「佐助、なにしてるの?」



ある日は、幸村の執務室の前でがっくりと溜息を吐く佐助を見つけた。
どうしたのだろうと思って声を掛けてみれば、彼は「あぁ姫さんか…」と疲れた声で言い、顔を上げた。 そこにはいつもの額宛ての他に、謎の仮面がくっついている。



「……佐助、よね?」

「いいえー俺様は猿飛佐助の友人の天狐仮面ですー」



そう名乗る自称・天狐仮面だが、その声や出で立ちは佐助そのものだった。 ただひとつだけ、佐助と天狐仮面を別人足らしめるものといえば、その謎の仮面のみ。
は自称・天狐仮面に歩み寄り、ぺいっと仮面をはがした。



「やっぱり佐助じゃない!」

「うん…普通分かるよねぇ…」



仮面の下から現れたのは、もはや見慣れた佐助の顔。当然といえば至極当然で、 予想通りといえばやはり予想通りなのだが、なぜか佐助は見抜かれたことに安堵しているようだった。
が首を傾げながら「どういうこと?」と尋ねると、佐助は肩を竦めて背後の障子を指差した。 そこは、幸村が政務処理のために引きこもる用の部屋だ。



「…え……まさか…」

「いやー旦那ったらすっかり信じてくれちゃって。
 俺様、嬉しいやら悲しいやら情けないやら、なんかもう笑えてくるんだけど」



佐助は乾いた笑みを浮かべて、遠い目をしている。
いくらなんでも、如何な幸村といえども、さすがにこれは分かるだろうとは思うのだが、やはり幸村は一筋縄では行かないのだろうか。 そんなの考えが伝わったらしく、佐助はにやっと笑うと再び仮面を装着する。 額宛ての角が仮面からはみ出て、まるで耳がもう一揃えあるようだ。

と、その時、突然障子が開いて幸村が姿を現した。
彼は目の前にが居たことに少し驚いたようだが、その横に佐助、否、天狐仮面が立っていることに気付くと、 たちまちに破顔する。



――おお、天狐殿!まだおられたのだな!」

「ん、いや、ちょいと其処で別嬪さんを見つけたもんで」



佐助(天狐仮面)がそう言ってを指で示せば、幸村は納得したような顔で「ほう」と言う。



「丁度良いところに、
 紹介致そう、天狐殿、此方は某の妻のにござる」

「どもー」

「あ、ど、どうも…」

、此方は佐助のご友人の天狐仮面殿だ。
 佐助と同等かそれ以上の、中々の手練であられるぞ!」



そんなことは知っている。
と、言えたらどれだけ楽になるだろう。けれど、幸村があまりにも純真な顔で『天狐仮面殿』を紹介してくれるので、 「それ、中身は佐助だよ」とは言えなかった。

佐助の言った通り、幸村は天狐仮面の正体にはちっとも気付いていないらしい。
なぜ分からないのか、にはそこが分からない。



「あらー、嫁さんだったの。羨ましいねぇ、可愛いお姫さまで!」

「う、うむ…政宗殿もの事を褒めておられてな、
 まこと、某には不相応なほどの良く出来た女子でござる」



にやにや笑った佐助(天狐仮面)がを見る。は顔を赤くして「ばか佐助!」と心の中で反抗した。何が嬉しくて身内の前で身内に 惚気られなければならないのだ。がそうやって葛藤していることなど露知らず、幸村は照れ笑いを浮かべながらも自慢げである。



「じゃ、俺様そろそろ帰るんで、ごゆっくりー」

「またいつでも参られよ!道場にてお待ち申しておりますぞ!」



言葉と言葉の間に「ぶふっ」という堪え切れなかった笑い声を忍ばせつつ、佐助はさっと烏を呼び出して、上空に消える。 幸村は手を振ってそれを見送っていた。ついぞ、その正体が佐助であると気付かないままだった。

佐助(天狐仮面)の姿が見えなくなって、幸村はくるっと振り向いた。 すると一番に目に飛び込んできたのは、心配そうな、というよりはどこか可哀想なものを見るような表情のだった。その視線に思わずたじろぎ、顔に墨でもついているのかと頬に手をやってみる。 しかし何もついていない。



「……幸村…もしかして熱でもあるんじゃないの?」



ゆっくり伸びてきたの手が、気遣うように幸村の額に宛てられる。 途端に落ち着かない気分になるのを誤魔化すように、幸村は「そのような事はない!」と力強く断言した。
としては、むしろ熱でもあってくれたほうがまだ分かるというものだったのだが。 しかし幸村は申告通りに健康そうで、宛がった手の平からの温度もどうということはない。 なんで気付かないんだろう、と呟くに、幸村が不思議そうに首を傾げた。

そうしてお互いに首を傾げていると、そのうち廊下の奥から佐助が戻って来た。“天狐仮面”だった 先程までと比べて変わっている部分は、やはり顔に仮面が乗っているかいないかだけである。



「旦那ァ、なんか厩番が呼んでたぜ?あんたの馬がどうのこうのって」



佐助はまるでたったいま来たばかりのような、涼しい顔で庭の奥を指差した。 幸村は「なにっ!」と険しい顔をすると、途端にを放り出して縁側から飛び降り、厩の方へ駆けて行く。
その後姿が大分小さくなった頃、佐助は「うそだけどねー」と小さく言った。


幸村が去り、佐助と二人だけになると、は複雑な心境を隠そうともせず「どうして?」と呟く。 どうして天狐仮面が佐助だと分からないのだろう?幸村の様子は、分かっていてもとぼけている、 といった感じでは全くなかった。

佐助も肩を竦め、お手上げだという態度を示す。



「……というか、大体どうして“天狐仮面”を名乗る必要があったの?」

「まあ大将の命令っていうか巻き込まれたっていうか、道場関連でちょっとね。
 ちなみに大将は火男仮面だったんだけど、そっちは仮面が割れて正体ばれちゃってさぁ」



なのに何でこっちは分からないかねぇ、と佐助はまた溜息を吐く。は目を丸くして「お館様も?」と佐助に尋ねた。 彼の言う『道場』がどんなものかは知らないが、信玄まで加担していたとは予想外だ。

の期待したような視線を向けられ、佐助は渋々“漢祭り”と題された休日の出来事を話した。 信玄が一瞬にして道場を作り上げたとか、溶岩の中から出てきたとか、 その辺りは言及してはいけないらしい。



――おまけに俺様、大将の盾にされてさぁ。旦那に殴られたんだぜ?
 ひどくね?それなのに旦那はちっとも給料上げてくれないし、殴られ損だっつの」

「じゃあ今日も道場に行っていたの?」

「いんや、昨日いきなり旦那が『天狐殿は息災であろうか』って言い出したもんで」



あまりにしつこいので、一度顔を見せれば静かになるだろうと考えたらしい。つまりがやって来たのは、ちょうど会談が済んだ直後だったということだ。 ようやく状況に少し合点がいって、は「なるほど」と頷く。



「旦那がさ、『城下でも最高の一品でござる!』って羊羹を勧めてくれるわけ。
 よぉく存じ上げておりますとも、なんたって俺様が買いに行ったんだからな!って感じで」

「ご、ごめんね、佐助……幸村にはそれとなく言っておくから…」

「まじで?あーもう、旦那の嫁が姫さんでほんっと良かった!」



昇給の約束は出来ないが、もう少し佐助の負担を軽くするように言うことくらいはにも出来る。そう言ってやると、佐助は大袈裟なほどに喜んだ。若干申し訳ない気分になりながらも、 は斑色の佐助の服の端を引っ張り、「その代わり、」と耳打ちする。



「その仮面、貸して?」











◎ ◎ ◎
◎ ◎ ◎












「真田幸村、覚悟っ!」



数日後、いつものように息抜きにと茶でも飲もうかと思い立った幸村は、障子を開けた途端、 喉元に迫った物干し竿の急襲に遭った。咄嗟に身をかわして懐から護身用の短刀を抜き、 まずは襲撃者との距離を空けるために大きく腕を振るう。



「何やっ――?」



何奴!と続くはずだった言葉は中途半端に途切れた。
それというのも、襲撃者が他ならぬにしか見えなかったからだ。その背丈、体躯、髪の色や長さや艶、 薄く漂う香の匂い、果ては着物の柄まで、そっくりそのままと同一だった。しかし襲撃者の顔にはどこかで見たような仮面が乗っている。 そのせいで顔の全容は見えない。

この仮面。どこかで。
幸村は襲撃者の顔半分を眺めながら考えた。どこかで。どこで?ああそうだ、



「な、何をしておるのだ
 それは天狐殿の仮面であろう!いつの間にそんなものを、」

「わ、わたしは弐之姫、殿、ではないっ!」

「なれば、何者でござるか!」

「わたしはその、つまり、天狐仮面、の、妹!
 妹の…えっと…女狐仮面、である!だから弐之姫ではない!」



彼女はそう言い、竿を振り回した。
幸村は隙を突いて間合いを詰めようとするのだが、彼女の動きも中々鋭い。狭い廊下でよくぞここまで、 と感心してしまうほどだった。棒の先端は障子紙を掠めれど、破くことはない。

あれはだ。幸村には確信があった。幼い頃から竹刀で打ち合った仲だ、の攻撃の癖ならいくらでも憶えている。足の踏み出し方や、好んで逆手を狙ってくること。 おまけに今は視界が仮面で遮られているせいか太刀筋も単調で、容易に避けられる。


何度か、が打ち込んでくるのを受け止めた。も本気で命を狙っているわけではないためか、それともの腕が細いためか、受け止めたところでちっとも重いとは感じない。

すい、すい、と攻撃を避けているうちに、離れた所から様子を窺う侍女たちの気配を感じた。 恐らくが「手出し無用」とでも言いつけているのだろう、彼女らは止めたいのに止められない、という 雰囲気を押し出している。

には悪いが、ここは早く決着をつけてしまった方が良い。
再び振り下ろされた竿を、今度は受け流さずに素手で掴まえる。多少手の平がじんと痛んだが、 短刀を床に投げ捨て、もう片方の手でしっかり掴み直した。は仮面があっても分かるほど驚いたような顔をして、竿を取り戻すべく、 まるで綱を引っ張り合うようにぐいぐい引く。

けれどやはり、の細腕が幸村に敵う訳もなく。


不意に、幸村が引っ張り合いから手を引くと、力の均衡を失ったは「わっ」と小さく悲鳴を上げてよろめく。 すぐに幸村がの腕を掴んだおかげで、はあまり大きな衝撃もなく、ころんと廊下に尻餅をつくだけで済んだ。

目線の高さを合わせるように腰を落とした幸村は、指を伸ばし仮面を外す。
穿たれた線のようだった視界に眩しく光が差し、は思わず目を瞑った。



――見つけたぞ、



の頭の上に大きな手の平を乗せ、幸村は満足そうに笑う。はそれから視線を背けて、「隠れ鬼じゃないもん」と小声で言い訳をした。

遊びといえば遊びだが、仮面を被ったに気付くかどうかの遊びだったのだ。最初から打ち合いで勝てるとは思っていない。 もしかしたら幸村が仮面に気を取られている隙に一度でも打ち込めるかもしれないとは考えていたが、 それも甘い算段だったようだ。おまけに、正体がだというのもあっさり看破されてしまった。

もまだまだ精進が足りぬな」と平然と言ってのける幸村だが、からすれば幸村が馬鹿みたいに強くなったように思える。 しかしそう言ったところで「馬鹿とは心外な!」と返されそうなので、口には出さない。



「して、天狐殿の仮面をどのように入手したのだ?」

「……普通にお願いして、借りただけよ」

「なんと!天狐殿とそこまで親しくなっておったのか!」



幸村は「いつの間に」とでも言いたげな様子で首を捻る。彼が佐助に『天狐殿にもう一度手合わせ願いたい』と 頼んだ時はかなり渋られたのだが、の頼みをあっさり聞き入れるあたりが流石に佐助の友人という所か。 佐助が上杉の忍を追い掛け回すように、天狐がを追い掛け回さないよう留意した方が良いかもしれない。

はどこか気に喰わないような顔で、そんなことを思案している幸村を見ていた。 その手の中から仮面を取り返すと、「ねえ」と短く呼びかける。



「どうしてわたしだって分かったの?」

「…何故と言われても、分からぬはずが無かろう」



さらりと言われ、は一瞬言葉を失った。
幸村にとっては『外見からしてそのものだったのに分からないはずがない』という意味の言葉なのだが、 聞きようによっては『お前のことなら何でも分かる』という意味にも取れる。



「……じゃあなんで天狐仮面の中身は分からないの?」

「中身などと失礼な、天狐殿は天狐殿であろう!
 それともは天狐殿の仮面を取った顔を見たのか?」

「教えない!自分で考えれば!」



佐助のことは分からなくて、のことは分かる。
「分かってくれるのね!」と喜ぶべきなのか、「わたしが鈍くさいってこと?」と悔しがるべきなのか。

は何が何だかよく分からなくなって、立ち上がり逃げ出した。不意打ちでもなんでも、もう幸村には力では勝てないということ、それだけが唯一確実なことだ。



庭の隅に佐助と二人で座り込み、“どんまい”と慰められながら、は手元の仮面をいじった。 「分からぬはずが無い」という言葉がやっぱり少し嬉しいような気がするのは、しばらく教えないことにした。