映る色は青々とした中の、燃える色。


その人は右手で忍のうちのひとりの首を掴み、木の幹に押し付けていた。 足元には捕えられている忍と同じ装束の者が幾人か倒れ伏していて、それらはみな動かない。

その人が肩で大きく空気を吸うたびに、陽炎が揺らめいているように見えた。
それは炎の色。燃える色。武田の、真田の、旗の色。



「……幸村……?」



地獄に堕ちたものだと思っていた。浄土へはいけるはずがないと思っていたからだ。
なのに目の前に映る色は赤く、その人はが諦めたこの世の続きに立っている。

慌てた様子の影がひとつ、の横を駆け抜けていった。
そしてそれを追う、緑と橙の影も。


これが浄土の光景でないとすれば何だというのだろう。 地獄ではないし、まさか夢の中なのだという話の結末なのだろうか。 正座をしていたの膝は力の均衡を失い、横座りになる。

幸村はが呆然とした様子で自分を見ていることに気付くと、眉を顰めながら、 忍を捕えていた右手を離した。 何か言わなければ、とは口を開くが、まだ喉が震えていて言葉が出てこない。
幸村は静かにの前まで歩いてくると、片方の膝を突き、目線の高さを合わせた。 それでもいくらか幸村の方が高いので、は彼を見るのに見上げなければならない。



「この――大ばか者!!」



斜め上から予想しない音量の叱責の言葉が降って来て、は思わず目を瞑って肩を竦めた。



「なぜ城でじっとしていなかった!
 此の地が甲斐でも上田でも無いことを、己が人質の身であることを忘れたか!!」

「ご、ごめんなさ……」

「付き人はどうした?誰にも告げずに来たのか?
 このような場所に何用であったのだ、火急の用だったのか?」



は小さく首を振る。
幸村がの肩を掴み、「ならば!」と更に言葉を続けようとするのを、「だって!」と遮った。



「だって!だって…あっちの方向が信濃だって教えてもらったから、
 だから……一目でいいから、見えたら良いのに、って……」

「見えるわけがなかろう!ここから上田まで何里あると思って――」

「分かってる!分かってるけど、でも帰りたかったの!
 迎えに来てくれるって言ってくれたから、だからここでずっと、幸村が見えるかどうか探して…」



の言葉は段々と尻すぼみになり、消えていった。 何をどう言おうとも、悪いのはだ。言い訳が許される状況ではないのだ。 は俯き、消え入りそうな声で「ごめんなさい」と言った。 その言葉を口にした途端、胸の裏が焦げるように熱くなり、じわりと視界が滲み出す。



「ごめんなさい、幸村、ほんとに、ごめんなさ……
 帰りたくて…上田に、甲斐に、帰りたかっただけなの…ただそれだけのつもりで…」

…」

「で、でも結局こんなことになって、わたし……ごめんなさい……
 もうしないから。ちゃんと言うこと聞くから…!だから、置いてかないで…」



ぼろぼろと、俯いて垂れた髪の隙間から涙の粒が零れていくのが見えて、 幸村は堪らずにの頭を引き寄せて自分の肩口に抱えた。 の指先や肩が小刻みに震えているのは落涙のためだけではないはずだ。
怖かったのだろう、と幸村は思った。身を守る物も無く、顔を隠した忍に囲まれ、 一度は死をも覚悟した。あるいは今も見えない影が居るのではと怯えているのかもしれない。

けれど肝を潰したのは幸村も同じだった。
飛び立つ鳥たちの様子がおかしいように思い、要らぬ心配であってくれればとこの山に入った。 中腹を少し過ぎたあたりから木々のざわめきに混じって不穏な音が聞こえ始め、 そして最終的にが最後の啖呵を切った場面を目撃し、あとは無我夢中での首を狙おうとする忍たちを引き離し、投げ捨てていった。 逃げようとしたあの最後のひとりは、きっと佐助がうまく片している頃だろう。

「泣くな」と声色を和らげて言うと、はまた「ごめんなさい」と咽ぶ。
着物を握りながらもまだ震える白い細い指先も、抱えた髪から馨る白梅の練香も、 何もかもこうして無事に手中にあるのだと実感する。 ただそれだけで、肝を潰したことなど綺麗さっぱり流してしまって構わないとさえ思う。



「置いてなど帰るものか。だからもう泣くな。
 を泣かせてしまっても、俺は上手く慰める術など知らんのだ」

「ん…ごめ、ごめんなさ…」

は、良いのだな?本当に俺の元に戻っても良いのだな?
 これからも俺の無骨のせいで涙する日があるやもしれんし、
 またどこかへ行こうとしたら…今度は閉じ込めてでも離さぬと言い出すやもしれん」



それでもいいのか、ともう一度問われ、は幸村の背中に腕を回し、きゅっと抱きつくことで返事の代わりにした。 頼まれたって、こちらからこの腕を離したりするものか、と。

まだ近くに倒れたままの敵の忍の姿があったりしても、ちっとも気にはならなかった。 互いに、一月振りの相手の実感を噛み締める以外に今するべきことは何も無いだろうと思った。


風が山を鳴らす。
若草の匂いが鳥の囀る声と共に運ばれてくる。


佐助がまだ戻ってこないことを横目で確認した幸村は、一度大きく深呼吸をした。 その勢いでの髪を梳いていた手に力を込め、一層近くに引き寄せると同時に、 の顔がこちらを向くようにする。 幸村から見て右、にとっての左の目尻のあたりを狙って唇を寄せると、 そこは涙の流れた湿った感触がして、味は涙で溶いた白粉だった。不味いが、悪くはない、と思う。

何事かとぽかんとしているの視線が幸村を刺そうとしているかのように思われて、 幸村は絡みついていたの腕や身体をべりっと引き剥がした。やはり慣れないことはするなということだろうか、 面と向かって視線が合わせられないほどに顔が熱いのがよく分かった。



「――か、帰るぞ!」



は幸村の差し出した手を握り、ようやく笑った。
少し眼は赤くなっていたが、もう涙は零れてはいなかった。











◎ ◎ ◎
◎ ◎ ◎












「なんていうかうぜぇと思ってたけど、やっぱあんたらはそうやってるのが一番だよねぇ」



結局数歩踏み出しただけで、逃げ損なった時に掴まれたの踵が悲鳴を上げたため、幸村が抱えて下山することになった。 佐助は当たり前のように山を降り切ったところで馬の番をしていて、 を横抱きにした幸村を見るなり、しみじみとした様子でそう言った。

幸村は「何を言うか!」と顔を赤くして反論するが、は幸村の一房だけ伸ばされた髪を馬を御するのと同じ要領で引っ張った。 がくり、と首が後ろに倒れ、幸村は驚いたように「うおっ」と声を上げる。



「ふたりともいっぱい迷惑かけてごめんね。でも、ちゃんと迎えに来てくれてありがと」

「そりゃどういたしまして。
 でも結局姫さんに怪我させちまったんじゃ、俺様としては後味わりぃけどね」

「うむ……遅くなってすまなんだな、



馬に乗せられながらが言うと、幸村と佐助は複雑そうな顔で答えた。
は「そんなことどうでもいいの」と笑う。約束通り、迎えに来てくれただけで十分だと思った。

幸村は足を揃えて横座りしたを鞍の後部から腕で柵をするようにひとつの馬に同乗し、米沢の城下を進んでいく。 佐助は屋根の上や木の上を通っているせいで姿は見えない。
はてっきり政宗の城に戻るのかと思っていたが、幸村は街道の方へ馬の進路を取る。



「ゆ、幸村、どこまで行くの?戻るんじゃないの?」

「もちろん帰るぞ。まずはお館様にご報告せねばならんな」



そのまま甲斐に戻るつもりだと分かり、はあんぐりと口を開ける。 不在の政宗はこの地で何が起きているのかなど知らないだろうに、 「じゃあそろそろ帰ります」と言って帰ってしまって良いのだろうか? いや、良いわけがない。

は幸村の腕をぺしぺしと叩いて「待って待って!」と抗議するが、 幸村はわざとらしく知らんぷりを決め込む。



の代わりに来る予定だった者は予定より遅れておって、まだ甲斐には居らん。
 政宗殿には『人質交換は中止だ』と甲斐から書状を出す。それで良かろう?」



がそれでも粘り強く幸村の腕を叩き続けたので、幸村は渋々答えた。
一日でも早く帰れるのに越した事はないので、としては異論など無いが、同盟はそれで良いのだろうか? 不安そうな表情を止めないに気付いた幸村は「は何も心配しなくていい」と話を打ち切る。

城下町を進んでいくと、民たちが好奇の視線を向けてくることに気がついた。 少し前に大通りで慶次と言い争っていた幸村が今は満足そうに悠々と帰っていくので、 慶次との喧嘩は何だったのだろう、と彼らは訝しがっているのだ。

そうとは知らないは、この地に来てから初めてじっくりと城下町を見ることが出来たという好奇心もあり、 きょろきょろとあちこちを見回す。
そうしているうちに、慶次が「じゃあ今日も張り切って見張ってくるぜ!」と爽やかに言っていたことを思い出し、 は「あ!」と声を上げた。



「ど、どうしよう幸村…慶さんのこと忘れてた!
 慶さんね、叔母様に見つかったら怒られるからってわたしと一緒にこっちに来たんだけど、」

「ああ、慶次殿なら既にまつ殿に見つかっておる。
 心配せずともそのうち加賀に戻られようが……佐助!」



町と街道の境が見えるほど歩んできたが、慶次の姿は無い。 場所を移して説教を続行しているのか、それとも早々と加賀に向けて発ったのか。 が胸中で「慶さんごめん慶さんごめん」と何度も謝っていると、幸村が佐助を呼んだ。



「はいはい、風来坊の動向でしょ?
 まつさんは確か、伊達んとこ経由しながら謝り巡業に出るって言ってましたけどね。
 そのうち甲斐や上田にも一回は顔見せに来ると思うから、今はほっといていいと思うけど」

「だそうだぞ、



佐助が近くの呉服屋の屋根から降りて、報告をする。
はその言葉を聞いて、慶次への申し訳無さを感じた。 迷惑を掛けたのは何も幸村や佐助にだけではなく、慶次に対しても同じなのだ。



「あのね……慶さんのこと罰したりしないで、って、お願いしてもいい?
 慶さんがわたしを連れて上田を出たのは、悪気とかがあったわけじゃないの。
 わたしの中でぐちゃぐちゃになってた幸村への気持ちを整頓させようとしてくれただけだから…」



幸村は、の口からまた慶次の名前が出てくることが面白くないと思う。 けれど、が「やっぱり幸村の傍に居たいって思えたのも慶さんのおかげだから」と言葉を続けるので、 満足と不満の入り混じった奇妙な感情が胸に渦巻いた。 どちらの顔をすればいいのか分からないので、とりあえず仏頂面を作る。



「別に……元より慶次殿をどうこうしようなどと思っておらん」

「ていうか、姫さんにそんな風に言われちゃどうも出来ねえっしょ。
 なに?その“旦那の傍に居たい”って言葉、愛の告白?」



図星を突かれた幸村は馬の足を速めて佐助から離れようとする。 にたにた笑った佐助もまた速度を上げ、幸村とにぴったり添うように走る。

は幸村の顔を見上げて「そのつもりなんだけど」と言う。 幸村が手綱を握っていた手を片方だけ離し、勘弁してくれとでも言うように顔を覆うと、 佐助は「ちゃんと手綱持って!」と少し慌てたように言う。


ああこれでもう帰れるんだと、はようやく実感出来た。