大八は真田幸村の次男として生を受けた。 兄である大助とは十も離れていて、双子の姉たちも大人びていた所為か、彼は末子として存分に甘やかされた。 主な遊び相手は父の飼うしのびたちだったが、父本人も何かと相手をしてくれた記憶はある。 初めて幸村の肩に担ぎ上げられたときには、あまりの高さに下ろしてくれろと泣いて強請られたものだと未だに話の種にされることもあった。 ただし、母の記憶はない。 どのような人であったのだろうと思いを馳せ、色々な人物から母の話を聞いてみると、各々の印象があまりにかけ離れていることに驚かされた。 兄は、暖かくて優しい人だったと言う。よく膝に上げてもらっては眠るまで抱いて貰い、その度に父がやっかんだのだと、笑う。 姉の阿菊は芸事に秀でた人だったことを強調する。琴の腕前は都仕込みで、遠く奥州から客が来るほどだったのだと。 もうひとりの姉である阿梅は顔を顰めつつ、怒ると怖い人だったと言う。やれ廊下を走るなと、勝手に馬を連れ出すなと、もう少し淑やかになれと、 顔を合わせる度に小言を頂戴したらしい。 居合わせた佐助は、梅の文句が終わらない内に膝を叩いて笑いながら言った。「それ全部、かか様がちっさい頃に言われてたことですからね」と。 それには年配の女中も、腰の曲がった家臣も、厩番までもが同意して笑っていた。 同じようにして、父にも尋ねた。 「は」と言いかけて、一度彼は口を閉じた。 「そなたの母は、桃が好物でな」 意外な面から話を切り出した父に、大八は少し面食らった。だが幸村は気付かなかったように話し続ける。 桃さえやればどんなにむくれておっても機嫌を直したし、此方の機嫌を伺う場合にも同じ戦法が通用すると考えるような女子であった。 上田の城下にあった馴染みの店から買ってきた団子だとか、京の友人が土産に寄越した乾菓子だとか、稀に手ずから作って持って来ることもあった。 …まあ、大抵はそれで通じるのだがな。甘味に罪は無い。 そうでしたか、と返した大八の声色が幾分呆れを含んでいたことに気付いていたのか、いないのか。 幸村の話は止まらない。 「それから、酒に滅法強く、小細工なしではいつも此方が潰された」 つまり、小細工で勝った(または、少なくとも勝とうと試みた)ことがあるらしい。 あの父に、正面突破を第一の信条とする父に策を講じることを検討させるほどの人が存在しようとは驚かずにいられない。 しかし自ら飲もうとすることは少なかったのだ、と、幸村は筆を走らせる手を休めずに続ける。 勧められぬ限りは一滴たりとも口をつけようとせず、二合も飲めばもう満足だと言った。 そう言わずに付き合えと頼めば日の出まで付き合ってくれることもあった。 そこで幸村は唐突に大八の方を向き直り、「そなた酒は飲めるのか」と尋ねた。 大八は少し迷い、まだ元服前ですと言うべきか、先日しのびを強請ってこっそり飲んでみたことを話すべきか考えた。 そして思案の結果、「将来うわばみになりそうだと言われました」とだけ答えておくことにした。 幸村は愉快そうに目を細め、母に似たのだろうな、と言った。姉たちが酒に強いかどうかは知らないが、兄はさほど強くない類であった。 顔を赤くして額の汗を拭いながら、何が美味しいものか、と大助がぼやく横で中々おもしろい味だと大八は思ったのだ。 年嵩の兄を差し置いて酒の美味を解した己に、これは母から受け継いだものだったのか、とようやく合点がいく。 母に似たのだろうな。ただそれだけの言葉が、いやに嬉しく思った。 姉たちはその容姿から始まり、内面までもが母の生き写しであるらしい。梅の方は活発な面を、菊の方は琴の才を受け継いだ。 大助はどちらかというと幸村に似ている。 食の趣向。それが、兄ほど父似ではなく姉たちほど母似ではない大八が初めて見つけた母との接点だった。 節目よく途切れた会話であるが、幸村は酒の話など忘れてしまったかのように、続けた。 「それに、あれには武田の…真田の赤が、よく映えた」 見せてやろう、と言い、幸村が立ち上がった。それに続いて立ち上がり、導かれた先は父の寝所である。 襖を開けると真っ先に目に入るのは、鮮やかな朱色。よく見ればその朱色は打掛がまるで巾帳のように置かれているのだった。 父を見上げれば、僅かに微笑みながら打掛を見つめている。それだけで、この朱色が母のものだったのだと分かった。 もう少し近くで見てみたいと思いながらも躊躇われ、打掛と父との間で視線を行き来させてしまう。それに気付いた幸村は、大八の手を取って誘導した。 目の前に打掛を見据えると、何かの匂いが微かに鼻へ届いた。甘い香の匂いなのか、虫炊きの苦い匂いなのか、大八は鼻先を寄せてみた。 叱られはしまいかと案じもしたが、幸村は咎める様子など微塵も見せずに朱色を眺めている。 鼻腔をくすぐるのは、仄かに甘く優しい香りである。不意に、誰かから聞いた、母はいつも白梅の香を焚いていたという話を思い出した。 白梅と言われても名前だけでどのような香りか予想がつく大八ではないので、話を聞いた際にはいまいち理解し難かった部分がようやく明瞭になる。 なるほど、これが白梅。兄や、姉たちの言う、母の香り。 今でも思い出したときに香を焚いて、匂いを絶やさないようにしているのだ。と、幸村が言った。 大八は今度は指先を伸ばし、内掛けの表面をなぞっているところだった。すべらかな布に触れる手はそのままに、身体だけ父に向き直る。 「あれの今際の際に、琴や譜面を菊に譲るから着物は梅にやってくれと頼まれたのだが… この打掛だけは、どうしても、譲ってやれなんだ」 そのうち夢枕に立たれて説教されるやもしれん、と幸村が茶化すように言った。 しかし梅の嫁入りの際には今度こそ譲ってやらねばと考えておるし、そなたらにばかり遺すことを優先してこちらには香の灰しか残らなかったのだから、 ひとつくらい、今少し渋っても良かろう。そう思わぬか。 同意を求められた大八は、曖昧に笑って返した。この朱色の打掛からは、母の気配がするような気がした。 どうしても譲れなかったという父の言い分も無理からぬと共感する心持でもあるし、だからこそ父が独占しているのはずるいとも思うような心持でもある。 夢枕でもいい、ただ一目でも会いたいのは、幸村も、大八も、大助や菊や梅も、みな同じだろう。 打掛に視線を戻し、「父上、」と呼び掛ける。 父は短く「なんだ」と言って、話の続きを促した。 「父上は、大八が、憎いですか」 幸村は呆気に取られた表情で、なぜ我が子を憎まねばならぬ、とすぐに返事をした。 その問い掛けは、大八がずっと聞いてみたいと思っていたものだった。父は、家族は、自分を憎んでいるだろうか。 応と返ってきても否と返ってきても、大八にとって、どちらの返答も恐らく容易に受け入れられるものではないだろう。 なぜと言われても。 ひとつしか、思い当たる節は無いであろうに。 「だって母上は、お産で亡くなったのでしょう」 ◎ ◎ ◎ 幸村はその日のことを鮮明に覚えている。どれほど鮮明かといえば、まるで昨日一昨日の出来事のように思い出すことができるほどだった。 天気は雨。夕刻に差し掛かった頃。産後の肥立が悪く離れで静養していたの体調が急変したとの報せを受けて、執務を全て放り投げて駆けつけた。 それまでも高熱と下腹部の痛みでくたりとしてはいたのだが、幸村が顔を出せば起き上がろうとする程度には元気だったのだ。 それが今では虚ろな目つきで仰向けに横たわり、幸村が来たことも理解していなさそうだった。 、と呼んでも、当然反応はない。青白い顔で、指先は冷たいのだが、それでも体温は非常識なほど高いらしく、額に触れると朝よりも熱いような気がするほどだった。 産婆の持ち寄った薬はもはや効果を為さないのだと説明された。あちこちで忍たちが慌しく動いているのは別の薬を手配するためなのだろう。 、と、先ほどよりも一回り大きな声で呼ぶ。 きつく握った手をほんの僅かに握り返されたような気がしたとき、の目がようやく幸村を捉えた。何度かの辛そうな呼吸のあと、「との」と掠れた声が耳に届く。 「赤は、……なまえ、は、」 「大八だ。大助と同じ、“大”の字を遣った。 より余程元気で、梅や菊は構いたくて仕方ないといった様子だ。何も心配は要らぬ」 それを聞くとはかさついた唇で微笑み、「よかった、大八」と細い声で言った。ひやりとした指先に少しだけ力が篭る。は瞼を下ろして、また辛そうに大きく息を吐いた。痛みの波が来ているのだろうかと、幸村は推測する。 やがてまたは幸村と視線を合わせて、何事か喋ろうとした。無理をするなと言っても聞き入れようとはしない。 次に意識を失えば二度と覚めることは出来ないだろうと予期しているような印象さえあった。 「琴……菊に、あげて。全部…譜面も… 梅は、わたしの着物、嫁入りに…あと、重綱殿と、仲良く…」 「形見分けの話などするな!聞かぬ!言ってくれるな…!」 幸村は枕元に置かれたの六文銭を掴み、庭の方へ投げた。こんなものがあるから、が不要な覚悟をしてしまうのだと思った。必ず持ち直すから諦めるなと切実に言い聞かせるも、は困ったように眉を下げて、何も答えない。 こういった場合に、その肉体の限界について一番理解できているのは自身に他ならないというのは、幸村もよく知っていることではある。 それでも、認めたくは無かったのだ。 は切れ切れに言葉を続ける。 大助には自分の懐刀を譲ると言い、葛篭の中の草子はよくしてくれた女中たちに、簪や櫛は菊と梅で分け合うように。 それから、引き取り手がつかなかったものは焼き払って構わない、と。 それらの言葉を聞きながら、幸村の顔は大粒の涙が走った跡で一杯になっていた。はもう手遅れだろうということを悟っている。これが最後の会話になるだろうから、と、理解を拒む幸村に全身で訴えている。 なぜがここまで苦しまなければならない。あと一日でもお産がずれていたら、このような事にはならなかったのではないか。 それならそもそも、子を産むこと自体が起こり得なければ。自分が、と結ばれたりなど、しなければ。 「然様な、お顔を……は、十分に…幸せで、…殿が、幸村さまで…」 冷ややかな感触が頬に触れ、俯いて歯噛みしていた幸村は顔を上げた。の指が、彷徨うように揺れながら懸命に幸村を探していた。空いていた方の手でそれを掴み、自分の頬へ引き寄せれば、は安心したように眦を下げた。 幸せだった。確かに、幸せだった。 世継ぎもある。癖は強いが可愛らしい姫もある。立派な猟犬もいる。領地の治安は良い。石高も申し分ない。 天下へこそ手が届いてはいないが、その他に何ら負の要素はない。と結ばれていなければ、それらは存在し得ぬものだ。そんなことは十二分に承知である。 「俺も、」 幸せだった。 「が、」 妻であって良かった。 鳩尾の辺りから込み上げてくる何かに邪魔をされて、幸村の言葉も途切れ途切れになった。それでもは意図を解したようで、息苦しそうではありながらも満足そうな表情だった。 徐々に瞼が落ちてくる。焦った幸村が名前を呼ぶと、握った指先が少しだけ動いた。 「いつか…大八が、おおきく、なったら…母が、あやまって、いたって…伝えて、 わたしのこと、大八のせい、じゃ…ないから……誰も…お願い…」 どうか、自分が母を死に至らしめたのだと、思わないでほしい。 恨むのなら、憎むのなら、置き去りにしてしまう母を恨んでほしい。 だからどうか、いっそ生まれなければ良かったと、それだけは、考えないでほしい。 必ず伝えると幸村は答えた。もとより誰が悪いという話ではないのだし、誰かが罪悪感を被ったところでの流した血は戻ってこない。恐らくはただ少し運が足りなかっただけのこと。ただそれだけのこと。 「幸村」 「どうした」 「……ゆきむら…」 今やの両目は何処でもない虚空をぼんやりと見つめるだけで、呼吸の間隔も開いてきた。幸村は力を込めて手を握る。 か細い声で呼ばれる度に「」と応えても、痩せた白い手は握り返してはこない。もう幸村の声も聞こえていないのかもしれない。 それでも幸村は、の名を呼び続けた。 の声が途絶えたあとも、瞳が何も映していなくとも、呼吸が聞こえなくなっても、触れ合う手から温度が失われても。 夜更けに、見かねた己の影が声をかけてくるまで、ずっと。 ◎ ◎ ◎ 母の亡くなったは己が故であると大八に言われ、幸村は小さく息を吐いた。来なければ良いと願っていた、の言っていた“いつか”が、遂に来てしまったのだと。 耳聡くそれを聞きつけた大八は、何でもない素振りをしながらも肩を震わせた。呆れられたとでも思ったのだろうか。 幸村は苦笑しつつ、打掛を台から外した。空気を含ませるように広げて、そのまま大八の幼い身体を包み込む。 身の丈に合わない着物を被せられた大八は驚いた顔をしている。きょとりと目を開くその様子に、やはり母似か、と考えながら幸村は腰を下ろした。 組んだ足の間に納まるように大八を抱えると、白梅の残り香が仄かに漂う。 「母からそなたへの言伝がある」 そう言うと、大八が身を縮めた。襲撃に備える新兵のようなその姿に、申し訳なく思った。 は、いずれ己を苛むであろう大八に、それは自分の本意ではないと伝えてくれと言った。 しかし周囲が明るく振舞っていれば、大八がそのようなことを気に病むことも無かろうと幸村は考えていた。 それで上手く行っているように見えていたのだ。つい先ほどまでは。 「……すまない、と。 そなたを抱き上げることができず、そなたの喋る言葉を聴くことができず、 歩く様を見ることができず、元服姿を褒めることができずに、すまぬと」 だからどうか誤解してくれるな、と、心中で訴える。 もしの予見通り大八が己を憎むとしたら、悪いのはこの幼子ではなく己であると、幸村はずっと考えていた。 自分と結ばれなければ、ということではない。我が子ひとりさえ自己嫌悪から救えず何が親か、ということである。 「他でもない、の忘れ形見であるそなたを、誰が恨むであろう。 恨まれるべき者が居るとすれば、それはこの幸村ただひとり。 それ以上言わば、母の思いを侮辱することとなるぞ。口を慎め」 に叱られるべきは幸村ひとりで、それは他の誰にも譲ってやりたくない立場なのだ。 そこまで言った後、大八がぐすぐすと鼻を鳴らしていることに気付いた。 この打掛だけは汚してくれるな、と言いながら懐紙で顔を拭ってやる。大八は幸村の胴にしがみついて、嗚咽交じりにしゃくり上げた。 他の子らと比べて随分落ち着いているとはいえ、本当は未だ幼いのだ。 「母上に会いたい」と繰り返す頼りない声を、身体ごと打掛に包んで力強く抱いた。 「そうだな、会いたいな」という幸村の声を聞くのは、いつだって己の影のみである。 |