人足たちが驚きの表情を向けたり、佐助やまつが何か言っていたりしたのだろうが、
それらは全て幸村には届かず、彼はただ真っ直ぐに厩舎へ向かい、一番足の速い馬に跨って飛び出していた。 いま伊達軍は米沢城には居ない。 慶次は居残っているはずだが、警備の網を掻い潜った者がへ刃を向けないとは言い切れない。 行こうと思えばすぐに行ける距離まで迫っていてまだ良かったと思うべきなのか、 それともそこまで近くに来ていたのに行動を起こさなかった自分を責めるべきなのか。 幸村は気の急くがままに馬を走らせる。 早く。早く。の無事な姿を一刻でも早く視界に入れねば気が触れてしまう。 馬は幸村のそうした焦燥を感じ取っているかのように前へ前へと進んだ。 直ぐな道を抜け、山に入ろうとも、岩を飛び越えようとも、絶壁を下ろうとも、前へ進む。 どれだけ走っただろうか、無我夢中だったせいで陽の傾きさえ覚えていない。 一心に駆けたが、城下町が見えようかという頃になっても幸村も馬も全く疲れてはいなかった。 そのまま城門前まで突っ切ろうかと手綱を握り締めた幸村は、しかし町の入り口にほど近い茶屋で くつろいでいた人物に気付き、急停止した。 「―――慶次殿!!」 「おっ幸村、なんだようやくお出ましかい! いやあ、おれももすっかり待ちくたびれちまったよ」 鷹揚に笑って言う慶次に、幸村の頭に血が昇る。 よくも人の妻を拐かしておきながら、と口に出しそうになるが、今はそれが本題ではない。 「はどこだ!城に居るのか? そもそも慶次殿は何ゆえ斯様な場所で寛いでおられるのだ!」 「おれかい?あんたを出迎えてやろうと思ってね」 そう言うと、慶次は脇に置いてあった長刀を持って幸村と馬の前に仁王立ちする。 幸村はいっそ、踏み倒してやろうかと思ったのだが、周囲には無関係な民たちも居るので不可能だった。 「其処を退いて下され慶次殿!某はを――」 「だったらおれを倒してから行くんだな! はおれの大切な友達だから、あいつを少しでも傷付けるような奴とは一緒にさせたくない。 経緯はどうあれ、守るべき女を泣かせたあんたを一回殴らねえと気が収まらないんでね!」 「果し合いならば後ほど幾らでも申し受ける! だが今は其れ所では無いのだ!退かぬと申されるのであれば力尽くで通させて頂く!」 馬が嘶き、何事かと集まりつつあった民たちが二歩ずつ後退りしても、 慶次は長刀を悠々と構えたままだった。 退く意思は無いと判断した幸村は手綱をぴしりと鞭打ち、馬に「踏み倒してしまえ」と命令する。 もしが慶次と一緒に居たのならまだ安心も出来ようものだが、 慶次が此処でこうして幸村と対峙しているのだから、はひとりで居るに違いなかった。 幸村には、せめてが城の奥でじっとしていてくれることを願うしかない。 馬が一歩、蹄を踏み出そうとした、その時。 上空から慶次の足元に向かってくないが飛来し、地面に突き刺さった。 続いて聞こえる「慶次!!」という聞き覚えのある声に、幸村も慶次も頭上を仰いだ。 「お待ち――なさい、慶次!あなたと――いう――ひとはっ!!」 「え、ま……まつ姉ちゃん!」 佐助に抱えられ、大凧に乗っていたのは置いてきたはずのまつだった。 大凧が高度をぐっと下げ、まつは辛抱堪らないといったように飛び降り、慶次に走り寄った。 店の影などから成り行きを見守っていた民たちが驚きで声を上げる中、 まつは薙刀を構えて「あなたの相手はわたくしです!」と宣言した。 「真田殿、慶次の相手はわたくしが引き受けますゆえ、 早く奥方様のもとへ――手遅れにならぬうちに、どうか!」 「まつ殿……かたじけない、行くぞ佐助!」 幸村は馬の鼻面を促し、遠目に見える米沢の城へと向けた。 「はいよ」と答えた佐助は大凧に乗ったまま、上空から付いて来る。 城の裏手にそびえる低い山から鳥が一斉に飛び立つのが、ひどく目に付いた。 「ちょ、待ってまつ姉ちゃん、手遅れってなに、なに!?」 「お黙りなさい!わたくしは恥ずかしゅうござります! よりにもよって人さまの奥方様を拐かすなど――慶次!聞いているのですか!」 慶次が長刀を収め、まつに正座で説教される姿を、民たちは驚きつつ笑いつつ見守った。 ◎ ◎ ◎ そろそろ戻ろうかとが腰を上げたとき、鳥が一斉に飛び立っていった。 今度はあの笛を吹いていないのにどうしたことだろう、とは首を傾げる。 しかし一歩足を踏み出したところで前後左右にさっと人影が飛び降り、を囲み、ひとまず鳥が去って行った理由は理解することと成った。 いつから潜んでいたのか、は忍に囲まれていたのだ。 鳥たちは彼らがいよいよ行動に移すという気配を感じ取り、去って行ったのだろう。 「真田幸村が正室、弐之姫殿とお見受けします。 大人しく我々に従って頂きたい。抵抗さえなされなければ命の保証は致します」 は咄嗟に杖を抱き込み、身を強張らせた。ざわりと木々の葉が揺れる。 忍たちはひどく余裕そうな様子である。 恐らくは相手が丸腰の女ひとりだと油断しているのだろう。 「……其方らが何処の忍かは存じませぬが…… わたくしは生憎と真田忍隊以外の忍は信用せぬことにしておりますゆえ、従い兼ねます」 「………………」 嘲笑うような雑音が忍たちの間に起こる。 が杖を構えながら木の幹のほうへ後退りすると、忍たちは一歩ずつ近寄ってくる。 この忍たちが何処の所属かということは分からないが、少なくとも武田や伊達の味方ではないことくらいは分かる。 同盟の人質であるを狙うのだから、北条の忍、と考えるのが一番道理に適っているように思うが、確証は無い。 は自分の行いに、静かに奥歯を噛み締めた。 こんな時に山奥になんて入るべきじゃなかった。せめて慶次と一緒に来ていれば良かった。 書置きでもしておくべきだった。もっと武器になりそうなものを持ってきていれば良かった。 しかしそれらは全て“後の祭”というものである。 「斯様な細腕で何がお出来になられます。『従う』とただ一言申されれば宜しいものを」 「この腕で何が出来るのか、其の身を以って試されたら如何にございましょう?」 は杖の中の仕込み刃を抜き、右手にそれを持つ。 左手には仕込み刃を取り出したことで少し短くなった杖を構え、いびつな二刀流とも見えるような姿勢を取る。 勝とう、とは思っていない。 山肌を転がり落ちようとも、ただこの場を凌げればそれで良い。 さわさわと葉の擦れ合う音以外には何も聞こえない静まり返った山奥に、 都合良く誰かが通りかかる訳がない。ならば、がやるしかない。 この状況を何とかできるとしたら、自分しか居ないのだから。 最初に動いたのはだった。 木の幹に預けていた背を起こし、少し遠巻きに眺めていた忍と忍の間を走り抜ける。 耳元で空気を切り裂く音がして進行方向の木に尖ったくないが突き刺されば、進路を変える。 左手方向から飛び込んでくる忍を視認したは、相手の懐に入り、杖でみぞおちを強く突いた。 さっと身を離すと崩れ落ちるその忍の背後から更に飛び掛ってくる者があり、 それには右手の刃を突き出すことで応戦する。 たかが女ひとりだと見くびるから、そうなるのだ。 は確かに姫の身分ではあるが、京に出るまでは護身のためにと武芸も学んできた。 まるで女子らしくない、と父や母に嘆かれた名残りは健在である。 忍具と杖のぶつかる、静かな山には似つかぬ不自然な音。 そこにが大きく呼吸する音が混じり、まれに忍の呻く音も混じる。 「さっさと――お帰り願い、ます!」 「……生き身であろうと死に身であろうと、あなたさまを連れ帰るまでは退きませぬ…!」 は何度も何度も向かってくる相手を突いたり押したりするが、 あくまで一瞬動きを止めるだけの効果にしかならない。 たとえみぞおちを突いてしばし地に伏せさせることは出来ても、息の根を止めることまでは出来ないので、 相手はよろめきながらも立ち上がる。 忍たちは合わせて四、五人しか居なかったはずだが、はもう百回も二百回も腕を振るっている気がした。 逃げながら反撃しているせいか、最初に囲まれた場所からもあまり離れられてはいない。 その内、の呼吸は荒く途切れがちになり、腕も重たく、思うように振るうことが出来なくなってきた。 短期決戦で勝負のつく場合に立ち振る舞うだけの技量があっても、持久戦に持ち込まれては体力が追いつかないのだ。 またひとり、木の上からの背後に降り立とうとする。は大振りな動作で左手の杖を突き出すが、忍は余裕そうにそれを受け止めた。 そのままごと杖を引っ張ろうとするので、は咄嗟に手を離す。 敵と距離を空ける役割をしていたものが捕られてしまい、手元には頼りなげな小さな刃ひとつが残った。 これではまともに立ち会えるわけがない、と、はさっと踵を返した。 もういっそ、本当に山肌を転がりながら逃げてしまおうかと、思った。 しかしそれは出来なかった。 の足元に倒れこんでいた忍が、にやりと笑いながらの踵を掴んでいた。偶然そこに倒れていたのか演技で倒れたふりをしていたのか、どちらなのかは分からない。 はただ小さく「あっ」と声を上げて、膝から地面に落ちることしか出来なかった。 「…噂に違わぬ気丈な態度、御見逸れしました。しかし御戯れも此処までに致しましょう。 さあ一言、『従う』と。それとも、姫はその白き首を切り離すほうをお望みか」 「………先ほども申し上げましたでしょう、真田の忍以外は信用せぬ、と。 其方らに『従う』と言ったとて、まことに命の助かる保証など何処にありますか」 はゆっくりと身体を起こし、てのひらや着物についた土を払った。 掴まれた方の足首がじんじんと痛む。折れてまではいないだろうが、筋を違えてはいるかもしれない。 忍たちはそんなの周囲に集まり、冷ややかに見下ろしていた。 その視線が、「保証など無い」という自分の言葉を裏付けているようで、思わず哂ってしまう。 「忍の手管ならば存じております。捕虜になれば辱められ、いずれは何処ぞの地で捨てられる。 そうなれば真田に、武田に、甚大な迷惑を掛けることとなるのは自明でございましょう。 生き身であろうと死に身であろうと、この地に弐之姫さえ居らねば同盟は破綻する。ならば、」 そこで一度言葉を切り、は自分を取り囲む者たちを睨み付けた。 震える手はぎゅっと握り、正座した膝の上に置いて、そうと悟られないようにする。 「ならば此の首など喜んで差し出しましょう! わたくしはもうこれ以上、真田の御家に迷惑をかけるわけにはいきませぬゆえ」 「……………」 「さあ、お斬りなさい。好きなだけ、存分に辱めればいいわ。 そうしたら夫に、真田幸村に、あなたの妻は尊き真田の名を疵付けはしなかったと伝えなさい!」 やがて来るだろう衝撃の瞬間に耐えようと、は固く目を瞑り、俯いた。 「いやだ死にたくない」と、本当は泣いて、そう言ってしまいたい。 けれど、忍の手管は、幼いころから見てきたのだ。ここで命乞いをしたって、捕虜になるだけ。 恐らくは北条の城まで連れ去られ、適度に衰弱するよう虐げられ辱められながら、 武田の生ける弱みとして死ぬまで利用されるのだと知っている。 心の臓はあばら骨の下で痛いほど暴れている。そのせいか呼吸の拍は早まり、 耳の奥ではきーんと音がしていて、他の音が拾えない。 ( ごめんなさい、幸村、ごめんなさい ) ( 『待っていてくれ』って言ってくれたのに、ごめんなさい ) せめてもう一目でいいから、この目に燃える色を映したかった。 最後に見た彼の姿はどうだっただろうかと思い出したとき、 それが涙を流すにどう対応したものかとおろおろしている姿だというのは、あまりに滑稽すぎるというものだろう。 手の震えが全身に伝わったように、あちこちが震えていた。 恐らくいま立ち上がってみれば、膝が笑っているのがよく分かるだろう。 けれど、予想していたような痛みは襲ってこない。 土の踏まれる音、荒い呼吸の音、それらは微かに聞こえてはくるのだが、 いつまで経ってもの首が胴と切り離されたという感覚は無い。 もしかすると、神仏からすれば首が胴から離れるというのはそれほど重大なことではないということなのだろうか。 ならばはそうと気付かぬ内に三途の川を渡ってしまい、閻魔の前に立たされている状況なのだろうか。 あの世でもこの世でもどちらでも良いが、ひとまず状況を確認しなければならないだろう。 は、薄く涙の溜まった瞼をゆるゆると持ち上げる。 |