首の裏で、が櫛をどうにか進めようとするのを感じる。 二度三度と梃子摺ったあと、櫛の歯は幸村の硬い髪の海をどうにか滑って行った。 一房だけ伸ばされたそれが、まるで犬の尾のようだ、とはよく笑う。現に今も幸村の髪を手入れしながら、さよの背中を喩えに出しては歯が折れそうだと 大袈裟な物言いをしているのだった。 それに対して幸村は「仕方無かろう」と言うしかない。望んでそうなった訳では無いのだ。 反論ついでに、膝に抱えた息子へ「なあ大助」と同意を求めてみた。赤子は幸村の膝にかじりついている最中で、 ちらりと先端を覗かせる小さな歯が少しむず痒い。 たしなめるように頭に軽く手を置くと、最近ようやく伸びてきたその髪が、幸村にそっくりの手触りであることが分かる。 は幸村の肩越しに息子を見遣り、幸村の着物がべちょべちょになっていることに溜息を吐いた。 以前からそういった部分には無頓着な幸村ではあったが、大助の首が据わるようになった辺りから、 なにかと息子に構っては泥やよだれで着物を汚すことを少しも躊躇しなくなった。 それどころか嬉々として汚れに行っている節さえ見受けられる有様だ。 思えば、今は立派な成犬となったさよがまだ仔犬の時分、つまり二人の元にやって来たばかりの時も同じだった。 徐々に扱いに慣れてきた幸村は、遊び盛りの仔犬をいたく気に入り、 狩りの練習だと称して頻繁に城下や裏山へ連れて行っていた。 そのうち息子がもう少し大きくなれば、待っていたとばかりに大助を連れ、やはり城下や裏山へ繰り出すのだろう。 いきなり真剣を持たせるようなことだけは止めさせなければ、と、は密かに懸念している。 他の部分よりも長い一掴みの髪を指でまとめながら、これは何の願を掛けたのだろう、とは不意に思った。櫛を動かす手は休めずに短く幸村に呼びかけると、 彼は視線だけで振り向いて、「なんだ」と先を促す。 「ねえ。“これ”はいつから、何のために伸ばしているんだったかしら」 後ろ髪がくいくいと引っ張られ、の尋ねているのがそのことについてだと幸村は悟った。 さて、いつから、何を願って、髪を伸ばしていたのだったか。遠い記憶を探ってみる。 少なくともが京に出た頃には、幸村の首裏には今よりも短い尾が揺れていたように思う。 「…強くなるように、と父上が言っておられたような気がする」 「憶えてないの?」 「気付いた時にはそれなりの長さになっていたからな。 それ以降は、お館様のご上洛を祈願して切らずに居るが」 幸村は大助の脇の下に手を差し入れ、胡坐に組んだ自身の足の間にすっぽりと収まるように抱え直しながら、 「お前も伸ばすか?」と語りかけてみた。問われている意味を解したわけではないのだろうが、 大助は短い手足をばたつかせて喜んでいる。その拍子に口の端からべろべろと垂れた唾液が、 まるで泡を吹いた蟹のように見える気がして、幸村はほう、と感心したような声を上げた。 「、大助が泡を吹いたぞ」 「えっ!?」 尾っぽ髪の先端に悪戦苦闘していたは、たちまち櫛を放り投げて幸村の正面に回り込んだ。 薬師を呼ばなくては、と焦ったのだが、何のことはない、ただのよだれである。 ほっと胸を撫で下ろし、誤解を招くような言い方をした幸村を軽く睨んで、は立ち上がった。 「何処へ行く」 「どこって、手拭いを取りに」 「そんなもの此れで事足りる」 そう言うや否や、幸村は着物の袖で大助の口元を拭う。 あ、とが抗議する間も無かった。 「その着物、まだ新しいのに! また洗い物に回さなきゃならないじゃない!」 「俺は別に着替えずとも構わぬぞ」 「殿、」 幸村は「冗談だ」と素直に先の言葉を取り消した。 口調を改めたには、出来るだけ大人しく従うほうが良いのだ。 一応は反省の態度を見せる幸村に、は諦めた表情をする。今はそう言っているが、また数刻もすれば気にしなくなるのが分かりきっている。 諦めついでに櫛を拾い、再び幸村の背後に座って髪を梳く。 母が叱りおるぞ、と囁きながら大助を揺すっていた幸村は、大助が己の着物に噛みつきながらも 眠りに入ろうとしていることに気付いた。笑ったかと思えば泣き、 暴れたかと思えば眠り、赤子とは忙しいものだと幸村は最近とみに思う。 「眠るか、大助」 幸村のそう言うのが聞こえ、は手を止めた。幸村の後ろ髪には赤い組み紐が丁寧に結わえられたところだ。 髪の手入れも終わったことだし、大助を受け取ろうと背後から手を伸ばすが、幸村は自分で抱えたまま離そうとしない。 どうするつもりなのだろう、とが思った時、幸村は赤子を腹に乗せたままごろんと横になった。 結ったばかりの髪がの膝の上でぐしゃりと潰れる。 「…雑務が残ってるんじゃなかったの?」 「父と共に一眠りしたいと、大助が言った」 は「そうなの」と苦笑気味に応えた。 いつ起こせばいいのか続いて尋ねようとが口を半分開いたのと同時に、「腹が減れば起きる」と幸村が先手を打つ。 それでは赤子と同じではないか、とは思ったのだが、それも今更か、とすぐに思い直した。 用は無いかとやって来た察しの良い侍女に羽織を持ってこさせると、 早くも幸村の腹の上で眠り込んだ大助の身体の上に掛ける。 幸村と羽織で挟んでしまえば、寒さのあまり赤子が体調を崩すことは無いはずだ。 はなるべく衝撃を与えないように、自分の膝と幸村の後頭部とで潰された後ろ髪を引っ張り出した。 そうして、邪魔にならないように横へ流す。引き合わされた頃よりも長くなったそれに、 戦場で敵兵に掴まれてしまうことは無いのだろうかと、少し心配になった。 けれどきっと、そんな心配は杞憂なのだろう。この髪はよりも長く幸村に添っているのだ。の知らない幸村を、佐助さえも知らない幸村の姿を、たくさん見てきたに違いない。 そう考えてみれば、心配だからと切ってしまうのも惜しい。 さて、も手持ち無沙汰になってしまった。 天井を見上げてみるが、木目に面白い読み物が書かれているわけでもない。 いっそ自分も眠ってしまおうかと思っても、座った姿勢では眠りにくい。 加えて膝には幸村の頭まで乗っているのだ。これでは身動きすらできず、膝が痺れるのを黙って待つしかない。 「……まあ、いいけど」 小さく呟いて、は幸村の額の上に自分の手を置いた。少しでも影があったほうが眠りやすいだろうと思ったのだ。 眠っているのかいないのか、幸村の口の端が満足そうに持ち上がったように見えた。 他にすることが無くても、この光景は、ずっと見ていたって永遠に飽きないことだろう。 ◎ ◎ ◎ 昼寝をしたから眠くないのだ、と幸村は言った。 だからといってべたべたにひっつかれていては、昼寝をしていないが眠れない。 「なあ」 「嫌です。だめ。は寝ます。おやすみなさい」 あやしい動きを見せる手を払い除け、はころっと寝返りを打って幸村に背を向けた。 本来ならば頬を染めつつ夫の求めに応じるのが務めなのであろうが、眠いものは眠い。 改めた口調だけが立派に“妻”のものである。 眠れぬというのにつれないな、と幸村は不満そうだが、の睡魔はお構いなしだった。 赤子を腹に乗せ、陽の高い内から阿呆面で昼寝を始めたのは幸村で、 赤子が目覚めた後も結局夕餉の支度が整うまで起きなかったのも幸村で、 つまりは眠くないというのも自業自得なのだ。 幸村にも日々の鍛錬や政務で疲れが溜まっているのだろうが、 半日も膝を占領されていたの疲労には敵うまい。 あまりに手持ち無沙汰だったので幸村の頭を台にして針仕事なんか始めてみたほどだった。 (何度か針でつついてやりたくなったことは秘密である) 「なあもう一度」 「死にそうに眠いのです。 身体を動かしたいだけなら、佐助を呼んでも同じでしょう」 「何を言う、同じではあらぬ。 それに、こう暗くては鍛錬も出来ぬというもの」 だから、なあ。そう言いながら幸村はを床から引っ張り上げ、赤子を抱き上げるのと同じ要領で膝へ乗せた。 だらしなく緩んだ湯帷子の裾がぐしゃりと歪んで腿の間に挟まっている。 は猫のように瞳をきゅっと細めて、頭から上半身ごと幸村の肩に倒れこんだ。 「、眠るな。、、、」 「…んも……うるさい…」 「うるさくしてが眠らぬよう画策しておる。 今宵は気候も申し分無い、ひとりで起きているのはつまらぬ」 幸村の指がの髪を梳いていく。は半分眠り心地のまま「寝酒でもすればいいのに」というようなことをむにゃむにゃ言った。 その言い方がおもしろいと幸村が笑う。幸村が笑うと身体が揺れ、肩口にもたれたをも心地好く揺すった。これでは眠るなという方が土台無理である。 「の髪はよく滑るな。先日もお館様が、 陽の下で見たの髪が一級品の織物のようだったと褒めておられた」 「……ん………」 「俺もの髪が他の部分より一等好きだ。 細かいことは分からぬがな、女子の命なのであろう?」 「……………」 「の命なれば、俺の命も同じ。我が槍が常しえに守ろうぞ。なあ?」 が返事をしないので、幸村はようやく長広舌を打ち切った。 すうすうと聞こえてくる音に、なんだ寝てしまったのか、とひとつ息を吐く。 昔もこうして、の寝顔を眺めることがあった。 本当に幼い頃、甲斐の屋敷で二人して散々に暴れまわった後、並んで昼寝をしたものだ。 その頃のの髪はこんなに長くはなくて、垣根を潜った際についた葉っぱなどがいつも絡まっていたことを覚えている。 それが今となっては絡むものもなく、幸村の節くれた指でさえもその黒い海の中へ面白いように呑み込んでいくのだ。 変わらないのは、鼻腔を擽る匂いがあることか。 かつては陽の匂いをさせていて、今は香の匂いがする。 その種類は違えども、溢れんばかりの黒絹に顔を埋めたときの安らぎは変わらない。 幸村は仰向けになるようにゆっくりと身体を倒して行った。を起こしてしまわないよう、あくまで慎重に背中をつける。 首だけで振り向いてみると、薄く開いた戸の隙間からの月明かりを見つけた。 あとどれくらいすればこの銀色の光は輝く朝焼けの色になるのだろう。 いっそ眠らず、このまま朝まで起きていようか。 指先だけでの後頭部をくしゃくしゃにしながら、幸村は思った。 |