どうにも国境近辺の農村で盗賊が出没しているらしいという話を聞いた幸村が佐助をお供に 意気揚々と城を出発してから、一月ほど。 ここ最近あまり大きな戦も無く、鈍りきっていた身体を動かすのには丁度良いだろうと目論んでの出陣であったが、 成果はあまり無かった。盗賊どもは確かに出没したが、あまりにも手ごたえが無かったのだ。 相手に不足があったのか、それとも己が一層に強くなったのか。 しかしまあ、終わってしまったものは仕方が無い。 悠々とした足取りで上田の城下に戻った幸村は、 一月も城を空けてしまったことに対しての機嫌を取るべく、もはや常連になっている甘味処で特製のみたらし団子を包んでもらった。 特製というからには、相当甘い。佐助などは匂いを嗅ぐだけでも「うおえっ」と吐く真似をする始末だった。 しかしはそこまでの拒否反応を示さず、むしろ好んで食べた。 幼い頃、団子だのあんみつだのを山ほど食してきた仲は流石である。 さては何をしている頃か。 たしか、幸村が出立する際はさよに芸を仕込もうと躍起になっていたが、果たしてさよは 『お手』と『おかわり』の違いを理解しただろうか。『三回まわって“わん!”と吠える』 が出来るようになっただろうか。 (ちなみに幸村自身としては、猟犬であるさよに芸を仕込む意義がさっぱり分からない) 「幸村様!ご無事で」 「うむ、今戻った」 団子の包みをぶらぶらと下げつつ城門をくぐれば、たちまち下男たちから声が掛かる。 上機嫌でそれに返していると、幸村の帰還を聞きつけたのだろう、侍女が駆け寄ってきた。 「幸村様、お耳にお入れしたき事が」 「如何した?」 「は。その…御方様なのですが…」 眉間に皺を寄せ、「如何した」と再び尋ねる。 犬に芸を仕込んでいただけでは不可能なほど、侍女の纏う空気が重い。 「さよに噛まれて傷を負った」とか、そういう話でも無さそうだ。 侍女は「ええ」「そのう」などと言葉を濁して言及を避ける。 余り大きな声では言えないのかと幸村が腰を屈めると、侍女はその耳元に向けて ぼそぼそと喋った。 「実は、臥せっておいでで……」 その言葉が聞こえるや否や、幸村は駆け出した。「お待ち下さい!!」という 侍女の焦った声が聞こえるが、そんなものは関係ない。 「!!」 蹴破るようにの私室の襖を開けるが、そこに予想していた光景は無かった。部屋はがらんどうで、 蒲団の敷かれている形跡も無い。が抜け出したという事ではないらしい。 ならば何処に居るのだろう?侍女は確かに、「臥せっている」と言っていたはずだ。 苛々と舌打ちしながら廊下に引き返すと、息を切らせた侍女がようやく追いついてきた。 「お、お待ち下さいと、申し上げた、のに!」 「は何処だ?」 「その前に、落ち着いてお聞き下さい、幸村様」 「は何処だと聞いておる!」 幸村が声を荒げると、侍女は「ひぃ」と肩を竦めた。 「き、北の、離れに…」 「北の離れだな!」 「ですからお待ち下さいと申し上げているのです」 駆け出そうとした幸村だが、その後ろ髪を掴まれて急停止した。 骨の軋むような、“ごぎっ”と音がした気がする。「うおあっ」と悲鳴を上げつつ振り向けば、 そこには呆れた顔をした古株女中の姿。もはや無礼も何もあったものではない間柄である。 「よろしいですか、幸村様。 臥せっておられる姫様の元へその様に慌しく殴り込んでは、悪化してしまいます」 「だが!」 「姫様に必要なのは、何よりも落ち着いた休息です。 幸村様は姫様がなにゆえ臥せっておられるのか、その理由もご存知ないではありませんか」 確かに、女中の言うとおりだった。 少し落ち着きを取り戻した幸村は姿勢を正し、軽く咳払いをした。「よろしいですか」と再び 女中が言うのに、黙って頷くことで返事をする。深刻な病ではないこと祈りながら、続く言葉を待つ。 「姫様は、つわりで臥せっておいでなのです」 幸村の手から団子の包みが滑り落ちた。めしゃ、という音がする。 聞き間違いでないとすれば、幸村の耳には『がつわりで寝込んでいる』というように聞こえた、の、だが。 「ご懐妊、まことにおめでとうございます」 「な、な、な…」と意味の無い言葉を紡ぐ幸村に追い討ちを掛けるかのような言葉が続く。 にこりと笑った女中の顔が、いやに眩しい。 ◎ ◎ ◎ 「如何いう事だ、佐助」 「俺だって初耳だよ」 北にある離れに向かいながら問い掛けると、佐助は珍しくも本気で戸惑っているようだった。 国境付近の村に赴いている間、城に残していた忍隊からの連絡は一切無かった。 佐助が敢えて隠蔽していたのでは無いのなら、残る可能性としてが緘口令を布いたということになる。 何故?何の為に? さっぱり理解出来ない状況の所為で、子が出来たという実感すら無い。 早足で歩き、やがてが寝込んでいるという離れの前に到着するまで、幸村も佐助も口を聞かなかった。 それほど、お互いに頭の中が自身の動揺で一杯だったのだ。 離れにはに付いている侍女が何人か集まっていた。 という事はやはりは此処に居るらしい。帰還の言葉もそこそこに幸村は廊下をずんずん進み、 そうして一番広い部屋の前で止まった。 「……開けるぞ、」 中からの返事を待たずに、襖を開ける。 血の気の失せたがその先に居るのかと思うと、臆病な話だが、目を逸らしたくなってしまう。それでも この眼にしかと映さなければ余計に心配になるだけなのだ。意を決して、顔を上げる。 「あ、お帰りなさい」 しかし幸村の視界に見えるのは、琴の譜面らしき紙を片手にした、意外に健康そうなの姿だった。思わず「は?」と素っ頓狂な呟きが漏れ、同時に手からは団子の包みが再び滑り落ちた。 蒲団に包まれているのは腰から先だけで、要するには半身を起こして座っているのだ。肩に引っ掛けただけの朱色の羽織に比べれば劣るが、 顔色も至って普通である。ほっと安心するのと同時に、少し苛立つ。 「――な、何が“お帰りなさい”だと言うのだ! 俺はが、つわ、つわりで臥せっていると聞いて…!」 「なんだ、もう聞いちゃったの?つまんない」 「詰まる詰まらぬの話では無かろう!何故俺に報せなかった! 佐助でさえ知らぬと言っておったのはが忍隊に口止めをしたのだろう!」 憤然とした足取りでの元へ歩み寄り、腰を下ろす。 珍しく本気で怒っているらしいと感じながら、は「そうよ」と事も無げに答えた。 「だっていきなり“御方様が身篭ったようです”なんて聞いて、幸村は冷静で居られるの? 今でさえこれだもの、もし敵と相対してるときだったら要らない怪我をするかもしれないじゃない」 「俺はその様な不手際など冒さぬ!」 「ふうん。そう。 なら『直に顔を見て話したいから』っていうのも、要らない配慮だったのね」 「それ、は…」 幸村の勢いが削がれたのを横目で見て、は淡々と言葉を重ねる。 「せめて手紙のひとつでも寄越してくれたら教えようかと思ってたけど。 だって、いつもいつもわたしから送るばかりだもの。今回くらいは、と思ったのに」 「う……」 「よぅく分かったわ、虫の知らせも結局は役に立たないものなのね。 もうこのままいっそ甲斐に戻ろうか、って、ここ数日で何度思ったことか……」 「―――済まぬ!」 の恨み言を遮り、幸村は深く頭を下げた。確かにそうだ、幸村はが辛抱強く待っていてくれるのに任せていた節がある。それはある意味では、 佐助に対するのと同じくらいの絶対の信頼があると言えることかもしれない。 「俺はっ…俺は何という酷い仕打ちを…!! 済まぬ、この通りだ!の気が済むのなら、俺は何度殴られても文句など無い!」 「……じゃあ、一回だけ」 幸村は『それでは足りない』とでも言うような表情でを見るが、そんなに何度も殴っていてはの拳がもたない。幸村や信玄とは違うのだ。 「覚悟はいい?」とは言う。 幸村は「いつでも良い」と答えながら背筋を伸ばし、ぎゅっと目を瞑り、衝撃に備えた。 さて腹に来るか、頬に来るか、それとも頭に来るか。 「……そりゃっ!」 ぎゅむ、という感覚が鼻を襲った。思わず「うおっ」と声を上げると、くすくす笑うの声が聞こえる。そろりそろりと瞼を持ち上げれば、先ほどまでの仏頂面と変わって、 幸村の鼻を抓みながらも笑いかけているが居た。 「わたし、別に怒ってないの。ただ寂しかっただけ。 寂しくて、怖くなって、一日でも良いから早く会いたかっただけよ」 「…し、しかし、それでは…」 「“お帰りなさい”って言ったでしょう?返事は?」 観念した幸村は、ぼそぼそと「いま帰った」と呟いた。はそれを聞き届けると、満足そうに微笑む。 許されたとて幸村の気が収まるわけではないが、のこの柔和な表情はとても好きだ。だからつい、つられて笑ってしまう。 「その…なんだ。身体は大丈夫なのか?」 「まあね。みんなが大袈裟なだけよ。 わたしは至って元気なのに、大事をとって休んでろって蒲団に磔にして…」 なにせ侍女も女中も、果ては馬番さえも、が出歩いていると「蒲団にお戻り下さい!」と必死で訴えてくるのだ。 涙を零さんばかりの訴えを無視することもできず、は大人しくしているしか無かった。 まさかだって、身重でありながら城下に脱走するなどということはしようとも思わないのだが、 どうやらよほど信頼が無いらしい。 一日中横たわっていれば太ってしまうかとも考えたが、幸いと言うべきか何と言うか、 胃が受け付けないせいで最近は梅の粥しか口にしていない。おかげで幸村の出立前に比べ、 いくらか痩せたかもしれないくらいだ。 中年の女中などは「酸味のあるものが食べたくなるものですよ」とに語ったが、正にその通りである。まさか『梅干しが食べたい』と厨に 注文をつける日がくるとは思わなかった。 「実は土産があるのだが、食べられるか?」 「お土産?」 幸村は落ちていたままの包みを引き寄せた。の笑顔が少し強張ったのに気付かず、幸村はそのまま団子の串を掴む。 みたらしの甘い匂いが鼻をくすぐり、それだけでも幸せな気分になった。 は差し出された串を受け取り、しばらく見つめた。 頭は粥以外のものを欲しているが、胃は拒否している。 匂いだけでも吐き戻しそうに思うほどだ。 食べたい。が、食べたくない。一体どっちなのか自分でも分からない。 二本ほど平らげたところで、ようやく幸村はが固まっていることに気付いた。だってこの店の団子は好きだったはずだ。それを食べないということは やはり調子が悪いのだろうか。 「食べられぬか?」と控え目に尋ねれば、ははっとして「大丈夫!」と答えた。 「ぜ、ぜんぜん気持ち悪くなんかないから。ほんと、余裕だってば!これくらい何とも……ぅ、ぇ…」 自分に言い聞かせるようにして口に含んではみたが、の胃はやはり頭には勝てなかったようだ。舌の先に みたらしのたれが触れただけで、途端に圧迫感が胸をせり上がってくる。 は幸村を押し退けて、足早に隣室へ向かった。そこでは侍女が控えていて、が苦い顔をしているのを見るとすぐに桶を用意した。 からっぽの胃では吐き出すものが無く、意味のない嗚咽だけが何度も何度もを襲った。その波が来るたびに呼吸と声を詰まらせながら、せめてもの抵抗に胃液を吐き出す。 幸村はその様子を、開け放たれた襖の反対側から呆然と見ていた。 このままではが死んでしまうのではないかと、背筋が寒くなる。 知らなかった。が一月の間をひとりでこうやって苦しんでいたなど、想像さえしていなかった。 口を漱ぎ、目許に溜まった涙を拭いながら、はおぼつかない足取りで戻ってくる。 幸村は咄嗟にその身体を捕まえ、抱え上げた。そのうち転ぶのではないかと心配でならなかった。 「ごめんなさい…お土産、だめにしちゃった。 畳、拭かないと染みになっちゃう。もう平気だから下ろして…」 「断る」 抱え上げたを、蒲団の上に慎重に慎重に下ろす。起き上がろうとすれば制され、 首まで蒲団を掛けられてしまった。唇を真一文字に結んだ幸村を眺めながら、は深く溜息を吐く。怒っている、というわけではないだろう。その代わり、幸村の顔は 余りに辛そうだった。 「………驚いた?」 「あのまま血を吐いて、死んでしまうのかと思った…」 国境付近の村へ出撃しに行ったこと、そのこと自体については後悔をしているわけではない。 だが、が苦しんでいたのなら、ずっと傍らで支えていればよかった、と思ってしまう。 激しい自責に囚われているらしい幸村を見つめ、は蒲団から腕を伸ばした。 そして、先ほどと同じように、筋の通った鼻を抓む。 「わたしは、血を吐くことだってお団子が食べられないことだって、ちっとも辛くない。 怖くもない。だってそれが、わたしが身篭っているっていう、確かな証拠だもの」 「だが俺は!そうして苦しむを見ていることしか出来ぬ!」 の腕をほどき、幸村は俯き加減に言う。 なぜ代わってやることが出来ないのだろう?と、だけに負荷をかけざるを得ないことが、男として申し訳なく思った。 は力強く握り拳を形作っている幸村の手を取り、指を一本一本ほどいた。 それから蒲団を捲り、自分の腹の上に置く。 「ここに居ついてしまったんだから、幸村が何も出来なくて当然でしょう。 そんなこと考える前にもっと喜んでくれると思ったのに、もしかして嬉しくないの? 赤に恵まれたわたし達を日の本一の幸せ者だと思ってるのは、わたしだけなの?」 「嬉しく無いはずがなかろう!! 突然の事に驚きはしたが、俺はっ…!俺とて…!」 幸村が思わず顔を上げると、は“妻の顔”でふわりと優しく微笑んでいた。 それがまた幸村の胸をつかえさせ、どのような言葉を使えば今の自分の気持ちが正しく伝えられるのか、分からなくなる。 「でしたらいつもの様な大きな声で喜んで、お館様にお知らせの書簡を出して、 それから出来るのならのために、たくさん桃を持って来てください」 「桃なら食べられるのか」と幸村が尋ねれば、は「多分ね」と言ってまた笑う。 幸村はの腹の上に乗せられている自分の手を見つめながら、本当にこの下に赤ん坊が居るのだろうかと 不思議に思った。なにせの腹は、幸村に比べて随分と薄いのだ。 「……あの、な、。直に触れてみても良いか?」 「ええどうぞ」 は手を離し、幸村は解放された手でゆるく結ばれた帯をずらした。 そのまま合わせの隙間から滑り込ませ、すべすべとした肌を撫でる。 「分かる?」 「さっぱり分からぬ」 「でしょうね。わたしにも分からないもの。 ………あ、しばらくは『お預け』だからね?」 「そ、それくらいは心得ておるわ!!」 そわそわした様子で自身の腹を撫でる幸村を見ながら、はわざと意地悪な言い方をする。幸村は顔を赤くして途端に手を引っ込めようとしたが、 どこに赤ん坊がいるやら気になるほうが優勢だったらしく、結局首を傾げながら触っていた。 そしてしばらくの後、童のように瞳を輝かせた幸村は、天井に向かって叫ぶのだった。 「明日は桃狩りに参るぞ佐助ぇぇぇ!!」 「うるせぇええ!!ひとりで行ってろっつーの!!」 |