いつも、何だかんだと理由をつけては書類仕事から抜け出しての元へやって来る幸村が、珍しくもその日は朝から姿を見せなかった。 先日城下でなにか問題が起きたらしく、その後始末に追われていることはも知っていたが、一度も顔を出さないというのは本当に珍しい。
ねぎらいの言葉でもかけようかと、はこれから幸村に茶を持っていくのだという侍女を捕まえてその役目を譲ってもらった。

いつもより多めに用意した茶菓子と一緒に湯呑みを盆に載せ、派手な足音を立てないよう配慮しながら幸村の仕事部屋を目指す。きっと、さえも歓迎されないほど切羽詰っているのだとしたら忍隊の誰かがそっと教えてくれているだろうから、その点に関しては問題ないはずだ。
溢さないよう、転ばないよう、気を張りながら進めば幸村の仕事部屋はもう目の前である。


そこでは足を止めた。


目当ての部屋の前で、目当ての人物がなぜか廊下に立ったまま部屋を覗き込み微動だにしていないのだ。 不逞の輩でも入り込んだのかと思ったが、それならば幸村はもっと殺気立っているはずである。 さよが鼠でも追いかけて走り回っているのだろうか、少し躊躇って、は再び一歩踏み出した。

その気配に気付き、ようやく幸村がこちらを見た。
彼は驚いた様子もなく、物言いたげなには構わずに黙って手招きした。



「見てみろ」



襖から身を離した幸村は小声でそう言って室内を示す。いったい何事かと思いながらも、は促されるままに細く開いた隙間に頭だけ突っ込んでみた。 普段と何ら変わらない設えの中、ひとつだけ見慣れないものがある。

無造作に畳に落ちている臙脂色の羽織は幸村のものだったはずだが、誰にも着られていないはずなのに不自然に膨らみ、おまけにもぞもぞ動いている。
思わず眉を顰め、は幸村を振り返った。なんだあれは。だが幸村はどことなく嬉しそうな表情のまま「よく見ろ」と指差すだけである。

もぞりもぞりと蠢く奇怪な羽織。よくよく注意してみれば、動いた拍子にできるその隙間から小さな手や足が見え隠れしているし、 くぐもった甲高い声が「やめてー」だの「どこー」だのと言っているのが漏れ聞こえてくるではないか。



「…菊と梅?」

「うむ。先ほど厠から戻ったらこのようなことになっていた」



幽霊の正体見たり枯れ尾花、ではないが、蠢く羽織の正体は娘たちであった。
幼子たちは羽織で遊んでいるというよりもむしろ羽織に絡まって困っているように見える。

その様子を、愛いであろう!と幸村は小声ながらも力強く言う。可愛らしいには可愛らしいが、ああそう、としかは返す言葉がない。あっさりした反応に幸村は不満そうだが、娘たちが今更何をしでかそうが、にとっては別段驚くほどのことではなかった。
それよりも、“早くどかさねば羽織が皺になってしまう”とか、“どうしたらあんなに絡まるのだろう”とかいうことが頭に浮かぶ。

羽織のあやかしになってしまったような娘たちを助けてやらないのか、とは控え目に尋ねた。だが幸村は娘たちの遊び姿を眺め足りないらしく、もう暫し待てと言って譲らない。 さりげなさを装って室内へ入ろうとすると、痛い程に腕を掴んで引き止めてくるのだ。


だがそのうち、頭と頭がぶつかったような“ごづっ”という鈍い音がして、羽織の下からはぴぃぴぃと細い泣き声が聞こえてきた。を阻止していたはずの幸村は一目散に娘たちのもとへ駆け寄り、絡まっていた羽織を引き抜く。 舌足らずの声が二重に「ととさまぁ」と呼んで泣きついてくるのを、彼は目尻を下げて抱き上げた。



「…大助やさよが同じことをしたら怒るでしょうに」

「菊と梅は、良いのだ」



両腕に娘を抱えた幸村は悪びれもせず堂々と言い放つ。
生涯の好敵手が幼い娘をこれほどまでに猫可愛がりしていると知ったら、奥州の竜は笑いすぎで死んでしまうのではないかさえ思うような光景である。


ひとまずはも室内へ入り、盆を下ろした。
その際に文机へと視線を遣れば、もう半刻もあれば終わりそうな具合である。単に娘を甘やかしていただけではないらしいと納得して、湯呑みを渡す。 多めに持ってきておいた茶菓子の大半は娘たちの口に消えるだろうことは明らかだった。



「菊、梅、とと様のお着物でなにをしていたの?
 お仕事中だから邪魔をしないようにって、言ったでしょう?」



幸村から離れて寄って来る菊を抱き上げては尋ねた。
菊はもごもごと言い淀んだ後、観念したように「梅ちゃんとあそんでたの」と言う。 幸村の膝の上で茶菓子を頬張っている梅の反論は言葉としての意味を成さず、菊への援護にはならなかった。

叱られると思ったのだろう、菊は身を縮ませながら「ごめんなさい」と泣きそうな声で言う。潤んだ大きな瞳に見上げられたは思わず許してしまいそうになった。かろうじて「それはとと様にお言いなさい」と厳しい声で言ったが、 肝心の幸村は「次から気をつければそれで良い」としか言わなかった。


この通り、幸村は娘に甘い。
に似た姫が欲しいのだと散々言っていただけあって、ここぞとばかりに甘やかしている。 その上たまに甲斐から様子見にやって来る信玄までもが実の孫のように可愛がるので、この国で娘たちをきつく叱ることができるのはを除けば佐助くらいなものだった。

最初の子である大助の時だってここまでは甘くはなかったように思うのだが、幸村曰く主に大助を甘やかしていたのはだったではないかとのことである。言われてみればそうだったかもしれないが、今の幸村ほどではないとは自負している。


その大助を、幸村と同じく今日は朝から見かけないことに気付いた。菊と梅の遊び相手になってくれているとばかり思っていたが、そうではなかったらしい。 娘たちに尋ねてみても知らないと首を振るばかりである。

そこで幸村が「ああ」と言った。
その何か知っている様子に、は首を傾げつつ言葉の続きを待った。



「大助ならば稽古をつけてくれと言いに来たので、
 今日は忙しいから佐助に相手をしてもらえと道場に放り込んだ」



おれさまだって暇じゃねーんだよ!という忍の声が聞こえるようである。
だが、口では面倒だの忍の仕事じゃないだのと言いつつも、佐助が二人の子らを憎からず思っていることは周知の事実なのだ。 実の親以上ではないかと目されるほど幼子の扱いに長けた佐助なので、こどもたちも勿論なついている。 絶対に以外では泣き止ませることが出来なかった乳飲み子の時分を過ぎた今となっては、佐助が面倒を見てくれている隙に用事を済ませることも少なくない。

そんな佐助の重労働を知ってか知らずか、梅は自分も佐助と遊びたいと言い始めた。大助だって別に遊んでいるわけではないのだが、 遊び盛りの子にかかれば除け者にされている時点で同じ扱いなのである。
幸村は傍目にも締まりの無い顔つきで梅の頭を撫でた。仕事が片付けば父が遊んでやるからな、との言葉には呆れた視線を投げるしかない。もう好きにすればいい、この娘馬鹿め。

「菊は母上がいい」と言ってひっついてくるもう一人の娘を引き摺りながら、は仕事部屋を後にした。汗まみれであろう大助の着替え、夕餉の支度、明日買い足さねばならないもの、佐助へのねぎらい。の仕事は、数え上げればまだまだきりがない。











◎ ◎ ◎
◎ ◎ ◎












湯上りの幸村は上機嫌で寝転んでいる。
腰までを寝具の中に隠した後、肘をついて掌で顎を支え、が着物を畳む様子を眺めるともなく眺めていた。



「明日は大助に稽古をつけてやる約束をしたのだがな、
 梅が馬に乗りたいと言うから、大助と三人で遠駆けというのも良いと思わぬか」

「良くありません。梅が槍術を修めたいと言い出したらどうしてくれるのです」

「護身程度に修身するのは悪くない、それでこそ“弐乃姫殿”の娘よ。
 菊も連れて行ってやれば、馬を怖がるのも無くなるやもしれんな」



幼少の自分が木刀や竹槍でちゃんばらをしていたことを揶揄され、はむっとした視線で幸村を見た。自分がじゃじゃ馬だった記憶があるからこそ、娘には同じ轍を踏ませまいとしているというのに。
睨まれていることに気付いた幸村は苦く笑って「だめか」と言う。だめに決まってます、とは間髪入れずに言い返した。



「まあ、俺とて梅や菊が傷を作るのは避けたい。
 朝は大助と道場で稽古、昼から二人を連れて遠駆け。これなら良いか」

「……もう、お好きになさいませ」



どうせ大助は自分も遠駆けに行きたいと言うだろうし、幸村も許可するだろう。そうすれば信玄と幸村の如く、突然の殴り合い稽古を始めることもありえるだろう。 菊はうまく逃げるだろうが、梅は混ざりたがるかもしれない。

それらはにとっては容易に予測がつくことだが、しかし幸村は本気で娘たちだけ連れて行けば済む話だと思っているのだ。 どうして戦の時のように『先を読む』ことをしてくれないのかとは溜息を吐く。幸村はそれを聞きつけ、いやにむくれておるな、と他人事のように言った。



「むくれもします。だって近頃の殿は菊と梅のお話ばかり。
 いい加減、そろそろわたしに構ってはくれないのですか」



畳みかけの着物を膝からどかして身体を捻り、手を幸村の肩の辺りに置く。
斜めから見下ろすように覗き込んだその顔は僅かながらに驚きを含んでいるように見えた。



「…も遠駆けに行きたいのか」

「そうじゃなくて、」



ああもう、じれったい。
だって奥仕事があるのだからそうそう留守にはできないし、子に無関心であるよりは構いすぎる方が望ましいと思ってはいるが。 最近は『母』の役割ばかりで『妻』の役をさせてくれないじゃないかと、つまりはそういうことだ。




「いたずらは、菊と梅しか許してくれないのでしょう?」




は幸村の寝巻きの襟を握り、心持ち外側に引っ張った。よく見えるようになった鎖骨の線を眺めながら、邪魔な夜着は爪先で蹴飛ばしてしまう。
虚を突かれたらしい幸村はしばらく言葉も出ない様子だったが、無意識なのか視線はの襟の合わせの隙間をちらちらと覗いている。



「ああ…その、なんだ。それは仕置きされたい、と、」

「でもひどいのはいやよ」



躊躇いがちな口調とは裏腹に、幸村の手は既にの腰に回っている。引き寄せられるまま耳へ噛み付いてみれば「痛い痛い」と大仰な反応を返されたが、拗ねているのだと主張するように、は幸村の締まった身体のあちこちを柔らかく噛んでやった。肩や喉、鼻頭、指先も。

やがて根負けした幸村が身を起こし、を膝に座らせた。きつく結われた帯に指を掛けたところで思い出したように顔を上げ、警備中の忍に向かって「今宵はもう下がれ」と申し付ける。

一拍置いて、幸村は天井から視線を戻した。気配の去就はには分からないが、恐らく忍隊の誰かは言われた通りに此処から立ち退いたのだろう。 佐助だったらそれを見越してわざと音を立てて去るはずだから、今日は部下が来ていたのではないかとは予測する。


さてこれでもう準備は整ったとばかりに幸村は顔を寄せてくるが、は指先で軽く押し留めた。

ふう、と息を吹きかけると、軽い音と共に油皿から灯りが消える。
荒れた薄い唇に宛てた指先に、熱い舌が静かに這った。
















旧「羽織おばけの怪」を加筆・修正したもの