかって佐助に嫌味を言われる姿を見て。八つ時には甘味を頬張る姿を見て。 夕餉時に晩酌しようとすると照れたように杯を差し出す姿を見て。月が昇れば一緒に眠って。 そういう日常が好きで、そういう日常をくれる幸村が好きなのだ。



「……幸村、まだかな……」



そうと自覚してしまうと、途端に遣る瀬無くなった。
いくら動揺していたとはいえ、大切な日常を放り出してしまった自分は何と浅はかだったことか。

思えばあの見合いもどきの日から、実家からの荷物などを片付けるのに手間取ったせいで、は幸村の前で琴を弾いたことが無いどころか、唄を聞かせたことも無いのだった。 久々の演奏を聞かせた相手が幸村ではなく政宗だったというのは、なんとも皮肉なものに思う。 聞かせていれば何が変わっていたと断言できる話ではないが、それでもやはり、 何かが変わっていたかもしれないと考えてしまう。


はもう一度、ごつごつした吹き口にくちびるを宛てて笛を鳴らした。
いつの間にか戻ってきていた鳥たちが再び迷惑そうに喚きながら飛び立っていく。



( どうか気付いてください。あなたの妻は、此処に居ます。 )
( どうか気付いてください。この音が、わたしの呼び声だと。 )