くれなゐの


二尺のびたる


ばらの芽の


針やはらかに


春雨のふる
新しく側仕えになったのは、まだ元服を済ませたばかりの少年だった。 あどけなさの残る顔立ちは凛とした強さを影に隠し持ち、人間としての魅力深さを窺わせる。
少年は、母君によく似ていると専らの噂だった。 軍神にも通ずるか、その端麗な部品の数々を彼に授けた母君というのは如何程の傾国であろうかと、 いつしか自身の奥底に好奇と感嘆が首をもたげるようになっていた。

少年を連れ歩き、獲物の扱いを教えていると、こぞって周囲の者の言うことがある。
いわく、少年は俺の再来のようである、と。
何処に拠ってそう判断しているのかは預かり知らぬことであるが、なるほど太刀筋は悪くない。 直ぐである。ぶれぬのだ。

少年が武将として立身したいと言うので、戦に連れていくこともあった。その際の俺は、少年を庇いつつ戦う。
有望な者を失うわけにはいかぬという思いと、 少年の影に見え隠れする母君を哀しませたくなという思いが混ぜこぜになり、 何やら自分でも理解できない衝動に浮かされた。


少年の傷付くは己の傷付くと同義であるか。
それとも幼くして逝った、己の母の傷付くと等しいか。
何せ少年は、幼き日の俺によく似ているというのだから。


城下を、やはり少年を伴って歩いている時であった。
雲行きが怪しいと気付いたのは行きつけの鍛冶屋を出た頃合いで、城に戻らない内に本降りになった。

「此方へ、小雨になるまで私の屋敷をお使い下さい」

少年に促され、武家屋敷の並ぶ一画へ進む。 ああ、と短く返した言葉は雨音に遮られ、少年に届いたか届かなかったか不明である。 ばしゃり、と裾に泥が跳ねるのを遣る瀬なく見送り、先導されるままに進んだ。

少年が武田に仇為す家の間者であれば、向かう先に刺客が待ち構えているかもしれない。 常用の槍は生憎と鍛冶屋に置いてきた。 まさか天候まで操り、俺を誘い込む策だとは思わぬが、いざそうなれば懐に隠した護身用の刀ででも応戦は出来る。
先立って歩む少年の低い背丈を見下ろし、俺はそのような事を考えていた。

程なく、屋敷に着いた。 特別に広いわけでもなく、小綺麗なわけでもなく、周囲の屋敷と変わらない構えをしていた。 少年が駆け込むように屋敷に入ると、使用人の慌てる様子が聞こえてくる。

ひとまず通された先に、刺客の気配は無い。
髪を拭こうと申し出る女中の親切を断り、手拭いだけ受け取った。 がしがしと乱暴な手つきで水を吸い取らせていると、静かな足音がして、襖が開いた。

「お初にお目にかかります、現当主の妻にございます。 夫が躑躅ヶ崎に参上しておりますので、恐れながら私の挨拶にて失礼致します」

姿を現したのは、ひとりの女であった。
色目よく重ね合わされた上質な着物に、濡れ羽の髪がしとりと下がっている。 まだ若いか。己より年嵩ではあるのだろうが、五つか六つほどにしか離れていないように見えた。
それが、しかし、現当主の妻ということは。

「其方は、坊の……」
「はい、母にございます。 息子をお側付きにお召し抱え頂き、恭悦至極に存じ奉ります」

坊、というのは少年のことである。
幼き日の俺に似ていると評判の少年は、厨の女中から馬番、 果ては将兵にまで「坊やが転んだ」「坊やが笑った」と噂の的なのだった。

その、坊の、母君。
涼やかな目鼻立ちや髪の色はまるで生き写しであり、 母君によく似ているという少年についての評判に、なるほどと得心が行った。

「袴に泥が跳ねてしまったと聞き及んでおります。 ただいま新しくお着物を用意させますので、しばしお待ちくださいませ」
「そのように気を遣って頂かずとも結構。 泥など、洗えば落ちる。徒に新しい物を出すような、過度な贅沢は好かぬ」

少年の母は流麗な所作で頭を下げた。
はらり、と、顔に一掴みほどの髪が掛かる。

「配慮が至らず、申し訳ございません。 しかしながら濡れたままのお着物をお召しになっていてはお体に障ります」
「だが…」
「泥も、染み込んでしまえばと洗おうとも落ちませぬ。 真田様がお許し下さいますのなら、夫の着物のうちでも最近に仕立てたものをお出しいたします。 今お召しのお着物は後日お届けにあがりますので、どうか」

諭すようで、押し付けがましい印象など微塵も与えない落ち着いた声色だった。 子の主君であり夫の同輩でもある俺への言葉であるはずが、弟に言い聞かせる姉の言葉のように聞こえた。 それは年齢差の所為かもしれず、声色の所為であるかもしれない。
少年は、この声に謡われる子守唄を聴き、育ったのか。 少年の性格の穏やかなるは、そこに由来するのだろうか。

あっさりと陥落した俺は、女中の持ってきた着物に着替えた。
襖の外では少年の母が控えている。手伝おうと申し出る女中の親切をまたも断ったのは、 姉のような母のようなあの女性に対してどこか見栄を張りたい気持ちがあったのかもしれない。
俺はもう、手伝われなければ着替えさえも満足に出来ぬような、甘ったれの小僧ではないのだ。 子守唄がなければ眠れぬような、少年とは、違うのだ。

着替え終わったことを告げると、少年の母は再び姿を現した。 その背後には少年が控えていて、手に盆を携えている。くゆる湯気。 雨で冷えた身体には、盆に載った湯飲みがなによりの持て成しだった。

「真田様、お茶をお持ちしました。 お茶請けに、さくら餅ならお出しできるのですが、お召し上がりになりますか」
「―…い、や。構わぬ。雨露を凌げただけで十分だ」

さくら餅、という言葉に心が揺れるが、そのことは隠して断りを言った。 雨宿りに来ただけで、菓子をたかりに来たわけではないのだ。
しかし少年は、普段から甘味を山のように消費する俺を見ている。 断りを言ったのは遠慮であり、本心では食べたがっていると検討をつけたのであろうか、 湯飲みを俺の前に置くと、「すぐに持って参ります」と再び立ち上がった。 去り際に、含み笑顔。

「申し訳ございません、勝手な真似を」
「いや、良い」
「寛大なお心、恐縮いたします。実を申しますと…私もあの子も甘味には目が無く、数々食して参りました。 その中でも、あのさくら餅はあまりにも美味でございましたので、是非とも真田様にも召し上がって頂きたいと 前々からあの子と話していたのです」

ならば是非、と短く返事をした。するとすぐ、少年のうわついた足音がして、襖が開く。 湯飲みが無いので、先ほどより迅速に着いたとみえる。新たな盆の上には皿に載った桜色の餅。

俺と、少年と、その母君の三人で、雨音を背景に一服をするのは、妙な気分だった。 自身に纏った少年の父の着物がそうさせるのか、まるで風景のすべてが自分のものであるようだ。 少年は無論のことながら、その母君でさえ。


雨足が弱まったころは、晴れていれば夕焼け色の空が見える刻の頃合であったことだろう。 遠く聞こえる鐘の音を背後に、少年のふたりで城への道を行った。 頭上には、門まで見送りに出た少年の母君が渡してくれた赤い傘を差している。

「母君は、幾つなのだ」
「二十五か、六であったと思います」
「若いな。お主と並んでいても、母というより姉に見える」

少年は照れたように笑い、「よく言われるのです」と言った。 二十五か六の齢にしてこの歳の子を持つということは、輿入れは十に満たぬ内に行われたのだろう。 とりたてて珍しい話ではないが、やはり、若い、と思わずにはいられなかった。


着物が届けられたときは、いつものように道場で稽古をしていた。
少年の実家から遣いが来ているとの伝言に、汗を拭って急ぎ向かうが、そこに期待していた人の姿は無かった。 当然と云えば至極当然である。あの女性の代わりに来ていた 中年の女中は、大事そうに抱えた風呂敷を解き、袴に間違いがないことを確認する。 ご苦労であった、と言葉をかけると、何度も何度も頭を下げて帰って行った。

その後、茶を運んできた少年に、「母君にも礼を言っておいてくれ」と伝えると、 少年は口元を綻ばせて「はい」と言った。

「実は、女中たちに任せて失礼があっては困るというので、母が染み抜きをいたしました」
「母君が、手ずから?」

少年は再び「はい」と言う。その言葉に押されるように、畳まれた袴を手に取って見る。 裾に染み付いていた泥の跡は綺麗さっぱり洗われていた。あのひとは、これを、 その手に取って、触れたのか。
なにやらむずがゆく疼く腹の底が気持ち悪いが、気にしないことにして執務に戻った。

夕暮れ前には商人がやって来て、雑多に装飾品を並べ出した。 どれが都の流行であるとか、どれがどの職人の細工であるとか、小難しいことをつらつらと喋りたてる。 商人が一通り喋り終えたと思いきや、今度は若い女中や、最近に妻を娶ったばかりの下男などが蟻のように群がり、 ああでもないこうでもないと品定めが始まった。
何がそんなに愉しいのか理解できない、と、皆の背後から遠巻きに眺めてみれば、 ひとつだけ離れた場所に置かれたかんざしが目に入った。 一見して簡素ながら、金の箔がふんだんに散りばめられている。
それを拾い上げ、間近で細工の精巧さを観察していると、商人の 「お気に召しましたでしょうか?」と訊ねる声がした。

「流石は真田様、お目が高くいらっしゃる。そのかんざしは本日お持ちしました中で 一番のお勧めでして、都でも最高の職人の造りました一品ですから、是非とも真田様に見て頂きたいと…」

そのかんざしを手に持って真っ先に思い浮かべたのは、少年の母の着飾る姿だった。 何故かは分からぬ。ただ、似合うであろうと思った。

あのひとの、このかんざしを髪に挿し、たおやかに微笑む様。
長雨の最中に縁側に佇み、子守唄を口ずさむ様。

似合うだろうと思った。見てみたいと思った。
貰おう、と短く答えて、商人の長広舌を打ち切る。呆気に取られる周囲の視線を無視して 真っ直ぐに少年の元へ向かうと、そのかんざしを差し出す。

「母君に渡してくれ」
「幸村様、そんな」
「なに、先日の礼だ」

少年は困った顔でこちらを見ていたが、俺が引かないと悟ったらしく、 おずおずとそれを受け取った。女中たちの好奇の視線も、先日の礼にという意図に今は納得顔である。
ただひとり、己だけが納得していない。なぜあのひとを思い出すのだろう。 なぜあのひとの飾った姿を見たいと思うのだろう。同じ顔をしているはずの少年では「違う」とさえ思うのだ。


なぜ。なにが。
どうして、あのひとを。


気付けば少年に「母君は息災か」と訊ねている自分が居る。
少年が「はい」と答えるのを待っている自分が居る。
もしそこで「いいえ」と返ってくることがあれば、頭が変になってしまうのではないかと思う。 いや、もう十分に変になっている。変だ。おかしい。

俺は、おかしい。

あのひとは己の側仕えの母であるひとだ。あのひとは己の同輩の妻であるひとだ。 幾ら言い聞かせても鎮まらない焦熱が憎い。
あのひとは、あのひとは











雨が降る、と言われていたのに、傘を持たずに城下へ出た。
少年は連れないで、茶屋で時間を潰し、空が灰色になったのを見計らって立ち上がる。 数個、店主の勧める菓子を包み、濡れぬよう袖の裏にそっと隠した。

やがて城への道の半分も行かない頃に雨粒が頬に当たった。 傘は無い。空の泣く勢いは増すばかりである。 足はひとりでに進むべき道を辿っていた。いささか、いつもより急ぎ足であるような気がする。

さてあのひとは、あのかんざしを挿しているだろうか。
長雨を憂いながらも縁側に座り、坊に唄った子守唄を懐かしんでいるだろうか。



「まあ真田様、濡れ鼠ではございませんか。さあこちらへ、いま着替えを用意させますので、しばしご辛抱を。 ああほら、あなた、手拭いと着替えとお茶と、それから……」



忙しなく指示を出すそのひとの声は、相変わらず軽やかで涼やかで雨音に馴染む。
その声を遮るのは勿体無いように思ったが、持参した手土産が無駄になることも同等に勿体無いので、 袖の裏に隠した包みをそっと持ち上げ、そのひとに見せた。

俺はいま、どのような顔をしているのだろう。済まなさそうに笑っている、 童気分の抜けない困った城主の顔はきちんと出来ているだろうか。

あら、と、口許が綻んだのを見届けると、俺は言葉を発するべく肺に空気を溜めた。

己の頭のおかしいことは重々承知である。
このひとは坊の母だ。あの男の妻だ。それでも、俺より僅かに年嵩なだけの、ひとりの女でもある。



「そのように畏まらず、幸村、と呼んでくださらないだろうか」



あのひとの髪には、いつかのかんざしが揺れている。









君よ、看よ、この双つの眼の色を
君 看 双 眼 色
不 語 似 無 愁

語らざれば愁い無きに似たりものを














くれなゐの/二尺のびたる/ばらの芽の/針やはらかに/春雨のふる(正岡子規)
君看双眼色/不語似無愁(芥川龍之介「三つの窓」)