“その時”がいよいよ目前に迫ってしまったのだろう。 幸村は何も言わなかったが、はそう思った。 程好く鍛えられた胸板へ頬を寄せる。抱き潰そうとでもしているかの如く力の篭った腕が、 片手はの頭部、もう片手は腰の辺りをしっかり囲っていた。いつから、こんな風に 全力で触れてくるようになっただろうか。最初はまるで腫れ物扱いだったはずなのに。 それが不満というわけではない。良いことだと、嬉しいことだと思う。大事に大事に 飾っておかれるより、よっぽど有意義な在り方だ。 しかしはきっと、明日、幸村に置いて行かれる。 そうなんでしょう、と、声に出す代わりに脇腹をつついた。幸村は眉を顰めて何事か呻き、 すぐに何も無かったような寝息を立てた。は眠れない。もしかするとこれが最後になるかもしれない、そう思うと眠る時間が惜しかった。 信玄の下に一丸となって天下を目指していた時代は、まるで遥か遠い日の出来事だった。 武田は潰え、天下は豊臣の手に渡った。しばらくはそれでも平穏な日々が続いていたものの、 関ヶ原での戦において西軍に与し破れた後の幸村は、家族・臣下もろとも九度山に幽閉されていた。 それが今では再び、戦の気配が忍び寄っている。すでに大坂城には長曾我部や毛利などの一族も入城していると聞く。 幸村がそちらへ馳せ参じるのも時間の問題だった。 本当は今すぐにでも飛び出して行きたいに違いない。 対するは徳川であり、その背後には伊達や前田が控えているのだ。それでも幸村は、じっと待った。 時に百姓の仕事を手伝いながら、九度山に見切りをつけるに相応しい時機を見定めようとしていた。 それが明日だと思うのは、ただのの勘だ。 勘と、それから幸村の態度の中の小さな違和感と。 まだ朝の早い内から家臣団と何事かを打ち合わせ、そこへ幼い子の近寄ることさえ厳しく禁じた。勿論、 などは「何事か」と口に出すことも控えざるを得なかった。食事の間も落ち着きが無く、 挙句、を床に引っ張り込むと、「赤ん坊が泣いているから」と言っても離そうとしない。 貪るように攻め立てられて、年甲斐もなく声を上げそうになる。抗議の意味を込めて爪を立てても、 幸村は嬉しそうに口許を歪めるだけだった。 そうして今は、こうして過ぎ去った嵐をただ慈しむ。 が何も勘付いていないとでも思っているのだろうか。 武将にあるまじきほど安心しきった寝顔を眺めながら、は幸村の髪を指先で弄った。 幸村は眠っている。恐らく起こるだろう明日の出陣に備えて。 しかしは眠れない。恐らく置いて行かれるだろう明日を憂うせいで。 夜が明けなければいいのに、とは思った。 そうしたら幸村はずっとを抱えたまま眠るだろう。戦で傷付き、血を流すこともない。けれどきっと、 幸村はそれを望まないのだろう。夜が明ければ彼は目を覚まし、背中の疵だけがを思い出させるものとなるのだ。 だが戦が長引けばいずれはその疵も消える。は幸村の身体へ、届く範囲の限り唇を寄せた。この感触が、この痕がいつまでも残り、 「こんな身体を死に様に晒せるものか」と幸村が赤面すればいいのに、と願いながら。 やがてそれは、くすぐるような感触に耐えかねた幸村が一層強くを抱き締めて妨害することで終わった。いよいよ身動きが取れなくなっても、 まだ、は眠れずにいた。 朝になり、幸村が起きる頃には眠ったふりをした。 彼が半身を起こし、自分の髪をぐしゃぐしゃと掻き回すのを感じる。そうしたあと、幸村は 着物を軽く整えて、寝所を出た。すぐに佐助を呼ぶ声が聞こえ、それに応える佐助の声がする。 「用意は」 「予定通り。後は奴さんたちから馬を拝借するだけだぜ」 そうか、と幸村が短く応える。奴さんたち、とは誰のことなのだろうか、には分からなかった。 は蒲団から這い出て、簡単な身支度をする。その気配を感じたのだろう、幸村が襖を開けた。 「起きたか。朝早くからすまぬが、ひとつ頼まれて欲しいのだ」 「何なりと」 「宴会の準備を頼む。庄屋連中だけでなく農民たちも全て招待するつもりだ。 できればも同席し、酔い潰すのを手伝って欲しいのだが、そちらも頼めるか?」 「勿論ですとも」 では頼む。幸村はそう言って笑い、再び襖の向こうへ姿を消した。そのまま佐助と何事か 話しながら、気配は段々と離れてゆく。 農民たちを全て招いて、酔い潰す。その隙を突いて山を降りる手筈なのだろう。 すると、先ほどの“奴さんたち”というのは、彼らのことかもしれない。彼らの乗ってきた馬を奪ってこちらの軍備とし、 追撃の手段をも奪う。なんとも効率の良いことか。 今宵からは独り寝することになるのだろう床を見つめて、小さく息を吐いた。 目を瞑り、これからするべきことを整理する。侍女に声を掛け、ここを片付けさせなければ。 そうして、厨に行って宴会の準備をさせ、手すきの者には宴会で使われる部屋の掃除をさせて。 子どもたちがどうしているかも見なければいけない。大助はきっと幸村に着いて行くのだろうから、 その支度も。 少し軋む足腰に苦笑いをしながら、は襖を開けた。見事な晴天だった。 死屍累々の如く、宴会場には酔い潰れた人の山が出来ていた。 言わずもがな、その主な功労者はである。時刻は月も昇りきった丑の刻。 にほとんど全てを任せ、途中で退席していた幸村は、襖を開いた先のその光景に 思わず頬が引き攣った。これで平然としていられるが恐ろしいくらいだ。 「出陣の準備はお済みになりましたか?」 は盃から顔を上げ、赤い甲冑を着込んだ幸村を見た。 知っていたのか、と幸村は僅かに瞠目する。気付かないわけがないだろうに、とは苦笑する。 「それで、わたしたちは連れて行って下さるんですか?」 「………いや。は梅や菊や、大八と共に残っていてくれ。 大坂城へは俺が無鉄砲にひとりで突っ込んで行った、と浅野殿に言えば咎めも無かろう」 「そう仰るだろうと思っていました」 はそう言い、手に持った盃を傾けた。そのまま一気に飲み干す。 連れて行ってくれ、などと駄々をこねるつもりは無い。着いて行ったところで、戦の役には立てない。 まだ乳飲み子が居るので、雑務に回りきることも出来ない。ならば残っていたほうが足手纏いにはならない。 立ち上がり、侍女に申し付けて娘たちを呼ぶ。幸村は落ち着き払ったの様子に些か戸惑い気味であるが、その横にひっそりと立つ大助は今にも涙を流しそうだった。 すぐに、廊下の奥から慌しい足音が聞こえてきた。 宴会には出させなかったふたりの姫、菊と梅である。 「父上!大坂城に参られるとは真ですか?なぜ梅も連れて行って下さらないの!」 「梅…し、仕方無かろう、敵方には片倉殿もおられる」 活発な性格をした梅は、まるで幸村の首を絞めるように着物に縋りつく。 同じ顔をしていても大人しい性格の菊は、縋りつきはしなかったが梅の着物の端を握って涙目で幸村を見上げている。 ある意味、に泣かれるよりも堪える攻撃に、幸村はつっかえながら返事をした。 梅は片倉小十郎の息子、重綱との婚約が成立しているのだ。いずれ夫になる人が自身の肉親と戦う様を見るのは 辛いことであろうし、また幸村としても見せたくない。九度山を管理する浅野長晟への言い訳になるから、 という理由だけで妻子を残すのではないのだ。 「でもっ…でも梅は…兄上だって行ってしまうのに!」 「梅、好い加減になさい。父上を困らせるものではありません」 尚も食い下がる梅を諫めたのはの静かな声だった。梅の手を優しく外し、けれど視線では咎めるように睨む。 母に圧倒されたのか、梅はその手を振り解いて菊の背中にしがみついて泣き始めた。 一緒になって啜り上げる菊の呼吸音とが混じり、廊下に響いた。 「……父上、じゃあ、お願い。父上の六文銭を私たちにちょうだい? そしたら私と梅で三文ずつ父上に渡すから、それを私たちの代わりに持って行って」 「…菊……」 幸村は首から六文銭を外し、菊に渡した。 往年のを思わせるかのような姉妹は、それと自分たちの一文とを入れ替えていく。 「…じゃあ、大助は母のものと交換しましょう。 父上をよろしくお願いね、もうお歳なんだから、あまり無茶しないように見張っていてちょうだい」 「なにを。俺はまだ大助には負けぬぞ!」 は大助の首に、自分の六文銭を掛けた。それは、ようやく夫婦として落ち着いた頃に、 幸村が「揃いだ」と言っての首に掛けてくれたものだ。 今ではその頃の幸村に瓜二つだと思えるほどに成長した大助に、は胸が誇らしくなる。 幸村には、たくさんの時間を掛けて愛してもらった。 少なくとも世継ぎを生むという使命だけは果たせたが、幸村に対してきちんと応えられていたかどうか、定かではない。 だからせめて、最後の見送りとなるだろう今だけでも、立派な女だとして記憶に留めておいてもらいたい。 泣いて縋るような真似はしない。それが許されるのは、梅のように純真な少女であった頃までだ。 今では“真田の奥方”なのだから、戦に発つ夫をしっかりと見送るのがの仕事だった。 縁側から庭に降りると、すぐに馬が連れてこられた。まずは大助がそれに乗る。 梅と菊は今度は兄との別れを惜しんでいる。は侍女が連れてきた大八を抱えながら、幸村が馬を選ぶのを待った。 「」 栗毛の、かつての幸村の愛馬に似た顔立ちの馬の手綱を引いて、幸村が戻ってきた。 はい。と静かに答える。屋敷の中では、家臣たちとその家族が、幸村との交わす言葉と似た言葉を交わしていることだろう。 「戦が終わっても俺が戻らなかった暁には、政宗殿を頼れ。 片倉殿も尽力してくださると約束して下さったゆえ、心配は要らぬ」 「承知致しました」 「その時は、菊や梅や、大八のことを頼む。 梅の婚儀や、菊の縁談や…大八の教育など、が良いと思うようにしてやってくれ」 「はい」 「もしも……政宗殿や他の者がと婚姻を結びたいと言うのであれば、 出家して俺を弔うことなどせず、その御方の元へ行っても、黄泉で恨んだりはせぬ」 「………」 「が心から尊敬できる相手であれば、俺にとっても尊敬に足る人物であろう。 娘と並んでも遜色せぬし、頭も良い。念仏ばかりで腐ってしまうのは、その…勿体無いと、思う」 幸村はそう言って、鐙に片足を乗せた。 は下唇を噛んで涙を堪えていた。どうしてこの男は、こんな時にそんな事しか言えないのだろう、と歯痒くなる。 「………生きて帰るから待っていろ、の一言だって下さらないのですね」 泣いて縋ることなんて、しない。 その代わりに大八を揺すり、激情の波が過ぎ去るのを待つ。 鐙に足を乗せたまま、幸村は動きを止めた。 生きて帰れる保証はどこにも無かった。いままで経験してきた戦とは、あまりにも状況が違う。 叶うのならば、帰りたい。大助と共に帰還し、今度こそ泰平の世で生きたい。 「………武士は、約束を、違えん」 「分かっています。確証が持てないから仰らないのだと、分かっています。 言葉であってもわたしを裏切ることが嫌なのだとは分かっています。でも、せめて、」 せめて一言でいいから、『生きて帰ったときは』という話をして欲しい。 約束ができないのならそれはもういい。だからせめて、仮定の言葉だけでもいい。 鐙に掛けていた足を外し、幸村は赤ん坊ごと抱き寄せる。 そうすることで、口に出しては言えない思いを、どうにかに伝えようとした。 帰ってくる。必ず帰ってくる。 が待っていてくれるのならば、腕が無かろうと足が無かろうと、必ず戻ってくる。 大助や大八と稽古をして、梅と菊の晴れ姿を見送って、最期までと生きる為ならば、もはや泰平の世が自らの主導によるものでなくとも構わないとさえ、思う。 幸村が体を離したとき、堪えていた涙がの瞼から滴り落ちるのが見えた。 自分の言いたかったことが伝わったのかどうか、追って掛ける言葉が見つからず、 幸村はそのまま馬に乗り大助を促し、先頭に立った。 慶長十九年 神無月。 後世に『大坂の役』として伝わる戦において、これが真田方の戦の始まりであった。 大坂冬の陣の始まり。 ここで読み止めておきたい方はどうぞブラウザを閉じちゃって下さい。 夏の陣その後まで行っちゃいたい方は、ここからどうぞ。 |