数日後、上田城には頭を下げるまつと、まつに頭を押さえつけられている慶次の姿があった。



「此度は慶次がまことにご迷惑をお掛け申しました。
 信玄公を始め、真田殿、奥方様も、みなさまの寛大なご処置、かたじけのうござりまする」

「いたい!まつねえちゃん、痛いって!首がもげる!」



まつは「もげておしまいなさい!」とは口にこそしなかったが、これでもかというほど視線で慶次を批難していた。 はさすがに申し訳無くなり、幸村に視線を遣って止めさせるように頼んだ。

幸村が仕方ないといった表情で「もう良いので御座る」と口にすると、まつは更に深く頭を下げ、 慶次は「えっほんと?」とにこやかに顔を上げた。
まつは慶次の首を掴んで再び頭を下げさせようとするが、今度はが「もうよろしいですから」と口を挟んだ。



「まつ様、此度のことはわたくしに責がございます。
 慶次さんはわたくしの我侭に付き合って下さっただけですから、どうか」

「ほら、もそう言ってるし!」



まつと幸村は盛大に溜息を吐いて、顔を見合わせた。
確かにこのままでは話が進まないのも事実なので、慶次のことはこの際無視してしまうことにした。



「本日わたくしどもが参りました用向きは、謝罪のみではござりませぬ。
 せめてもの罪滅ぼしになれば、と思い、信玄公から遣いの用を賜っておりまする」

「お館様から?」



唐突に出てきた師の名前に幸村が眉根を寄せると、待ち構えていたように襖が開いた。 そこに居たのは馴染みの女中で、肩に慶次の夢吉を乗せ、腕にはもこもことした毛玉を抱えている。
何を思って信玄が毛玉を寄越したのだろうかと思ったは幸村の顔を窺うが、あれほど仲の良い幸村にも分からないらしく、首を捻っていた。

まつはそんなふたりを見てくすりと笑い、女中から毛玉を受け取った。 夢吉も女中から離れ、慶次の膝に頭を擦りつけたあと、跳ねるようにさつきの肩へ駆け上がる。



「“妻の憂を慮り、心安くあるようにとの心意気や善し。
 其方らに儂の秘蔵っ子のひとつを呉れてやるがゆえに、もう不和を起こすでないぞ”
 ―――と、信玄公よりおことづてにござりまする」



幸村が差し出された毛玉を受け取ると、それは身じろぎし、胴に埋めていた頭を持ち上げ、潤んだ黒い瞳を向けた。 毛玉は、赤茶の体毛に黒ずんだ虎毛模様が立派な仔犬だったのだ。

そこで初めて、そういえば『犬を飼うぞ!』と佐助に宣言したのだったと幸村は思い出した。 しかしそれはあくまで思い付きであって、信玄に「仔犬を譲ってくれ」と実際に相談したわけではない。
どこからこの話が漏洩したのだろうかと一瞬身構えるが、よくよく考えてみれば佐助が告げ口した以外には無いだろう。



「犬?」

「はい、甲斐犬という犬種であられると。
 真田殿が、奥方様が退屈なさらぬようにと手配されたのでござりまする」

「まあ幸村様、それはまことにございますか?」



は、幸村とその腕の中でもぞもぞしている犬を交互に見比べながら、目を輝かせて言った。 見るからにふわふわしたその仔犬に触りたくて仕方がないが、まつの前であるのでぐっと耐える。



「う、うむ。決して他意は無いぞ!決して!
 特に今は足が不自由で退屈であろうから丁度良いというものだな!」



赤子が生まれたときの練習になる、というまつの言葉を思い出し、 この場でそれを言われたらどう釈明しようかと考えていた幸村は、半ば押し付けるように仔犬をへ渡した。
すると夢吉がさつきの肩から手を伸ばし、仔犬にちょっかいをかける。 仔犬はそれに反撃しようとするので、の身体の表と裏で犬猿の諍いが始まってしまった。
最も、夢吉は単にからかっているだけかもしれないが。



「ほら夢吉、こっちに来い。
 お前はほんとうにさつきが大好きなんだもんなぁ」

「こら慶次、その口の利き方はなんですか!」



まつが軽く慶次をたしなめる間に、夢吉は言われた通り慶次の元へ戻って行った。
は「構いませぬ」とまつに笑いかけ、犬の頭や腹を撫でまわす。



「ところで、この子は何という名前なのでございましょうか?」

「まだ名無しの権兵衛らしいぜ。
 虎のおっさんは、ふたりで良い名前を考えてやれ、って」



の疑問に慶次が答える。
は幸村を窺って、どうしようかと視線で訊ねるが、幸村は少し難しい顔をしたあと、 「任せる」とあっさり言い放つだけだった。



「その犬はお館様がへと下さったのだから、が名付けてやれ」

「あら、珍しい事を仰いますのね」



はからかうように言って、犬を顔の高さに持ち上げた。 この立派な虎毛は、まさに甲斐の犬にふさわしい。 とすれば信玄公にちなんだ名前にしたいと思うのだが、さすがに不謹慎だろうか。
ならば幸村にちなんだ名にしようか、いっそ弁丸とでも名付けようか。しかし佐助の名前も捨てがたい。

散々悩み、は閃いた。組み合わせてしまえば良いのだ。



「“さよ”は如何にございましょう、幸村様」

「さよ?」

「佐助の“さ”と、源“二”郎様と“弐”之姫を足し合わせた“よっつ”の意にございます」



幸村は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑って「それは良い」と同意した。
さよ、と呼び掛けると、犬は言葉が分かるかのように鼻を鳴らす。



「なあ、そいつ雄だぜ?そんな女の子っぽい名前でいいのかい?」

「え?じゃぁ、さよ丸とか…さよ夫とか…さよ助とか…」

「さよ助ならば、もういっそ佐助で良いのではないか?」

「ごめん、さよのままでいいと思う」



ふたりが犬に向かって「佐助」と呼び掛けるのを複雑な顔で見守ることになるだろう佐助本人を想像し、 さすがに可哀想になった慶次は前言を撤回した。

だめだこいつら、似た者同士の上に『せんす』ねぇや。









昼過ぎ、幸村と慶次は中庭で手合わせをしていた。
少し離れた縁側では、仔犬を膝に抱いたとまつが並んで座っていて、何やら女子同士で楽しく話をしているようだ。



「以前、慶次殿は『恋が己を強くする』のだと言っておられたな」

「ああそうだぜ、あんたもそう思わねえかい?」



その最中、槍を繰り出すのに合わせて飛び出した幸村の突然の言葉に、 慶次は驚きながらも笑顔で返事をする。 幸村は慶次の長刀を受け止めつつ、少し考え込んだあと、「いや」と短く返した。



と添うた今でも、お館様には到底敵わぬ。
 己が強くなったという実感は無い……が、“負けられぬ”とは、思うようになった」

「へえ、そうかい?」

「今やこの腕にの身が係っているのだ、当然で御座ろう!」



その言葉が聞こえたのだろうか、とまつがこちらを向いているのに「なんでもないよ」と慶次は手を振って見せた。 ぶん、と振り回された槍をしゃがんで避ける。



「………おれの知ってる奴はさ、すげーばかだったんだ。
 だから『嫁さんが自分の弱みになる』、『嫁さんが居ると自分は弱くなる』って考えやがった」

「それは――思わぬ、ことも、ないではない、が!」

「……で、そいつは嫁さんを自分で手に掛けちまった」



幸村は思わず手を止め、見開いた目で慶次を見た。
当の慶次は口の端を少しだけ吊り上げ、笑っている。それでもどこか哀しそうに見えた。



「あんたは絶対、のこと大事にしてやってくれるよな?」



そこでふと、を迎えに行った奥州で、慶次が『守るべき女を泣かせたあんたを殴らないと気が済まない』と 言っていたことを思い出した。幸村の知らない、何か大きな過去を、慶次も背負っているのかもしれない。

妻が自分の弱みになる、という理屈は、幸村にも理解出来ないことはなかった。
もしが捕らわれでもしたら、幸村は必ず取り戻しに向かうだろう。それこそ、先日の人質騒動の時のように。 たとえ劣勢でも、この身ひとつでも、碌な装備が無くても、居ても立ってもいられずに突っ込むかもしれない。 それを見越した敵方が罠でも張っていれば、幸村の首を狙うのには絶好の機会となるだろう。

だが、だからといって殺してしまおうと考えるなど、頭がおかしいとしか思えなかった。
は幸村の弱点にもなるかもしれないが、それ以上に拠り所でもある。 それを自らの手で失くすなど、壊すなど、できるはずがない。



「――無論!妻女ひとり守れず、天下になど手が届くはずが無い!」

「……うん、そうだよな。それ聞いて安心したよ。
 これ、京の連中みんなからの言葉なんだけどさ、“を、よろしくな”」



幸村はもう一度、「無論!」と言い放つ。
今度こそ心から笑った慶次が「おれもまた遊びに来るから!」と言うので、幸村は 「もう来るな」という思いを込めて、槍を振るった。




翌朝になってみれば、まつと共に加賀へ出立する予定だったはずの 慶次は「利によろしく!」との書置きを残し、夢吉と共に上田城から人知れず姿を消していた。

どうやらまつたちと慶次の追いかけっこは終わらないようである。
してやられた!と慌しく去っていくまつを見送り、幸村は盛大に溜息を吐いた。











◎ ◎ ◎
◎ ◎ ◎












明るく陽の射す縁側で、は膝に乗せた仔犬の背を毛繕っていた。
さよは気持ち良さそうに目を細め、うとうとと船を漕いでいる。



「また此処に居たのか、

「部屋に居てはさよが襖をだめにしてしまうんだもの」



最近では、仕事に区切りをつけた幸村がと茶でも飲もうかとしたとき、 自室ではなく縁側を探す方が手っ取り早く見つかるのが日常だった。 身体の虎毛模様は相変わらずながらもさよは日に日に大きくなっていくので、 幸村はそろそろ狩りに同行させる時期かと考えていた。
しかし大きくなったと言ってもまだ仔犬、の手には大きくとも幸村なら猫の子を掴むように片手で持ち上げられる。

持ち上げられたさよは少し抵抗するが、幸村の腕の中に収まると満更でも無さそうだった。
さよを取り上げられ、はくちびるを尖らせて無言の抗議をする。 犬にばかり構うが面白くない幸村は、腰を下ろすや否や寝転がり、さよの代わりとばかりにの膝に頭を乗せた。



「……大きなお犬さまでいらっしゃること」

「わん、とでも言えば良いか?」



何を拗ねているんだか、と呆れたように溜息を吐いたは、先程と同じように指で幸村の髪を毛繕う。 尻尾のように一房だけ伸ばされた彼の髪は日に焼けて傷み、さよのそれのようにごわごわしている。



「お熱いこって、この破廉恥夫婦」

「佐助」



女中たちがくすくす笑って通り過ぎていく中、声を掛けてきたのは佐助だった。
片手で器用に盆を支えていて、その上には一口大に切られた桃がたくさん乗っている。



の旦那から差し入れ。
 桃さえ食わせときゃ姫さんはご機嫌だから、っつって」

「……で、また押し付けられたの?」

「そーですよ。俺様、女中じゃないんですけどね」



やれやれと佐助が肩を竦める。
押し付けられそうになったら逃げればいいのに、律儀に運んでくるあたりが佐助らしい。

幸村が起き上がって佐助に労いの言葉を掛ける間に、は楊枝に桃をふたつもみっつも突き刺して口に運ぼうとしていて、 さよは主人が美味しそうに食べるそれのおこぼれに預かろうと幸村の腕から飛び出した。
犬に桃を食べさせても良いのだろうかと不安になるが、ひとつくらいなら平気だろうと佐助も言うので、 手のひらに乗せた桃を口元に差し出してやる。尻尾を振って喜び、仔犬はの手を舐め回しながら桃を食べた。はその様子をまなじりを下げて見守っていたので、幸村がやはり面白くなさそうにしていたことと、 佐助が「犬にまでやきもち?」と冷やかしていたことには気付かなかった。


桃は次々にの口の中へ消えていく。
あまりに幸せそうに食べるので、幸村が手を出すのを躊躇うほどだった。



は相変わらず桃が好きなのだな」

「幸村はあんみつとかお団子とかに浮気したみたいだけどね、わたしは桃に一途なのよ」



がわざと意地悪そうに言うと、幸村は「浮気じゃなくて枇杷は今でも好きだ」と反論する。
枇杷が好きだ、桃が好きだ、と内緒話をしながら水瓶の影に隠れていた頃を思い出し、はくすくす笑った。あれから十数年経ったが、あの頃はまさか幸村の元へ嫁ぐことになるとは思っていなかった。 それを思うと、すっかり『真田の奥方様』であることにも慣れた自分は大人になったものだと感慨深くなる。

はっと思いついた顔をした幸村は、佐助のほうを勢い良く振り返り、「種はもう捨ててしまったか?」と聞いた。 面食らった佐助は「探せばあるんじゃないの?」と不思議そうに返事をする。



「そうか…城内の庭にはもう空きが無いのが残念だが、
 城下の空き地か、いっそ裏山に植えるのも手かもしれんな」

「幸村、なんの話?」

「なんだ忘れたのか、枇杷と桃の庭を造ってやると約束しただろう?」



幸村は至極当たり前のように言い、「食べ放題だと喜んでおったのに」と呟いた。
まさか幸村がそこまで覚えていたとは、と驚き、は何度かぱちぱちと瞬きをして幸村を見た。 実際は祝言の日に佐助が思い出させたのだが、野暮なことは言わないに限るので黙っておく。



「……覚えてるよ。お館様に食べて頂くんでしょ」

「うむ、城の者や忍隊のみなにもな。
 すぐに腐ってしまうものは戦場には持って行けぬが、平時に食した方が美味であろう」

「そうね。今みたいに、みんな揃って、縁側で日向ぼっこしながら」

「『桃栗三年、柿八年』と言うからにはあと三年は待たねばならんがな。
 その頃にはさよも立派な猟犬となっているであろうし、赤子も居るかもしれん」



は視線を伏せて、噛み締めるように「ん、」と答える。
佐助はの着物の裾にじゃれついていたさよを持ち上げると、音もなくそっと場を離れた。





「なあに?」

「枇杷も桃も、食べ放題をさせてやることは出来んが、
 いつか天下を獲ったのち、俺の命尽きるまで、真田幸村の妻であってくれ」



いつかのようにの両手を握り、幸村はきらきらした瞳でまっすぐに射抜く。
は陽の光さえ眩みそうなほどの笑顔を見せると、今度こそ「はい」と言った。
そうして、自分の手を掴んだままの幸村の手を口元に引き寄せ、そっと口付ける。



「あなた様のお命尽きたのちも、わたしの命尽きたのちも、
 あなた様がわたしを求めてくださる限りは、真田六文銭に誓って、いつもお傍に控えております」

「では俺も、を必ず守り抜くと、この六文銭にかけて誓おう」



幸村は自分の後ろ髪を結わえていた組紐を外し、懐から一文銭をなんとか六枚探り出して通すと、の首に掛ける。「お揃いだね」とが言えば、幸村は満足そうに「夫婦だからな」と言った。