ようやく上田に着いたと思いきや、はまたも「お帰りなさいませ!」の嵐に揉まれたのだった。 女中も、庭師も、侍従も、大勢が大手門へ集い一斉に頭を下げて出迎える様は普段の真田軍とはどこか雰囲気が違うようで、 一体どこの軍に迷い込んでしまったのだろうと不謹慎にも思ってしまった。

夕餉は簡素ながらも質の良い、近隣の特産品をうまく活かした料理で、 やっぱり慣れ親しんだ土地の味が一番だなあとはしみじみ思ったのだった。もちろん、米沢で出された料理が不味かったというわけではないし、 どちらかといえばかなり美味しい部類に入るものではあったのだが。


恐らくは佐助の部下たちが運び出したのだろう、の自室には伊達の城に置いてきたはずの荷物がいくつか置かれていて、 それを片しているうちに女中が「お湯浴みの準備が整いました」と呼びにきた。

「今宵は特別念入りにお体を磨き上げねばなりませんねえ」と、 もよく知っている中堅所の女中が半笑いの顔で言った。 なんのことかすぐには分からず、が少し眉根を寄せると、女中たちはくすくす笑ってを湯殿に押し込んだ。



「きっと殿はお待ちでございますよ」

「え、あ、いや、ま、まさか!」



動揺したが大袈裟に身体を一度震わせると、思ったよりも声が湯殿に反響した。 柔らかい手拭いで背中を擦ってくれている女中も、身体が冷えないようにと足元に湯の桶を置いてくれる女中も、 くすくす笑いからいつの間にかにやにや笑いになっている。

まさかあの幸村に限って、という思考は、慶次が来た日の夜の攻勢を目の当たりにしてしまったために、 もはや通用しない。それでもは『いやまさか』と自身に言い聞かせた。
奥州から甲斐、それから上田に辿り着くまで幸村はずっとを乗せながら馬を御してきたのだから、疲れていないはずがない。 そして規則正しく健康的な生活をする幸村が、疲れを放置するはずがない。 とすればやはり彼は早々に寝こけてしまうと読まざるを得ないのだ。

いくらそう説明しても女中たちはにやにや笑った顔を収めようとしない。
しまいに、「姫さまは相変わらず照れ屋でいらっしゃる」と、うふふと微笑まれてははもはや何も返せず、ひたすら背中の磨かれるのを待つしかなかった。


湯殿から出て、香色に白と橙の撫子が散った浴衣を着せられ、丹念に髪の手入れをされ、 その間にごく薄く化粧を施された。仕上げに、満面の笑顔で手渡された桃の花を煮詰めたという 香りの良い水あめのようなものを首や手首の裏に少しずつ乗せる。

まっすぐに立って歩くと未だに踵が少し軋むので、女中の腕を支え代わりにして寝所までの廊下を ゆっくりゆっくり歩いていく。みんな期待しすぎだ、とは胸中で呟いた。『もしかしたら』という思いが無いわけではないが、 そうと自覚してしまった状態で寝所に行けるわけがないので、逃げ出したくなるのを抑え、 さも余裕そうな態度を繕いながら、は「もうここでいいわよ」と女中に言った。



「もうここでいいわよ、あとは自分で歩いていけるから。
 遅くまで付き合わせてごめんなさいね、おやすみなさい」

「かしこまりました、では下がらさせて頂きます。
 明朝は朝餉の時間を遅くするよう申し付けておきますので、どうぞごゆるりと」



薄暗い廊下に輝かんばかりの笑顔を残し、女中は足早に去って行った。 あまりに素早かったので、余計なお世話だ、とが反論する暇さえないほどだった。

やはりみんな期待しすぎなのだ、と自分に言い聞かせながら、はあと十歩ほどに先に迫った目的の襖を目指して行った。


踵を庇いながら歩んできたせいでいつもの倍近い時間が掛かっているし、 甲斐での幸村はいつもより若干長い時間お館様と殴り合っていたし、 ここ最近めっきりと朝夕が冷え込むようになったし、だからそうだ、きっとこの襖を開けたとき、 力尽きて眠ってしまった幸村は呆れた顔の佐助の手で蒲団に放り投げられ―――





「遅かったな、





――てはいなかった。
蝋燭には火が灯され、筆を持って低い机に向かう幸村はなにやら書き付けているようだった。

は思わず全ての動作を止め、襖に片手を置いたまま、幸村を見た。
踵のせいで早く歩けなくて、と答えようとしたが、あまりのことに頭と舌がついていけず、 「か、かかとがある、あるくといたくて」と引き攣った声になった。


『踵が有る、歩くと痛くて』と解釈した幸村は筆を止め、斜め上の方に視線をやって、どういう意味だろうと考えたが、 きっと踵が痛んだことが主題であることに変わりは無いのだろうと結論を下し、「そうか」と答えた。

かくかくと頷くを不思議そうに見て、幸村はそのまま視線を自分の手元に戻した。 出来ることならが来る前に終わらせてしまおうと思っていたのだが、まだまだ一段落しそうにない。
幸村はが近くに来ているだろうと思って、「、」と声を掛けながら首だけで振り返ったが、予想に反しての姿は無かった。 そこで体ごと反転させて振り向いてみれば、未だに襖に手をかけたまま硬直しているの姿。



「…………入らんのか?」

「いや、その、入るけど……」



其処は冷えるであろうに、と言い添えると、はもごもごと喋りながら部屋に入り、襖を閉めた。 心なしか頬や耳が赤く色付いているように見えたので、さては長湯でもしてのぼせたか、 廊下で涼もうとでもしていたか、と幸村はひとりで勝手に納得した。

は小さな歩幅でそろりと歩き、幸村の傍で腰を下ろした。
幸村は再び視線を手元に向け、筆を動かし始める。



「……書状?」

「うむ、そろそろ小競り合いも終息する頃であろうと思い、政宗殿へな」



幸村はそう言いながら、さらさらと筆を進めていく。
存外に綺麗な字だと感心し、はその手元に見入った。 が京に居る間、特別に幸村と文のやり取りをしていたわけではないので、 の中での『幸村の字』というものは弁丸時代の彼が書いたみみず文字の印象しか無かったのだ。

の字ほど丸くなく、慶次の字のように奔放にあちこちが跳ねまわっているわけでもなく。 かといって繊細というわけでもないし、筆の運びが豪快すぎて読みにくいというわけでもない。

誰かの字に似ている気がしてしばらく見つめていると、それが信玄公の字と似ているかもしれないと気が付いた。 曲がるべきところはしなやかに曲がり、跳ねるべきところは大袈裟なほどに跳ね、 とりわけ直線部分での筆運びの思い切りの良さが清々しい。


がそんなことを考えながら面白半分に見ているとは知らない幸村は、 てっきりが自分の仕事の片付くのを待つつもりなのだろうかと思い、少し焦った。
だとしたら早く終わらせなければならない、が、まだ終わりそうにない。





「えっ、あ、なに?」

「すまぬがまだ終わりそうにないのでな、俺に構わず先に寝ていてくれ」



一瞬、聞き間違えたかと思った。
が「ん?」と喉の奥で不思議そうに言ったのを幸村は耳聡く聞き取り、 「火は灯したままでも構わんか?」とだめ押しの言葉を口にした。聞き間違いではなかった。

名前を呼ばれたとき、ついに来るのかと思って身構え、故障したかのように鼓動していたの心臓が、波が引くようにさあっと鎮まっていった。



「うん……平気、点けたままで。
 ほら、あの、昼寝なんてもっと明るいときにするものだし………はぁ…」



は立ち上がり、敷かれた蒲団までよろりとしながら歩いて行った。 緊張が解けると、途端に体が重くなったように感じる。 おまけに踵がまた痛み出したようにも思う。
ああまったく、自分は何を考えていたんだろう。やはり幸村は幸村だった。 口元が引き攣るのは、ほっとした気持ちからなのかそれともがっかりした気持ちからなのか。 どちらにしても“そういうこと”を考えていたのが自分だけだというのは極めて恥ずかしいものだった。

幸村はがなぜ溜息を吐いたのか理解出来ずに首を捻るが、性急に終わらせるべき仕事が目の前にあるせいか、 正解には辿り着けなかった。

は膝から先だけに夜着を掛けて、最後の足掻きだとでもいうように幸村を振り返った。



「……明日、いつもよりゆっくり起こしに来るんだって」

「そうか。長旅で疲れたろう、はゆっくり休めということだな」



もしこの場に佐助が居れば、「ちげーよばか!」とでも言っていたかもしれない。 ひょっとするといま正に天井裏でそう思っているかもしれないし、もよっぽどそう言ってやろうかと思ったほどだ。

けれども、そうやってひとりで勝手に気分を上げ下げしている自分が恥ずかしくて、虚しくて、悔しくて、情けなく思う。 は「おやすみ!」と言い捨てると、頭まで夜着を被って身体を丸めた。 幸村なんて、いざ書状を書き終わって休もうかと思ったときに自分の入る場所が無くてちょっと困ればいい、と思いながら。


幸村は振り返りこそしなかったが、が不貞腐れたように横になるのを気配で感じていた。 それでも筆を走らせる手は休めないし、文面にばかり気が行って、なぜがそうした態度を取るのかは分かっていない。

の身は以後こちらで預かるということ。と入れ替わりに来る予定だった女は既に奥州に帰したこと。 人質のやりとりが無くても武田に同盟を放棄する意志の無いこと。 国境付近に造った集落は武田と伊達の共同統治領ということにして、実際には中立した立場を与えること、など。

他に報せるべきことを全て書ききった頃には、蝋燭は幾分か短くなっていた。
最後に署名をしたら懐紙で余分な墨を拭い、くるくると巻いて紐で綴じる。 さっそく佐助か忍隊の誰かに頼もうかと思って天井を仰いだが、ようやく根城に戻ってきたというのに こんな時間に仕事をさせるのも酷かと珍しいことを考え、半開きにしていた口を閉じた。


もうとっぷりと夜は更けている。
さすがに肌寒く思い、早く蒲団へ引っ込もうと身体を反転させた幸村は、 そこにが丸まっているという現実にようやく気付き、がちりとその体勢で固まった。

―――明日、いつもよりゆっくり起こしに来るんだって。
そう言ったは眠っているのだろうか、今や小さく呼吸音を立てるのみである。

膝立ちのまま枕元へ近付くと、黒い艶々とした髪が夜着の隙間からばらばらと零れているのが見えた。 恐る恐る更に顔を近付けてみれば朱唇の比喩がそのまま当て嵌まるようなくちびるが薄く開いているのさえ見て取れる。

幸村はそのことにある種の感動さえ覚えながらまじまじとを観察するが、自分はなんてことをしているんだ、とすぐに我に返った。
寝顔というのは決して他人に見られてこころよいものではない。 もし自分が眠り込んでいる様子を佐助がにやにやと覗き込んでいたとしたら、 「気持ち悪いぞ佐助!」と叫んですぐさま飛び起きるだろう。 自分がされて嫌なことは他人にするべきではない。 それは幼い頃から信玄にみっちりと叩き込まれていることのひとつだ。


幸村は勢い良くから顔を背けた。 “見るな、見るな、見てはいけない”と己の良心が騒ぎ立てるが、 その一方では“見ていたい”と主張してくる気持ちもある。
絹糸のような髪だとか、白い頬だとか、自分には無いそれらすべてから目が離せない。 しかも、目が離せないだけならまだしも、指が吸い寄せられそうになるのはどうしたことか。

真田幸村はいつの間にこんなに破廉恥に取り付かれてしまったのだろう、 ずっと見ていたいし出来ることなら触れてみたいのだ。 だが、それでは折角休んでいるを起こしてしまう。
どうすればいいのか、と混乱の極みにある幸村の脳が下した判断は、 『少しくらい髪に触れるくらいなら良いんじゃないか』という、双方の主張の折衷案だった。 他の場所を触るより起こしてしまう可能性は低いだろうし、何よりふしだらであるという自覚も少なくて済むのだ。


そんな計算が働いた時点で十分にいかがわしいということに今の幸村が気付くはずもなかった。
彼は無造作に広がっている黒い髪を一掴み分だけ掬うと、滑るような表面を撫でてみたり指を絡めてみたりする。 佐助が居れば、緩みきった幸村の口許をすぐさま指摘して囃し立てたことだろう。

しかし本来、人間の毛髪というのは馬にとってのたてがみと同じであり、 つまり犬猫にとってのひげと同じ機能をするために生えているのである。 つむじのむず痒さと、まだそれほど深く寝入っていたわけではないということが相まったは、「ん、」と喉を鳴らしてから薄く瞼を持ち上げた。



「お、あ、すすすすまん!」

「………おしごと、おわったの?」

「おわ、終わったぞ。だから起きずとも良い、寝ておれ」



ぎくっとした幸村は、誤魔化すようにの前髪をわしゃわしゃと掻き回す。 「んー」と間延びした返事と共にへにゃりと笑い、醒めてもいないし眠ってもいないは、よくわからないが言われるままに瞼を下ろした。

とりあえず難局を脱した幸村は静かに息を吐き出した。もう眠ってしまおう、これ以上は危険だ。
蝋燭を吹き消し、が独占していた夜着を僅かばかり取り戻すと、既にによって温められていた蒲団に身を捻じ込んだ。



しばらくそのまま夢と現の境を行ったり来たりしていたが、やがてが寝返りを打ち、幸村に背を向けた。 近くにあった熱源が離れてしまうのが惜しくて、幸村は咄嗟に腕を伸ばし、の腰骨あたりに絡みつかせる。どこからか良い匂いがするのに惹かれて背を曲げ、 鼻先を寄せてみれば、それはの首の裏だった。

団子のような甘さではないのだが、確かに甘い香りがする。それがぼんやりと思考速度の鈍った 幸村をどれだけ惹きつけたかといえば、『いっそ食えるのではないか』と思わせる程には魅力的であった。
もし彼が冷静だったなら、食えるはずがないということくらいすぐに気付いただろう。 だがせっかく手の届く範囲にあたたかくてやわらかくて良い匂いがするものがあるのだ、 少しだけ、少しだけ、と自分に言い訳した幸村は、本当に少しだけ、口元にあったものに噛み付いてみた。

団子にしては厚みがない、けれど、一体どんな香料を使った高級品なのか、桃のような梅のような風味がする。 もうずっとこのままで良いような気がしてきたが、やはりあと少し、もう少しだけ、と欲求は着実に深まっていく。
腰に回した腕が、より据わりの良い場所を求めてそろりそろりと這う。そうしているうちにの着物の合わせ目に指先が引っ掛かったとき、はっと瞬間的に覚醒した幸村は いつだったかべろべろに酔った信玄と交わした言葉を思い出した。


『幸村よ、なぜ着物の合わせが右前なのか知っておるか』

『はいお館様!抜刀する際、柄が衿に掛からぬよう配慮したゆえに御座ります!』

『うむ!だがそれだけではないぞ、幸村!
 つまりほれ、このように背後から女子の胸元に手を入れ易くするためであるぞ、わっはっは!』



そう言った信玄はせっせと酒を運んでいた女中を引き寄せ、 盛大に酒を吹き出した幸村にはお構いなしで実演してみせたのだった。

(つまり此の状況を示唆されておられたのですかお館様!!!)
幸村は今の自分の姿勢を自覚した。背後からぴったりとにくっつき、頭は肩口に埋められ、右腕は肋骨を抱えるように回されている。 あと少し指先を動かせば、合わせの隙間へと容易に侵入できるだろう。

このまま続けていいものか、直ちに止めるべきか、さぁ如何する真田幸村。
などという副音声が聞こえそうなほど、幸村の内心は荒れていた。 天下もかくやというほどの二分割である。どうする、どうする、どうすればいい。 誰も答をくれない。甘い香りだけがやけに鼻につく。 しかし、もし続けようと一大決心をしたところで、このままでは寝込みを襲うという卑怯極まりない事態になり兼ねない。は幸村を信じきって穏やかに眠っている(はず)なのであり、こんな夜更けから事に及べば 明日の朝は寝不足になること確実だ。

そこで幸村はようやく気付いた。『明日の朝、いつもよりゆっくり起こしに来るんだって』と、そう言ったの意図はつまり、そういうことだったのだ。 なぜすぐに気付けなかったのだろうと悔しくなり、勿体無いことをしたとも思う。


一方ではばっちり目覚めていた。
もちろん最初は眠っていたのだが、幸村が耳を食み出したあたりで何かおかしいと気付き、 背中がやたら温かいことや脇腹がくすぐったい理由が分かったときにはあやうく叫びそうになった。
手で口元を押さえ、なんとか声を漏らさないようにはしているが、 動揺のさなかにある状態がこのまま続けばそれも限界かもしれない。 一時は鎮まった心臓が再び大きく鳴り始めている。

どうしよう、「起きてるよ」とでも声を掛けるべきなのだろうか、幸村はどうするつもりなのだろうか、 というよりそもそも彼は寝ているのだろうか起きているのだろうか。

幸村が一瞬呼吸を止め、細く長く吐息を零すのが耳をくすぐり、は肩をびくりと震わせた。口から声を出さないようにとばかり気に掛けていたせいか、 耳から伝わるその熱に反応して、鼻から抜けたような声ともつかない音がこぼれてしまう。


“ん”と“ふ”と中間のような声が聞こえて、幸村はがばっと身を起こし、離れた。 月明かりに、の小さい肩がわずかに震えるのが見えた。 まさか、まさかは起きている(または起こしてしまった)のか。
顔が発火しているのではないかというほど熱くなる。勇気を振り絞って「?」と問いかけてみれば、蚊の鳴くような音量で「…うん」と返事があった。

幸村は蒲団から出て、素早い動作で机に置いた文を手に取る。



「――さ、佐助!仕事だ、降りて来い!
 こ、この書状を政宗殿に届けてくれ、良いな、頼んだぞ!」



大声で天井に向かって幸村がそう言い、少しして佐助が天板を外して顔を覗かせた。
その表情は女中たちのようなにやにや笑いなのだが、暗闇のおかげで幸村には見えていない。



「もー、なによこんな時間に」

「だ、だからその、書状を届けて来いと言うておるのだ!
 お前の足ならば夜明けには向こうに着くだろう、さあ行け!早く行け!」

「はいはい行きますとも、お邪魔虫は退散しますとも。
 あ、行く前に、起こすのは昼にしてくれって女中さんたちに伝えておこうか?」

「う、うる、うるさい!」



佐助は「やれやれ」と呟き、目にも留まらぬ速さで幸村から書状を受け取った。 そのまま姿を消すかと思いきや、に「じゃー頑張って」と愉しそうな声色で囁き、普通に襖を開けて出て行く。

幸村は顔を赤くしたまま「佐助め」と小声でぶちぶち文句を言っていたが、が上体を起こして見ていることに気付くと、気まずそうに視線を外した。



「……実は先日、の父上と話す機会があったのだが、」

「う、うん」

「その、その際、約束したのだ。……五年以内に、ま、孫の顔をお見せする、と!」



どうすればそういう約束に至るのだろう、とは内心疑問の嵐である。
そうでなくとも赤子が生まれるには十月十日、ほぼ丸々一年かかるのに、五年以内という制約までつけるとは、 それはに眠るなという意味なのだろうか。余計に話をややこしくしやがって、とは甲斐の屋敷に居るだろう父に怨念を飛ばす。

幸村は再び枕元まで歩み寄ると腰を下ろした。そして両手での手を覆い隠すように握ると、意を決したように顔を上げる。



「俺はその約束を違えることなく期待に添いたいと思うし、
 それだけではなくて俺自身も、その……子が、居れば、良いと、思う」

「え、あ、」

「だから!だから、つまり、抱いても、良いか?」



心臓が逸る。顔に熱が集まるのが分かる。
あまりの羞恥に顔を隠したいと思うが、の両手は逃げられないように握られているのだ。 こんな時くらい言い方というものに配慮してもらいたいものだが、それが真田幸村という人なのだろう。

「どうぞ」という小さな返事を聞くことが出来たのは、幸村以外に、居ない。