もぞりと、自身の横で動く気配があって、の意識はあっという間に覚醒間近の表層へと持ち上がった。まどろみを手放すのが惜しくて目は瞑ったまま、さむい、と小さく零す。 幸村が起き上がった際の隙間から、晩秋の冷ややかな空気が無遠慮に入り込んでいた。 幸村はの身体にきちんと夜着を掛けなおし、すまぬ起こしたか、と問う。問いながら、寝乱れた髪を梳くように撫でてやると、閉ざされていた瞼が細く開いた。ははいともいいえとも答えず、眠そうな顔のまま緩慢な動作で半身を起こした。 普通の武家ならば、いや、武家ではないただの百姓の家でも、このように妻が夫より遅く起きることはご法度なのだろう。 だが此処は上田城、尋常でない早起きをして朝稽古に出かける真田幸村のお膝元である。一番鶏とも揶揄される彼が活動を始めてから、上田は目覚めるのだ。 幸村も自身の早起きは自覚しているので、に「自分より早く起きろ」などとは言わないし、むしろもっと寝ていれば良いのにとさえ思う。それでもは幸村と同時に起きて、時には門まで見送りに来ることさえあった。 愛息の夜泣きに付き合っていた頃はさすがに寝坊や昼寝もあったものだが、最近ではそれもない。怠けていけては下の者に示しがつかないのだという。 まるで軍の規律を守ろうとする将のような言い様である。初めてそれを聞いた時には、女子の世界も大変なものだと幸村は思った。 さて、幸村はいつものように朝の走り込みへ向かう仕度を始めた。寝間着を脱いで、が淡々と渡してくる稽古着に身につける。袴の紐をきつく締める間に、伸ばされた一掴み分の後ろ髪はの手によって結わえられた。 手拭いを何枚か持って、顔を洗うために井戸へ向かおうと障子を開ける。 そこで、「おお」と思わず声が漏れたのは、開けた先が一面の銀世界になっていたからだ。 喜色もあらわに「雪だ、雪だ!」との元へ駆け戻れば、その長い髪ごと羽織に包まったは「通りで寒いと思った」と身を小さくしていた。 「この様子なら、いつもの道も通れないでしょうね…」 「無理なことがあるか、我が焔はこのような時のためにこそ!」 「だめ。融けたあとの水がまた凍って、転んでしまう人がいるかもしれないじゃない」 むう、と幸村は口をへの字に曲げた。 そうは言っても、朝稽古をしないと幸村の一日は始まらないのだ。 不満そうな様子の彼に構わず、は櫛を髪に入れながら「たまにはゆっくり朝餉を待ってみたら?」とのんびり言う。 それを無下に却下するのも気が引けて、今度は幸村が応とも否とも返答できなくなってしまった。 どうしたものかと雪景色を眺めていると、さくさくと小気味良い足音と共に虎毛の犬が濡れ縁に顔を覗かせた。 毎朝、城下の土手を駆ける際の供をしてくれるさよだった。今朝も幸村が走りに行くと思って迎えに来たのだろう。 献身的な出迎えもあったことだし、やはりこのまま朝餉までゆるりと過ごすのは取り止めだ。を振り向いて「雪下ろしをしてくる」と言えば、は分かりきっていたかのように「いってらっしゃい」と答えた。さよが一声わんと鳴き、幸村は躊躇いもなく真新しい雪の中へと足を差し入れた。 ◎ ◎ ◎ が着替えを済ませ、活動を始めた女中たちと冬支度についてを話をしていると、いつもより早く幸村が戻ってきた。 ひょいと覗かせた顔は物足りなそうである。聞けば、城主の仕事ではないからと途中で追い返されたらしい。 「おまけに鋤が折れた」 背に隠すように持っていた農具を、幸村はばつが悪そうにそっと持ち上げてみせた。恐らく自身が愛用する槍と同じ具合に、遠慮なく力を込めて扱ったのだろう。 古びた木製の柄は箕の付け根のあたりで真っ二つになっていた。 あらまあとの隣で女中が目を丸くしているが、要するに追い返された理由は邪魔だったからだろうとは思った。 こんなにも早く戻ってくるとは思っていなかったので、朝餉の仕度が整っていないのは当然だった。 しきりに恐縮する厨当番を宥めて、が今度こそ膳が整うまで留まるように言うと、幸村はおとなしく従う態度を見せた。 しばらくは雪下ろしの時に八百屋の息子が埋め立てられそうになった話していたのだが、そのうち幸村は気付いたようにを見て、尋ねた。 「大助はどうした」 「どうって…まだ寝てるけど」 全員が全員幸村と同じように生活をしているわけではないだ、幼子がまだ寝ていても何らおかしいことはない。のだが、幸村はそうとは思わないらしい。 眉を顰め、寝太郎とは感心せぬ、と言うや否や立ち上がろうとする。はその袖を掴んで、必死に引き戻そうとした。 「だめってば!」 「何をだめなことがあるか! 俺が大助の年の頃は早朝から父上に稽古をつけて貰っていたものだ」 「うそよ、わたし覚えてるんだからね。 雪合戦に誘いに行ったら、佐助と蒲団の取り合いしてたじゃない!」 ぐう、と幸村は返事に詰まった。はしてやったりというような表情をしている。 「そうだったか?」とおずおず尋ねてみれば「そうですとも」と即座に返された。 幸村はあまり覚えていないのかもしれないが、は覚えている。 早朝に忍び込んだ甲斐の真田屋敷、植え込みから様子を窺えば、蒲団にべたりと張り付いた幼馴染を引き剥がそうと奮闘する忍の姿。 いやだいやだ寒いのだから取るでない!と喚く涙混じりの声を耳にして、男の子のくせに!と思ったのは幼心に強い印象を残していたようだ。 完全に言い負かされた幸村だが、このまま引き下がってくれるかといえば、その程度で片付けられる男ではなかった。 「では今からそうならぬようにそれば良い」とかなんとか言い訳をして、ついにはの手を振り払ったのである。あっと抗議の声を上げるも時すでに遅く、どしどしと重い足音は大助に宛がわれた部屋の方へ向かって行った。 追いかけようとも立ち上がるが、ちょうど朝餉の膳を運んで来た女中と衝突してしまいそうになり、止まらざるを得なかった。 あとはもう、愛くるしい寝顔によって幸村の“叩き起こしてやろう”という気が挫かれるのを願うしかない。 しかし、そんな願いに反し、途切れ途切れに聞こえてくるのは、 「大助えええ!!!」という幸村の大きな声と、 その声から数拍置いてから響き渡った甲高い泣き声である。 段々と近付いてくる泣き声が誰のものか、にはいやというほど分かっていた。 はぁ、と深く溜息を吐いて、しゃもじを置く。そこで見計らったように襖が開き、幸村と、幸村にしがみついて泣き声を上げる大助が入ってきた。は何も言われる前に立ち上がり、あんあんと泣き続ける我が子を呼んだ。 「どうしたの大助。ほら、いらっしゃいな」 「いや、その、故意に仕向けたわけではないのだがな… 寝ぼけ眼では、足元の蒲団の塊がよく見えなんだらしく…」 要するに、転んだらしい。 の声を聞くや否や、大助はそれまでしがみついていた幸村から身体を離し、母の腕の中へ逃げるように飛び込んで行った。 よしよしと頭を撫でてやると、ぼろぼろ涙を零しながらも額を手のひらで覆って見せる。「そう、こっちをぶつけたのね」と言ってがそこを指先で温めるように触れると、泣き声は少し安心したようなぐずつきに変わった。背後では幸村が胸を撫で下ろすような気配がする。 無言で幸村を促し、は大助を抱えたまま朝餉の席についた。 幸村がおかわりと言えば茶碗に米をつぎ足し、大助が泣き止めば小さく柔らかく作られた幼子用のおかずを口に運んでやる。自身の食事は、いつも僅かな隙を突かなければならないのだった。 一番に食べ終わるのは幸村で、その次が大助である。食べ終えたか、もしくは大人しく座っていることに飽きた大助をから受け取って、幸村が相手をする。今朝も同じように父の腕にぶら下がり、時折振り回されることを楽しんでいるようだった。 そこへ、膳を下げに女中がやって来て、障子が開く。 何かに気付いたらしい大助は幸村から手を離し、そちらに向かって突進して行った。戸と女中との隙間にねじ込むように身体を入れると、ふわぁと驚いたような声が上がる。 「ははうえ!!ははうえぇぇ!!」 「なぁに、どうしたの」 ばたばたと足音を立てて興奮した様子の大助が戻ってきた。片付けをしていることなど構わずにの袖を引っ張って、外を指差したまま「まっしろ!」と言う。は勢いに負けて腰を上げ、促されるまま庭の方へ歩いた。 まっしろ!と何度も繰り返され、大助が雪のことを言っているのだと分かった。雪ならば去年も嫌というほど降ったものだが、まだ幼かったので覚えていないのだろう。 それにしても今朝の幸村と同じような反応だと思うと、無意識に笑みが零れた。 はゆっくりとした口調で「“ゆき”」という発音を教えてやった。白を被った庭石をじいと眺めながら、大助は口の中で何度か「ゆ、き、」と発音する。 上手だと褒めて頭を撫でれば、今にも飛び出して行きたそうな大助はそわそわとを見上げた。 「――よし、大助!今日は雪というものを教えてやろう! 良いな、まず地表の見えぬ所には用心せよ。雪の下に伏兵が潜んでおるやもしれぬからな」 「…居ないと思うけど…」 「いいや居る。あれは最北に一揆ありと聞いて出陣した際のこと!」 いつの間にかたちの近くまで来ていた幸村が至極真面目な顔で言う。誰の発案か知らないが、雪の下で待ち伏せるなどよくぞ実行したものだ。 雪中の兵法ではなく、雪だるまだとかかまくらだとか、もっとそういうことを教えてやってほしいのに。の微妙な顔に気付いたのか気付いていないのか、幸村は早朝と同じように躊躇うことなく庭へと下りた。そうして足元の雪を一掴みすると、大助に触らせる。 大助はすぐさま指を伸ばし、雪に触れた。すると、あまりの冷たさに驚いたのだろう、ひゃっと悲鳴を上げての足にしがみついた。それでも父親が雪をこねて丸めてみせるのを興味深そうに見ていて、再び差し出された雪玉を恐々と受け取る。 投げてみろと幸村が言うと、大助は短い腕を目一杯に伸ばして投擲した。だが雪玉はほとんど飛ばず、足元に落ちる。あらあらと笑うに反して、幸村は真剣に「ちがう投げる時は肘を曲げて肩から力を」云々と講釈を述べ始めた。 これはきっと、昼過ぎには城中を巻き込んだ雪合戦になっているだろうなと、は覚悟した。 「雪中修行でござるぁぁぁああ!!」との開始宣言が響き渡るまで、あと半刻。 ◎ ◎ ◎ すっかり夜も更けて、は火鉢を持って廊下を歩いていた。 城の人間の大部分はもう眠りについているのだろう、しんと静まり返った音さえ聞こえそうだった。昨夜に負けず劣らず、今夜の上田も冷え切っている。 幸村はどんな気温でも潔く起床できるかもしれないが、にとっては炭を足しておかなければ明日の朝がつらそうに思われた。 途中で大助の部屋を覗き込んでみると、やはり寒いのか丸くなったまま眠っている。 昼間にさんざん遊んだので途中で目覚めることはないだろうが、夜着を蹴飛ばしたとしても気付かずに眠り続けていそうだ。 火鉢を下ろし、は自分の羽織を肩から引き抜いた。首までしっかりと夜着を引き上げたあと、さらに上から自分の羽織を大助に掛けてやる。 寒さで体調を崩されるより、暑かったとぐずられる方がいい。ふくふくした頬を指先でくすぐってから、再び火鉢を抱えて立ち上がった。 「おやすみなさい」と声をかけて、は静かに襖を閉める。 炭を置いてある厨まであと少しというところで、困ったような話し声がの耳に届いた。 「ええっ、無いの?ひとっつも?」 「はい…今晩はいっとう寒うございますので、みな同じように考えたようで…」 取り立てて気配を殺すこともなく歩み寄れば、声の主たちはぴたりと会話を止めた。 そしてが姿を見せると、揃って一礼する。それには軽く頷いてみせてから、どうかしたのかと尋ねれば、当番なのだろう若い女中と佐助は、互いに困ったような顔を見合わせた。 「火鉢がねぇ…足りないんですよ。 なっさけないことに、実はうちの奴らが揃いも揃って倒れちまったもんで、 もう一個くらい火鉢を借りられないもんか来てみたんですけど、」 佐助の説明に「炭ならば余りがあるのですが」と女中が付け足す。 腕に抱えた火鉢を見下ろし、は少し考えた。もし佐助に火鉢を遣ってしまったと言ったら幸村はどうするだろう。 元からあってもなくても良さそうな素振りだったから、「そうか」と言うだけかもしれない。暖を取りたいのは主に自分だけで、その自分も特に体調が悪いというわけでもない。 「――なら、わたしがこれをあなたに貸してやれば話は済むわね、佐助」 「ちょっ…じょーだん!主様から取り上げるなんぞ、忍の所業じゃねえにも程があるっての!」 「わたしがあなたに貸してあげるの。あなたがわたしから取り上げるわけじゃないわ。 寒いのに無理をして、動ける人数が減ってしまう方が真田の不利益になるでしょう」 「姫さんまでそういう屁理屈…勘弁してくれよぉ…」 情けなく眉尻を下げる佐助に、は火鉢を押しつけた。 佐助は両手を振って“絶対に受け取らない”との態度を示すが、は彼の腹を目掛けて抉るようにぐいぐい押す。 しばらくの押し問答の末、頑なだった佐助も、陶器の縁がみぞおちに入った頃にはとうとう火鉢を受け取った。 「わたしのことは気にしないでいいの。 なにせ火の玉みたいに暑苦しいお人がいらっしゃるんだから」 誰のことかは言うまでもない。それはまあ、と佐助は苦笑いで言う。 はついでに「明日には返してね」と言い足した。 どちらにせよ明日には入り用の物を買い足しす予定なのだが、一晩だけ、と条件をつけた方が佐助は受け取ってくれそうな気がした。そんなの考え通りと言うべきか、佐助は申し訳なさそうな顔で「ほんとすまねぇ…」と呟く。 基本給を中々値上げしてやれない分、こういう時には素直に頼ってきてくれればいいのに。とは思うのだが、きっと佐助の矜持に関わるのだろう。 ふたりに見送られ、は元来た廊下を引き返した。 厨に来た意味は無くなってしまったけれども、来た甲斐はあったと思う。 素足に触れる木板は冷たく、は手を擦り合わせながら早足で歩いた。ああ寒い、寒い。甲斐の冬も都の冬も相当に寒かったが、降雪量では上田が一番かもしれない。 けれど、更に北にある越後や奥州はもっと寒いのだろう。大雪のせいでなにか被害が出ていなければ良いが。 が寝所に戻ると、幸村はまだ文机に向って難しい顔をしていた。それを少しつまらなく思いながら、彼の背後に腰を下ろす。 首を伸ばして覗いてみたところ、奥州からの文を読んでいるらしかった。 「伊達殿は何と仰って?」 「平年より雪が多く、しばらくは動けぬと…、火鉢はどうした?羽織は?」 「羽織は大助に、火鉢は佐助にあげちゃったわ」 ようやく振り向いた幸村は、出て行く前より薄着になったの格好を訝る。寒いから炭を貰ってこようと言い出したのはなのに、どうしたことか。 不可解だと書いてあるような幸村の顔色を窺い、は「寒そうだったから」と簡潔な説明をする。 「だが…火鉢も羽織も無くてはが寒いであろう」 「うん、寒い。すっごく寒いの」 そう言うや否やは幸村の背にぴたりと身を寄せて、その腹に腕を回した。 虚を突かれたらしい幸村を上目遣いに見上げ、は一層力を入れてぎゅうと抱き付く。 「伊達殿へのお返事は、急務?」 「いや…」 本格的な積雪の前にもう一度手合わせを、と約束していただけなので、時期を逸してしまったことは残念だが、返書は急ぐことでもなければ仕事でもない。 それを聞いたは、幸村の背に頬を擦り寄せる。 誰に聞かせるでもない風に「こごえてしまいそう」と声がして、幸村は書状を畳むことにした。 「暖めてやろうか」と問えば、は満足そうに笑って頷いた。 おとな幸村は多少空気読めるんじゃないかと |