我らが殿、真田幸村さまの御正室、弐之姫さまが床にお臥せりなさって、もう一日が経ちます。


昨日の朝餉がお済みになって一刻か二刻かののち、御方様が大きくなったお腹を押さえて 「いたた」と、お顔をしかめられたとき、幸村様は「お、お、俺はどうすれば」と この世の終わりのようなお顔でおろおろなさっておられました。
御方様が「いいから産婆を呼んできて」とおっしゃると、幸村様は何度か頷かれて、 いつものように大きなお声で産婆の名を叫ばれたのです。

私ども女中が、御方様のお体を支えてお部屋までお連れしようとすると、 「うるさくて腹よりも耳が痛い」と恨めしげに呟かれたりなどなさいました。


幸村様は、御方様が臥せっておられるお部屋に面したお庭の隅で、槍を振るっておられます。
陽が傾こうとも、夜が更けようとも、幸村様はここから動こうとなさいません。
家臣どもや忍頭殿が、お休みになるようにと幾度ご注進申し上げても、 「生まれるまでは梃子でも此所を退かん」とおっしゃいます。
忍頭殿などは「一刻二刻で、すぽーんと生まれるとでも思ってんだろ」と呆れ気味です。

「いよいよ生まれそうだ」という話が伝わったのでございましょうか、 甲斐から、お館様と御方様の父上様がお見えになりました。 いやにお早いお着きでいらっしゃいますので、きっと幸村様にはご内密に、 幾日か前から出立なさっていたものと思います。

お館様と幸村様は、いつものように殴り合い稽古をされておられましたが、 気もそぞろのようにお見受けされました。 稽古がお済みになり、お館様がお部屋に戻られましても、幸村様だけはずっとこうして、 お庭から御方様のお部屋のほうをちらちらと窺いながら、お一人で素振りをしておられるのです。


さてそのようにして、一日が過ぎたのでございます。



赤子のからだはもうほとんど見えておりますので、あと半刻ほどで、 それこそ「すぽーんと」お生まれになりそうに思います。 御方様は手拭いを丸めたものをお口に詰めて、痛みの声をあまり漏らすまいとなさっていました。 幸村様がお庭でお待ちなのをご存知でいらっしゃるためのようにも思われますし、 生来の負けん気のためのようにも思われます。
とにかく、初産にしては静かで、そして順調なのでした。



「姫様、姫様、あと少しでございますよ、
 ほらもう、足が見えて参ります、姫様、お気張りなさいませ!」



御方様は、傍に座している老女中の腕を掴み、目を瞑って、いっそう強く手拭いを噛まれます。
くぐもった声が僅かに聞こえたように思ったとき、赤子のからだがついにすべて出て参りました。



「まあ姫様、おのこです、おのこにございます!」



赤子の顔を拭いてやりますと、小さな声で「ふぎゃぁ」と泣き声がいたします。
御方様はぼんやりと薄く瞼を持ち上げ、疲弊した様子でいらっしゃいますが、 しっかりとした手つきでお庭を指差されました。 幸村様にお伝えせよとのことでございましょう、私は「はい」と頷いて障子に手を掛けました。

すると障子は、私が手に力を入れるよりも早く、すぱん!と音を立て、壊れそうな勢いで開いたのです。



「き、きこ、聞こえたぞ!いま、いまのは産声であろう!」

「幸村様」

「それか?それだな!?」



やはりというか、幸村様でございました。
幸村様は息を切らせて中へ入られ、赤子を抱いたままの産婆のもとへ駆け寄られます。

煌々としておられた幸村様のお顔でしたが、赤子を覗き込むなりさっと強張ったかと思うと、 振り返り、障子の脇で立ち尽くしていた私の肩を掴んで揺さぶりました。



「――ち、ち、血まみれではないか!」

「え?ええ、まだ産湯もつかっておられませんから…」



さすがに赤子を抱えた産婆を揺することは出来なかったのでしょうが、 私の頭も、まるで据わっていないかのようにがくがく揺れました。 片手に纏めてお持ちになっている槍がもう少しで私の頭に刺さりそうなのでやめてほしいのですが、 幸村様に動揺を鎮めていただくのが先決です。



「では血まみれでも大事ないのだな!?怪我があるわけではないのだな!?」

「は、はい。健やかなおのこにございます」



幸村様は途端に破頑なさり、再び産婆のほうへ向き直られました。
産湯はどこでつからせるのか、自分がやってよいか、などと、赤子に顔を近づけて仰います。

御方様は、幸村様のお姿が見られたことに最初はお顔を輝かせておられましたが、 その幸村様が赤子に構うばかりで少しもこちらを見てくださらないので、段々と不機嫌なお顔になってゆきます。

そうして、私たちに目配せをすると、まるで力尽きたようにどさりと枕に頭を預けられました。
口許を緩く結び、瞼を下ろし、胸はほとんど分からないほどにしか上下いたしません。

たちの悪い冗談はおやめください、と注意する意味を込めて老女中が「姫様!」と少し厳しく言いますと、 幸村様はようやくはっとしたお顔で振り返られました。



!聞いたか、おのこだそうだ!……?」



御方様は身じろぎひとつなさいません。
幸村様は不安そうに眉尻を下げ、産婆から離れて御方様の枕元に膝をつかれます。



、眠ったのか?そうであろう?
 ……すまぬが、少しで良い、起きてくれ。返事をしてくれ。、」



幸村様は御方様の目元を優しくなぞり、涙の跡を拭われますが、御方様はやはり何もおっしゃいません。 私どもは、これが力尽きたふりであることも、御方様なりの抗議の態度であることも存じ上げておりますが、 赤子に夢中になっておられた幸村様はご存知ありません。

幸村様のお顔から血の気が引いてゆきます。
十月十日ぶりにぺたんこになったお腹をさすり、肩を抱き起こして、 ほとんど泣きそうな声で「」と御方様の御名を呼ばれます。

黙っているようにとの目配せをされておりますので、 私どもから幸村様に「死んだふりですからご心配なきよう」などとは申し上げられません。 ですが、幸村様のあまりに切々としたお声が、辛く思います。
恐らくは御方様もやりすぎたかと思っていらっしゃるのでしょうが、 引っ込みがつかないのではないかと思われました。



「……姫様、お戯れも程々になさいませ」



堪り兼ねた老女中が、御方様に声をかけました。
この方は、御方様がお生まれになった当時からお付きでいらっしゃいますので、 私どもよりはずいぶん心安く御方様にご注進出来るのです。

御方様はゆるゆると瞼を開かれると、幸村様をちらりと見遣り、拗ねたようにそっぽを向いてしまわれました。 幸村様は驚かれたようでしたが、それより安心のほうが勝ったようでございます。



、」

「殿は赤のほうが大切なのでしょう。
 お世継ぎさえあれば、あとは乳母を探すだけですもの、生みの母は要らぬのでございましょう」



なぜ御方様が不安を煽らせるようなことをなさったのか、 幸村様はそれで理解なさったようで、面目ない、と俯かれてしまわれました。
幸村様は、拗ねたままの御方様の肩を固く抱き寄せ、 幼子をあやすように背を撫でながら、ぽつりぽつりとお話しなさいます。



「つい、嬉しくてな、そちらにばかり気が行って…
 昔からいつも、俺は目の前にあるもので手一杯になってしまう。
 を蔑ろにしようと意図したわけでは決してない、決してそんなつもりは、」

「……ええ、分かっています。
 ごめんなさい、少しおどかそうと思って…やりすぎました」



やはり、御方様もやりすぎたと思っていらしたようでした。
私どもがこの場に居ることがいささか野暮にも思えてきますが、お二方はいつもこの調子でいらっしゃるのです。

最初は御方様の攻勢なのですが、追撃の手が少しでも緩められた途端、展開の主導権が幸村様に渡ります。 そうなると、傍で聞いている私どもでさえなんとなく気恥ずかしくなるほど真っ直ぐに語られる幸村様のことですから、 そのお言葉を真正面から受ける御方様はどれだけ気恥ずかしかろうと思うのです。



「うむ、良い薬になった。やはりが居らぬのは嫌だな。
 聞こえるか?心の臓が、まるで早鐘だ。これほど肝を潰す思いをしたのは久々だ」

「分かりました、分かりましたから。ああもう、恥ずかしいお人!」



幸村様がなかなか離そうとなさらないので、御方様はついにぐいぐいと身を引き剥がそうとなさいます。 ここがお二人だけの閨ではないことにようやく気付かれたのでしょう、などと言っては、私も野暮かもしれませんけれど。


私どもは顔を見合わせて、苦笑を零しました。

そうして、産婆は生まれたばかりの小さな若様を産湯につからせて差し上げました。
産湯には、上田城内の井戸から汲み、神社で清めていただいた特別なお水を沸かせたものを使っているので、 きっとこの若様に八百万の神々の守護を与えてくださることでしょう。

老女中は幸村様の背後に近付き、厳格な声で「幸村様、」とお呼びします。



「幸村様、御方様はこれからお召し変えをなさらねばなりません。
 他にも雑務はございますが、それらは私めらに任せ、幸村様はどうかお館様にご報告を」

「そうであった!お館様と義父上にご報告せねば!!」



再び、はっとした表情をなさった幸村様は、御方様をお放しになると、勇んで立ち上がられました。
湯につかる若様を嬉しそうにご覧になり、障子へ向かわれましたところで、 御方様が「ここに二槍は不要ですけれど」と言い添えられますと、幸村様は「おおすまん」と言われまして、 床に並列して置かれた槍を担がれます。

普段なら、お館様へのご報告や槍の置き場など滅多にお忘れにならないのですから、 よほど気が逸っておいでなのでございましょう。
若様が桶の中で湯を掻く、ばしゃりとした音と共に、私どものしのびわらいが混じります。

そのまますぐに出て行かれると思われた幸村様でしたが、中腰のままの体勢で御方様をじっと見つめておられます。 どうかなさったのかしらと不安になったとき、幸村様は不意に笑って、 御方様の御髪を掻き回すように撫でられました。



「世継ぎも確かに大切だが、に似た姫も居て欲しいものだな」



それだけお言いになったあと、幸村様は足早に去ってしまわれました。
閉まりゆく障子を見つめながら、御方様は呆気にとられたような顔をなさっておられましたが、 それが完全に閉じられてしまうと、老女中の手渡した新しい着物にお顔を埋められます。

御方様に似た姫様を生んでさしあげることは、御方様だけがお出来になることでございますから、 いまの幸村様のお言葉の真意はつまり、先の御方様の苦言へのこたえ、なのでございましょうか。


御方様が小さくしゃくり上げられたのが聞こえたような気がいたします。きっと、私の空耳というわけではないのでしょう。 そして、幸村様の足音が徐々に走り出していくように聞こえますこともまた、空耳ではないようでした。
『とたとた』から『どたどた』そして『だだだだだだだ』と変化してゆく音が耳に届きます。

そしてお館様のお部屋のほうから、

「おおおのこにございまするぞお館さまぁあああ!!!」 「それはまことか幸村あぁあああ!!!」
ばきっ めきっ 「あんたらこんな時ぐらい落ち着けっていうかの旦那、逃げて!!」

いつものことが始まったらしいことは、どう足掻いても空耳にはできません。




私は老女中からよごれた着物などを渡されましたので、洗濯場のほうへ向かうことになりました。
何もせずに捨ててしまうのは勿体無い、とのことですので、きれいになったものは再利用、ということなのでしょう。 重要任務を任されてしまったようで嬉しくもあり、緊張もいたします。

想像したとおりに障子がひしゃげているお部屋の前をいくつか通り過ぎると、 幸村様がお館様のお部屋からちょうど出てこられるところでした。
とても上機嫌で、足取りからすると、また御方様のもとへ向かわれるのかもしれません。

すると忍頭殿がさっと姿を現し、二言三言、幸村様と言葉を交わされます。
なにかお仕事でいらっしゃるのだろうと思い、お邪魔にならないよう、できるだけ大回りをして 洗濯場までゆこうとしたのですが、不意にこちらを向かれた幸村様が手招きをするので、 私はよごれものを背後に隠し、縁側に近寄りました。



「なにか御用でいらっしゃいますか?それとも、御方様に?」

「いや、そうではなく、お館様と義父上と相談した結果をいち早く誰かに聞かせたくてな!」



なにをお聞かせくださるのかしら、と首を傾げますと、忍頭殿が「若のお名前なんだけど」と そっと教えてくださいました。 忍頭殿も、私のように仕事中に「誰かに聞かせたいから」と呼び出されたとのことです。



「まず、元服後の諱が『幸昌』で、これは俺の父上の名を逆さにしたのだが、」

「なんで元服後の名前を決めてんの、いま呼ぶ名前が先でしょうが!」



忍頭殿のお言葉に、幸村様は「満場一致だったぞ!」と胸を張って言われます。
私も同様に「いまはどうお呼びすればいいのかしら」と思いましたが、 「そうじゃなくて…いや、もういいや」と、忍頭殿は諦めた様子でしたので、 私も口を噤むことにいたします。



「それで幼名、というか、これからはそうだな、『大助』と呼んでやってくれ」

「大助様、でいらっしゃいますね」

「うむ、佐助の『助』だ!勝手に使わせてもらったが、異論はあるか?」



幸村様は、忍頭殿に笑顔でそう仰いました。
忍頭殿は目と口を大きく開いて、耳にしたことが信じられない、といったようでありました。



「そこまで驚いた佐助は初めて見るな」

「いや、異論…っていうか、ええええええなにしてんの!?
 大事な大事なお世継ぎに忍の名前使っちゃうとか、え、まじで、ちょ、うそだろぉ…!?」

「うそではないぞ!佐助の『佐』はさよの名前に使ったではないか!」



驚きのあまり硬直した忍頭殿の背中をばしばしと叩いて笑い、幸村様は御方様のお部屋のほうへ、 弾むように歩んでゆかれます。 御方様にも同じように、「佐助の『助』だ!」とご説明なさるのでございましょう。

私は忍頭殿の顔を覗き込んで、「もし?」と呼びかけます。
忍頭殿は、苦いような嬉しいような色々と交じり合ったような顔で溜息を吐かれました。



「………洗濯、手伝うよ」

「それは助かりますが……」



歯切れの悪い私の言葉に、忍頭殿が「なにさ」と引き攣ったお顔で言われるので、 私はつい笑ってしまいながら「いいえ」と答えました。
忍は感情がないなどと言われておりますけれど、幸村様の真っ直ぐなお言葉が嬉しくて気恥ずかしいのは、 誰しもに共通なのかもしれません。 忍頭殿のお手伝いはきっと、動揺した彼を見てしまった口止め料なのでございましょう。



さてこうして、真田の御家にお世継ぎがお生まれになった次第でございます。

















史実の真田幸村殿の嫡男、大助様から、お名前をお借りしました。
お名前だけですから、当然ながら史実との整合性云々は完全スルーの方向で!
大助の『助』が佐助の『助』だったら…いいと思いませんか…