雪が解け、梅が芽吹く頃、甲斐の国は戦を始めた。 小国が相手であるため、武田の勝利に終わるだろうということは誰もが確信していたし、 実際に戦況はこちらに風が向いていた。直に終わるだろう、直に家に帰れるだろう。と、 兵も将も浮き足立っていた。 そんな中で、幸村もまた浮き足立つ男たちのひとりだった。 以前は「だらしがない!」と一喝する側だったはずなのだが、今では炊き出しを啜りながら だらしなく口元を緩める側になっている。というのも、上田の城で帰りを待つ妻が出来たからに他ならない。 はどうしているだろう。何か不便はしていないだろうか、問題は無いだろうか、元気にしているだろうか。 早く会いたい。顔が見たい。そうしてこの腕の中にすっかり抱きすくめて、それで、 「旦那、顔にやけすぎ」 はっと我に返った幸村の目の前で、佐助がにやにやしながら立っていた。 「さては思い出し笑いなんじゃない?旦那ってばはれんちー」 「なにを!佐助とて、いつもにやついているではないか」 だからお前の方がよっぽど破廉恥だ、と言い返すと、佐助は肩を竦めて苦笑いをするのだった。 佐助に言わせれば、幸村のほうがよっぽど破廉恥だ。 佐助が日常的ににやついているとしても、それは専ら仮面のようなもの。 幸村のように、頭の中の想像に対して笑っているわけじゃない。 話に一区切りがついたところでほうとうの汁を飲み干し、幸村は佐助を見上げた。 「それでどうした」と訊ねたところ、彼は何も言わずに懐から取り出した和紙を差し出してくる。 「恋文。姫さんから」 「なっ、こ!?」 「こいぶみ!?」と続くはずだった言葉は、途中でほうとうの汁に巻かれて途切れた。げほげほと咽こむ幸村を、 周りの兵たちが『何事か』という顔で見つめてくる。佐助はそれらに愛想笑いを返して「いつもの発作だから」と 誤魔化した。 幸村は片手で口元を覆い、もう片方の手でからの手紙を受け取った。 佐助が『恋文』と言ったからには、城が急襲されたとかそういう類の報告では無いのだろう。 不安を少しも感じないわけではないが、ほんの僅かである。 さてどんな事が書いてあるのか。期待しながら折り目を解くと、そこには僅かに一文だけが記してあった。 「………………歌?」 思わず間抜けな声が出た。意外だったのだ。 何度か読み返してみたが他に何が書いてあるわけでもないし、ひっくり返しても透かして見ても 謎掛けを解く鍵が見つかるわけでもない。 恋しき時、とは、何を恋しがっているのか。夜の衣、つまり寝巻きなのだろうが、 わざわざそれを返して着ることに何の意味があるのか。 字面を眺めても、表面的な意味さえ幸村にはよく分からなかった。 「……これの意味が分かるか、佐助」 「は?……あー……誰の歌だったっけ。小町?」 「小町殿、とは佐助の知り合いか?」 佐助は頬を引き攣らせ、さすがにそれは無いだろう、と思った。「小野小町でしょ」と溜息混じりに零すと、 幸村は「はぁ」と気の抜けた返事をする。 確かに幸村は幼い頃から手習いを抜け出しては鍛錬場に顔を出すようなこどもだった。 歌を詠めと言われたら、「だんごのうまき あさであるかな」と笑顔でのたまうようなこどもだった。 だからって、「小町殿とは知り合いか」とは、ひどすぎる。 「詠み人はどうでも良いのだ、俺は歌の意味を…」 「あーもー知らねっての!俺様、戦忍なんですけど! そんなに気になるんだったら山本の旦那にでも聞けばいいでしょうが」 「む……そうだな、勘助殿に聞いてみよう」 付き合いきれなくなった佐助は、武田軍の軍師である山本勘助に丸投げすることにした。 幾多の軍略書にさえ通ずる彼のことである、古い和歌集にも通じているのではないだろうか。 立ち上がり、幸村はからの手紙を携えたまま勘助の姿を探した。目当ての人物は、信玄の横に見つかった。 軍議というよりは、和やかに談笑しているようである。 「ご歓談中に失礼致します、お館様、勘助殿」 「おお幸村、如何した」 幸村がその談笑の輪に近寄ると、勘助が少し横にずれて幸村のための場所を空けた。ありがたく そこに座らせてもらって、幸村はの手紙をふたりに見えるように開いた。 「実は、から文が届いたのですが」 「ほう、さてはお主が恋しいと泣きついてきたか」 「べべべ、べ、べつにそういった事では! 小町殿とやらの歌が書かれているのですが、某には謎掛けのようで…」 見てはもらえませぬか、と付け加え、まずは勘助に手紙を渡した。 勘助は口元をにやりと歪め、次いで信玄に手紙を回す。信玄はそれを受け取り、 さっと目を通すや否や「わはは!」と笑い出した。 「弐之姫殿は、まことに雅なことをなさいますな。 さすが、都にて風雅を学ばれていただけのことはある」 「これが分からぬと申すか幸村よ、お主も罪作りな男になったものよのう!」 幸村は首を傾げ、「罪作り、とは?」とふたりを見比べた。 信玄は笑うのに忙しく、答える余裕など無いと悟ったらしい勘助が「つまり、」と講釈を始める。 「この句は古今和歌集に収められている小野小町の句でしてな。 夜の衣を裏返すとは、夢の中に想い人が現れるという俗信を実現させる儀式なのです」 「は…想い人?」 「“恋しき時”とあるでしょう。これは“想い人が恋しい時”の意味なのです。 迷信に縋ってでもせめて夢の中でお会いしたい、そういう女の心情を詠んだ句ですから、 つまり弐之姫殿は、お館様が仰ったように、幸村殿を恋しがっているということに…」 幸村は口を半開きにして、呆気にとられた表情で勘助を見た。 じわりじわりと、その耳の端から徐々に赤く染まっていくのが勘助からはよく見える。 いまは懐かしくもある「破廉恥な!」が久々に口から飛び出すのだろうか。 いつでも耳を塞げるように身構えながら経過を見守るが、幸村の喉は意味を成さない 「そそそそれは、」だとか「某はそのつまり」だとかの音しか出てこない。 返って来た手紙の字面を、幸村は食い入るように眺めた。 丸みがあり、流れるように繋がる文字は書家の手によるもののようだと思った。 その文字たちが控え目に主張する、小町の心情。はどの着物を身につけながらこれを認めたのだろう、本当に寝巻きを裏返して眠ったのだろうか。 果たして夢の中では、どのような逢瀬があったのだろう。 「して、幸村、よもやこのまま戦を切り上げ、帰還するなどとは言うまいな?」 「その様な無礼、決して致しませぬ!! し、しかしその、返事はやはり……返歌という形でなければならぬのでしょうか?」 「………まあ、返歌でなければならぬ、という訳では無いのでしょうが。 しかし弐之姫殿が感心するような歌を返せば、幸村殿の株も上がるのでは?」 至極もっともな勘助の言葉だが、幸村はそれに表情を曇らせた。 百人一首さえ満足に知らない幸村が、都の風流に親しんできたを感心させるほど気の利いた歌を返せるとは到底思えない。 腕を組み、うんうん唸る幸村は、しだいに「ああ゛ああああ」と呻きながら頭を抱えるように悶絶し始めた。 信玄はただ酒を呷るだけで、その目は明らかに幸村の反応を愉しんでいる。 このままでは何も進展しないので、勘助は助け舟を出すことにした。 「某の歌集でよければ、お貸し致しましょう」 「なんとっ…かたじけない!!」 「ただし、いずれの句を選定するかについてはご自分で選びなされ。 弐之姫殿の文を読んで感じた、幸村殿の心情にぴたりと合うものでなければなりませぬので」 幸村はぱっと顔を輝かせ、「頼みまする」と言いながら頭を下げた。 「しかし問題がひとつ。 孫子の書ならまだしも、さすがに戦に歌集など持ってきておりませぬ」 「それならば佐助に取って来させましょうぞ! あやつの足であれば、明朝までには往復できるはずでござる」 当然のように幸村が言い、勘助は苦笑いを浮かべた。いつもこの調子で、 忍の本来の仕事の領域からずれた事まで請け負わされているのだろうと思うと、 少し同情してしまう。同情ついでに、少しでも彼の負担を軽くしてやるべく、 屋敷の者へ「猿飛殿に歌集などを貸すように」との文を書いてやろう、と思った。 ◎ ◎ ◎ 戦は当初の予想通りに武田の勝利に終わり、幸村は大した怪我も無く帰途につくことが出来た。 普段なら晴れやかな気分になるのだが、しかし今回ばかりは気が重い。 戦が一時停戦となる夜の間や戦勝報告のために集った躑躅ヶ崎館から上田への道中も、 勘助に借りた和歌集などをずっと眺めていたのだが、これだ!と思う句には巡り合えない所為だった。 いつもより行軍を遅め、少しでも時間稼ぎをしようとしていたのだが、 終には馬は上田の町へ足を踏み入れてしまい、いよいよ残り時間は無くなってきた。 佐助は幸村からは視認できない足場を介して着いて来ているのだが、偵察でもないお使いにやられたことを 根に持っているらしく、幸村を手伝おうとはしない。 もはや万葉も、古今も、新古今も、随筆さえも調べ尽くした。 幾つか目星をつけてはあるが、まったくどうしたものか。 「―――幸村様のご帰還であるぞぉ!!」 気付けば、そんな声が耳に届いていた。 はっとして顔を上げれば目の前には大手門、振り返れば家族との再会を喜ぶ兵たちの姿。 ゆっくりと門が開き、城に残っていた者たちの歓声が幸村を出迎える。そのひとりひとりに 言葉を返しながら周囲を見回すが、の姿は見えない。出迎えてくれなかったことに不服と思うべきか、 それとも返事を送らなかったことを咎められずに済んだと安堵すべきか。 「……はどうしている?」 「は、御方様は女中たちに手習いを……あ、お見えになりました」 縁側に腰掛け、具足や篭手を外して小姓に預けていると、するすると滑るような軽い足音がして、 ひょっこりとが顔を覗かせた。幸村と視線が合った瞬間、はにこりと笑い、すぐに廊下に膝を突いた。 「ご無事のお戻り、何よりにございます。 いつもより長い旅路でいらっしゃるようでしたので、何かあったのかと心配しておりました」 「あ、いや……うむ。いま戻った」 幸村は横目でを観察した。例の“猫被り”が発動してはいるが、特に何か怒っているというわけではなさそうだ。 返事が無かったことを恨んではいないのだろうか。ならば、どういう意図であんな句を送って来たのだろう。 直球でに訊ねようかと思ったが、やはり少し気まずくて、出かかった言葉を 喉の奥で咄嗟に「大事無かったか」に変えた。 「領内は平穏無事にござります。城内にも何ひとつ問題は起こりませんでした。 あまりに平和でしたから、女中たちに文字の手習いをさせておりました」 「が指導しておるのか?」 「はい。いろは歌から始めまして、昨日からは源氏物語を」 本当に、何事も無く平和だったらしいことが言葉の端から伝わってくる。 小町の詠んだように、夜中にひとりで自分のことを恋しがっているを想像していた幸村は、何というか、少し呆気に取られた。 予想が外れてがっかりした、とも言えるかもしれない。 まあ、とにかく、元気で居たならそれはそれで良いことなのだが。 それから二言三言交わしている内に、今もその手習い中だったのだろうと 先程の小姓の言葉から思い至り、幸村はを下がらせた。どうせやるべき仕事は溜まっているし、返歌をどれにするかという 問題だって解決していないのだ、ここは一人になったほうが得策だろう。 戦は終わった。季節は春になる。これからまだ、時間はたっぷりある。 ◎ ◎ ◎ 幸村が戦から戻ってきて三日ほど経って、は『それまでの日常』が『幸村の居る日常』に戻ったことをようやく実感してきていた。 ちょくちょく幸村が顔を見せに来るので、侍女たちを集めずとも時間が流れていく。 眠るときには真横に姿があって、食事のときには目の前に姿がある。 幸村に言えば「何を大袈裟な」と言われてしまうかもしれないが、やはり 彼が居るのと居ないのとでは城内の空気も全く変わってしまう。 それまではあの大声がうるさいと思っていたのに、いざ聞こえなくなれば落ち着かないものだ。 女たちを集めて文字を教え始めたのも、そうした虚ろな気分を誤魔化すためだった。 とにかく空白の時間を作りたくなかった。もしそんな瞬間があれば、すぐに意識が戦場に居る 幸村に向いてしまって、心配で心配で落ち着かないからだ。 それが今ではこんなに穏やかな気分なのだから、よくぞここまで惚れ込んだものだ、と自分でも思う。 琴を磨きながら一人でくすくす笑っていると、不意に廊下から耳慣れた足音がした。 ややあって、「入って良いか?」という幸村の声。 「なあに、城下へのお誘い?」 「そうではなく、これを渡しに来た」 襖を開けると、どこか落ち着かない様子の幸村が立っていた。 ずい、と差し出してくるのは四角く折り畳まれた和紙である。一見して手紙のようなそれと幸村の顔を 何度か見比べて、は「は?」と首を傾げた。なぜ、手紙。こんな至近距離で。 「せ、先日、小町殿の詠んだ句を書いた文を送って来たであろう!」 「送ったけど……あ!なに、もしかして返歌?幸村が!?」 信じられない、といったような声色に、幸村はきまり悪そうな表情で「うむ」と答える。 視線が泳いでいるところを見ると、『柄にもないことをした』という自覚はあるのかもしれない。 「うそ。幸村、あの句の意味ちゃんと分かったの?」 「……勘助殿にお聞きした」 「聞いたってことは…見せたってこと? な、なんでそんなことするの、そういうのは一人でこっそり見るものじゃないの!」 「俺とて誰にも見せたくはなかった!それもあのような内容のっ…! しかしがもしや一人で心細く思っているのではないかと思うと止むを得なかったのだ!」 幸村は顔を赤くしながら大きな声で言う。は慌てて彼を部屋の中に引っ張り込んで、ぴしゃりと襖を閉めた。 きっと、今ごろ厨の方では「仲がよろしいこと」と笑われているに違いない。 幸村は畳の上にどかりとあぐらをかいて座り、腿に頬杖をついて顔を背けている。 は溜息を吐いて、そのすぐ横に腰を下ろした。 「わたしがどうしてあれを送ったのか、分かる?」 「……分からぬ。小町殿のように寂しがっているのかと思いきや、 女中相手に手習いをしていたとかで、小町殿とは違うようでもあるし」 「まあ、そうね、少し違うかも」 幸村から渡された文を開きながら、は言った。 「文が届けば、戦場に居てもわたしを思い出してくれるかしら。 そうすれば、勢い余って敵陣に突っ込んだりせずにいてくれるかしら、って。 だって、出来るだけ怪我をしないで帰って来て欲しかったから。まだ寡婦にはなりたくないもの」 「…は策士の才があるのだな…」 もそりもそりと喋る幸村だが、拗ねているというよりは気落ちしているように見えた。 別には「寂しくなかった」とは言っていないし、 「お手本に書いたものを流用して送ったので意味など無い」とも言っていない。 どうしたものか、と思いながら視線を下げると、が送ったものに似せたのか、たった一文だけが目に入った。 指でなぞりながらひとつひとつの文字を眺めていると、横から探るような視線の注がれるのが分かった。 は敢えてそれに気付かなかった振りをしつつ、口を開く。 「ちなみに、これは意味を理解した上で選んだの?」 「………そなたのことが“恋しく”思われる、という意味であろう? ふたつ文字が“こ”、牛の角が“い”、直ぐな文字が“し”、歪み文字が“く”」 「徒然草、第六十二段。延政門院さまがご幼少の際、お父上、 つまり後嵯峨天皇に贈ったと言われている句。……わたしはいつ昌幸さまになったのかしら」 「なっ…そういう意味で選んだわけでは…!」 幸村は慌てた様子でから手紙を奪い取り、乱雑に畳むと懐に戻そうとした。 その腕を掴んで引き止めたは、「なんで戻すの」と口先を尖らせて抵抗する。 「この返歌では気に入らぬのだろう?」 「ううん、気に入らなくない。それがいいの、欲しい」 何と言ったって、あの幸村がわざわざ徒然草を熟読してまで選び、仕事の合間を縫って 書いてきてくれたものだ。それも、小町のような焦れったい「恋しい」という告白ではなく、 こどものような、たどたどしくも真っ直ぐな「恋しい」という気持ちを乗せたもの。 幸村はおずおずと手紙を再び差し出し、は口許を緩めてそれを受け取った。皺になったところを伸ばし、 綺麗に畳み直してから、漆の文箱にそっと仕舞う。 ちくりと嫌味を言ったのに、文箱に入れてまで保管しようとするとはどういう心境なのだろう。 幸村にはさっぱり分からなかった。 「幸村がわたしのために書いてくれたものだから、大切に持っとくの。 次に戦があったときは、あの文を枕の下に敷こうかしら?幸村の夢が見れるかも」 くすくす笑いながら放たれたの言葉に、幸村は瞠目した。まさか「戦ばかりの無学な男」と揶揄されているのでは、とさえ思ったが、 どうもそうではなかったらしい。執務用の部屋に篭って、苦手なことをしてみた甲斐があったというものだ。 なんだか無性に嬉しくなって、幸村はをぐっと抱き寄せた。変わらずに愛用しているらしい白梅の香が鼻腔をくすぐり、 腹の底あたりがむず痒く思う。 「もう暫し、待ってくれ。あと幾度か出陣したら、天下に手が届く。 そうすればも俺も、夢などに頼らずともこうしてずっと一緒に居られる」 「うん、待ってる」 その広い背に腕を回し、は指先で文字を書いた。小町の他に候補に挙がっていた句なのだが、 きっと幸村には分からないだろう。くすぐったそうに笑う幸村の腕の中で、 「お帰りなさい」と小さく呟いた。 最後に姫が幸村の背中に書いたのは「灯火の 光に見ゆる さゆり花 ゆりも逢はむと 思ひそめてき」という設定。 灯火の光に映えて見える「ゆり」の花ではないが、(ゆり、つまり)のちにも逢おうと思いそめたことだ。 (万葉集第十八巻/「ゆり」とは上代語で「のち、将来」などの意味) |