急に飛び出していった幸村に何事だろうかと首を傾げていた人足や女中たちは、 その幸村がを連れて戻ってきたことに『本当に一体何があったのだろう?』とますます首を捻らせたのだった。

唐突にして不可解極まりないが、半ば強制的に伊達の人質となっていた奥方様の無事な姿に ほっと胸を撫で下ろす気持ちがあるのも事実。 「お帰りなさいませ」や、「ご無事で何よりです」と、彼らは口々にに声を掛けた。

で、なぜこんな辺鄙な場所に甲斐や上田で馴染んだ顔が勢揃いしているのかが不思議でならないが、 とんだ迷惑をかけてしまったのにまさか出迎えてもらえるとは思っていなかったので、 驚き半分嬉しさ半分で「ただいま」「ありがとう」と声を返した。


幸村は馬の上から男を呼んだ。
それはこの集落の現場責任者に相当する男で、幸村が此処を飛び出す前、報告に来ていた男なのだが、 如何せんそれを知らないは男がびしりと礼をするのを小首を傾げて見遣るしかない。



「某は一度お館様の元へ報告に参ろうと思うのだが、此処は任せて良いだろうか?」

「はっ、お任せ下され。
 幸村様がいらっしゃらずとも先刻賜りました指示の通りに進めて参ります」



では頼む、と幸村は言い、男を下がらせた。
あと少しで此処は補給地、兼、宿場町として機能する。 恐らくは幸村が甲斐に着く頃には全ての工程が終わり、戦禍で家や職、 家族を失った者たちを移住させるまでに進捗していることだろう。

女中たちが慌てたように握り飯などの軽食を持ってきて「道中の足しに」と言ったり、 編み笠を持ってきて「姫さまに」と被せたり、とにかく次々と差し出される品々を受け取っていると、の両手から溢れるほどになってしまった。


本当に、ここまで温かく迎えてくれるとは全く予想していなかったので、は嬉しいのと申し訳ないのとが混ぜこぜになり、両腕が一杯のまま途方に呉れてしまった。
受け取っていいのだろうか、そんな資格なんて無いじゃないか。と、胸の奥が痛む。

幸村はが居た堪れないように固まったのを感じ、「もらっておけ」と言う。
女中たちも、人足たちも、みな微笑んで頷いた。



「姫さまがなさることに今さら愛想を尽かすものですか!
 お館様にお仕えするものはみな、童の時分の姫さまに散々振り回されましたもの!」

「そうですよ、今さら水臭いじゃありませんか。
 その頃からみな『姫さまが幸村さまと添い遂げられたら良いのに』と思っておりましたのに」



そんな昔からこの策略がなされていたのか、と幸村とは顔を見合わせた。結局、知らぬは本人たちばかり、という事だったのだ。



「……じゃあ、いただきます。ありがとう」

「いいえ!道中、どうかお気をつけてくださいませ」



幸村は手綱をぴしりと鳴らし、馬を歩ませ始めた。

段々と集落が離れていっても、振り返ればいつまでも手を振っているのが見える。
は背中を幸村の腕に預け、足をぶらぶらさせながら、空を仰いだ。次に目指すは甲斐である。











◎ ◎ ◎
◎ ◎ ◎












伊達領と北条領との境で起きた諍いは本当に小規模なもので、一見しただけでは農民同士の衝突のような 取るに足らないものであるように思われた。しかし伊達領の農民が同じく農民に扮した北条の忍の挑発に乗ってしまったのが 実際のところであり、開戦を目前に控えた緊張状態にある軍の筆頭として、政宗はそれを見落としはしなかった。

けれど敵方の策略は、その小競り合いで伊達軍の結束を揺るがすことだけを目的としていたわけではなかった。 つまり伊達・武田の同盟関係の崩壊である。

更に言ってしまえば、伊達軍の結束など揺らごうとも揺らぐまいともどちらでも良かった。
ただ政宗の注意を外側に向けさせ、そうして出来た僅かな死角を突いて、武田から差し出された人質であるが米沢に不在であるような状況にさえなれば良いのであって、小競り合いによって近隣の村からも不満や反発の声が 上がるようにでもなれば一石二鳥でめでたしめでたし、という程度にしか捉えてはいなかったのである。


政宗が直々に出てきたことで、不和の原因となった男の片方が農民に扮した北条の忍であることは看破された。 ならば次の段階へ、ということで、近くを流れる小さな川を境にして政宗の軍と北条の軍が 正式に睨み合いを始めたのが少し前の話。

が米沢城の裏手へとこっそり抜け出したころには、両軍は小規模ながらにぶつかり合っていた。 総力戦を間近に見据えているので、参戦している人数は少ないものである。 忍部隊などは常時の半数程度しか駆動させなかったほどだ。

彼らにとっての生死はそれほど重要ではなかった。
出来ることなら死んだと見せかけて同盟を壊したあと、真田の弱みとして手元に置いておけば有用だろうとは思うが、 音に聞いた以前通りの『弐之姫』の気性ならばおいそれと従わないことは容易に想像できることであり、 そうなった場合は“ちょっとした手違い”で命を絶つような事態にもなろうというものだ。


伊達軍が強行姿勢で攻めてこれるのは武田と上杉が手を休めたのを信用しているからである。 ならば、その均衡が崩れればどうなるか、今に見ていればいい。
思惑通りにが米沢から姿を消したのがまさか幸村の手によるものとも知らず、北条軍は一部の隙も無いほど完全に 勝利を信じていた。

そしてその自信が崩れ去ったのは、と同じく米沢に居たはずの前田慶次が叔母の背後で苦い顔をして現れたときだった。





「あー……よう独眼竜!戦況はどうだい?」

「おい、なんでてめえが此処に居やがる?」

「それはなんていうか、話すとすっげぇ長い話になるんだよなぁ。
 しかもおれにもよく分かんねぇっていうか、とりあえず、が甲斐に帰っちまった、ごめん」



えへへと慶次は可愛らしく笑って謝っているつもりなのだろうが、 政宗は無言でじろりと睨むだけだった。両眼の役割を果たすその隻眼の眼力に、慶次の背を冷や汗が伝う。 おまけに、助けを求めてまつに視線を送るが、「自分で説明なさい!」と怒られてしまう。

「内容によっては容赦しねえ」と語っている、今にも抜刀しそうな小十郎の手元だとか、 尻を微妙に浮かせながら座り込んだ体勢のまま睨み上げてくる一般兵だとかに囲まれている、此処、 伊達軍本陣に、慶次の味方は誰ひとりとして居ない。



「いや、だからな、北条?の忍?が米沢に来てて、
 が狙われてる?とかで、幸村が来て、連れて帰っちまった」

「疑問符だらけじゃねぇか。どこまで本当なのか分かりゃしねぇ」

「だからおれにもよく分かんねぇんだって言っただろ?
 せっかく幸村ぶん殴ってやろうと思ったのに、まつ姉ちゃんが…」



まつはまるで政宗のように無言で慶次を睨むと、慶次はぴたりと口を噤み、視線を左右に泳がせる。 政宗はそんな慶次の姿に苛つきを忘れ、「You coward…」と呟いた。



「独眼竜殿、わたくしめがご説明致しまする!
 先日、弐之姫さまと対になられる方を狙った敵襲が真田方にござりましたゆえ、
 此方の戦況を窺っていた忍の報告から、真田殿は奥方様が危険であると判断されたのです」

「……Uh Oh, a clever monkey…!

「同盟を放棄しようとの意図ではあられませぬ!
 伊達殿からの人質となった御方が無事に奥州へ戻されましたことこそ其の証。
 ですからどうか、お叱りならば弐之姫さまのお傍を迂闊に離れました慶次に下さいまし!」



慶次が「そんなん聞いてないよ!?」と慌てるのを無視し、まつは政宗の足元に跪く。
小十郎やその他の臣下たちが険しい顔で政宗の意向を見守る中、その政宗は腹立たしげに眉を顰め、 「このまま小田原まで一気に叩け」と静かに告げた。

が居ないなら、米沢を気にしながらこんなところでちまちま燻っている意味は無い。 政宗は慶次を睨んで「嘘じゃねぇんだな?」ともう一度確認し、慶次が頭を掻きながら頷くのを見た。



「――― Holy shit!!
 折角いいもん見つけたと思ったのによ!おい進軍だ、小十郎、胸糞わりぃ!」



篭手を外して地面に叩きつけ、政宗は裾を翻して本陣最深部へ足音荒く去っていく。
ひとまずこれで全部済んだ、と慶次が安心するのも束の間、まつが慶次の首根っこを捕まえて 「次は甲斐の信玄公のもとに謝罪に行くのです!」と語気を荒げて言うので、慶次は「勘弁してよ」と情けない声を上げた。











◎ ◎ ◎
◎ ◎ ◎












幸村とが甲斐の躑躅ヶ崎館に着いたとき、既に話は通っていたようで、 ふたりを乗せた馬は止められることなく敷地内に引き入れられた。

そのまま通された部屋では、既に信玄があぐらをかいて座り、ふたりを待ち構えていた。
がばっと跪く幸村と、その一歩後ろで三つ指をつくを眺めて、信玄は鷹揚に笑う。



「戻ったか、幸村、

「はい、お館様!
 遅まきながらこの幸村、此処にこうしてを取り戻して参りました!」

「報告は受けておる。お主の口からの報告は後日で良い。
 まずは、お主に『よう戻った』と言わねばならんのう」

「…寛大なお言葉、まことにかたじけのうございます。
 此度はわたくしめの粗相のせいで、お館様や幸村様を始めとした皆々様にご迷惑を――」

「良い、良い。堅苦しいお主ほどつまらんものは無い」



信玄はひらひらと手を振っての言葉を遮った。
京から戻ってきたばかりの頃にせっかく築いた『弐之姫さまは大層お美しく、お淑やかになられた』という評判は、 今回のことですっかり『やはり弐之姫さまは弐之姫さまだった』という評判に取って代わってしまったらしい。

反論しようと口を開けるが言葉が続かないを、信玄はにやにや笑って見ている。幸村も笑いたいのだろうが必死に堪えているらしく、 かしこまった姿勢のまま静かに全身を震わせていた。



「そうむくれるな、
 お主が幸村のもとへ戻ってきたのが嬉しゅうてのう、つい言葉が過ぎたわ」



「許してくれんか」と信玄が笑って言い、の傍まで近寄ると、自分より何回りも小さな頭をぐしゃぐしゃに撫でる。 最初は拗ねたようにしていただが、最後には我慢できなくなって、「おやかたさま…!」と感極まった様子で信玄を見上げた。



「わ、わたしも!
 わたしもお館様の元へ戻って来ることが出来て、心から、心から嬉しく思っておりますお館様!」

「うむ!しかしそういうことは幸村に言ってやれ」



やはり上杉の忍と幸村を足し合わせたようだ、と、信玄は縋ってくるを引き離しながら思った。幸村はそんなを驚いたように見ている。彼は、慶次と一緒にが此処へ駆け込んできた時の様子を知らないのだ。



「ず――ずるいぞ
 某とて今この時を無上の喜びに思う気持ちは負けておりませぬお館様ぁ!」



幸村はしばらく困った様子で信玄とを見比べたあと、意を決したように立ち上がり、拳を握り締めて叫んだ。 左手にを抱えたままだった信玄は素早い動作でを引き剥がすが、それは決して手荒な動作ではなかった。

そのまま、いつものように、幸村と信玄の右腕同士が空中で交差する。

襖と障子を何枚も破きつつ飛んでいく幸村の声の名残りを聞きつつ、信玄は「よう飛んだのう」と 右手で眉の上にひさしを作りながら感心した。確かによく飛んだ。気持ちのいいほどに飛んだ。
だが気持ち悪い余韻が残るのは、幸村が『ずるい』と思った相手が信玄ではなくだったからだろう。

まったくこのふたりは、要らんところばかり似ていて困る。
信玄が「後悔は無いのだな?」とに聞くと、は少しも躊躇せずに「はい」と答えた。



がそう決めたのならば儂はもう口を出さん。
 次に痴話喧嘩をするときには、夕餉までには戻るようにするのだぞ」

「はい、お館様」



幸村の飛んで行った庭のほうへ連れ立って向かいながら、信玄は満足そうに頷いた。
が爪先立ちで庭先を覗き込むと、池から顔を出す幸村が見えた。



「ときに、伊達の小僧は良くしてくれたか?」

「ええ、まあ……色々と勝手の違いに戸惑いましたけど。
 けれど外見以上に内実は簡素で上質で……そういえば、わたしの唄を褒めて下さいました」

「そうかそうか……そうらしいぞ、幸村!」



幸村は池から上り、ずぶ濡れのまま「なんと!」と声を出すと、の傍まで駆け寄って肩を掴んだ。



「う、うた、唄ったのか!
 俺でさえ一度しか耳にしたことが無いというに!」

「唄えとの仰せでしたから」

「では俺も言う!
 次の戦勝の宴では、皆をの唄で労ってやってくれ!」



幸村があまりに熱っぽく言うので、は少し背をのけぞらせた。 そこまで期待されてしまうと逆に精神的に圧迫されてしまうようにも思うが、 それもの実力を認めてくれているからこそなのであろうから、悪い気はしない。

は眉尻を下げながら、「Okay, darling」と苦笑気味に答えた。 唐突に異国語を喋ったを『伊達に毒されたか?』と幸村は顔を引き攣らせ、「今のはどういう意味だ?」と聞いた。

は「ひみつです」と言い、そんな幸村を黙らせる。
とりあえず上田に戻り次第、琴と唄の練習を再開しなければならないだろう。 実は慶次から教えてもらったことも、その言葉の意味も、当分は内緒だ。