剣と
私の父は忍をたくさん飼っていた。たくさん飼って、あちこちに遣って、情報を集めさせたり戦に連れて行ったりした。
その中でも一際目を惹く忍がいた。派手な色の頭をして、山に溶け込みそうな緑の模様の服を着ていた男の忍だった。
どうしてその忍がそんなに目を惹くのかというと、その忍ぶ気のなさそうな出で立ちだけではなく、
父に対してまでも軽い態度のせいだったのだろう。父はあまり私たちに構わない。
どんなに良い子で居ても褒めてくれることさえ稀で、いつも戦だ天下だと忙しない人だったからだ。
その父と、まるで旧友かのような気安さで話すことのできるあの忍は、いったい何なのだ。
理解ができないのと同時に興味深くなり、私は父と殴り合う幸村を見守る佐助を、背後からじぃっと、ひたすらに眺めた。
「あの、姫様、俺、なんか変なもんでも付けてます?」
「いいえ、お前の背中越しに幸村を見ているだけ」
そう答えると、佐助はため息を吐いて呆れた顔を作った。
「忍相手に嘘吐いたってばれてるぞ」とでも言いたいのだろうが、仮にも私は佐助の主君の主君の娘だ。
生意気な事を言う代わりの、生意気な態度という訳である。
この忍の何が良いのか、下女たちは好んで佐助の噂をする。やれ姿を見た、やれ声を掛けられた、
挙げ句の果てに鴉になりたいとさえ言うのも居る。何が良いものか、あれらの言う「燃えるような」色の髪など、
ただの柿色ではないか。あのあんぽ柿、見ているだけで腹が減る。
私の父はたくさんの忍を飼っていた。だが、佐助より優秀な忍は居なかった。
佐助は何でも知っていた。私が尋ねることには必ず、正しい答を寄越した。
「越後はどうしている」
「まだ動かないと思いますよ」
「今日の夕餉は」
「良い魚が釣れたって聞きましたけど」
「次の戦はいつになる」
「来月くらいに」
「明日の天気は」
「雨でしょうね」
「いつ止むの」
「さあ、しばらく降るんじゃないですか」
そうして本当にその日の夕餉は新鮮な岩魚で、翌日には雨が降り、
次の月が満ちるまで降り続いたかと思えば、父や幸村や佐助は雨が止んだ途端に出陣したのだった。
その間、越後はずっと沈黙を保っていた。
どうすれば、あの忍は答に窮するのだろう。あの忍の予言が外れるのは、どんな時なのだろう。
私はそれを突き止めなければならないと思った。だから気まぐれに呼び出しては質問を浴びせたが、
佐助は事も無げに答えてしまうか、身をかわしてしまうのだった。
「お前の髪はどうして柿の色をしているの」
「柿ばっか食ってたからですよ」
「嘘よ、柿の無い季節はどうするの」
「蜜柑を食ってましたね」
「柿も蜜柑も無くなったらどうするの」
「剥いた皮を集めて、煮たたせた汁ん中に頭を突っ込むんですよ」
「嘘つきのお前なんか、禿げてしまえばいいのに」
「いくら姫様のお申し付けでも、禿げるのはちょっと勘弁してもらえませんかねぇ」
何でも知っている上に、また佐助は何でも出来る忍だった。
風で木の上に舞い上がった手拭いをいとも簡単に取ってくるし、
半刻後までに山からあけびを取って来いと言っても四半刻で戻ってくるし、
私が父に内緒で飼っている狐の怪我を診ることも、人間の病を診ることさえ出来た。
例えば私が体調を崩して寝込んだ日。宵闇に乗じてやって来た柿色は、私の枕元に膝を突いて、囁いた。
「お加減は如何ですか、姫様」
「佐助お前…どうして…」
「旦那がうるせーんですよ、姫が病だ一大事だ亡くなられたら如何すれば、って」
「そんなに…?」
「ああ、それに大将も珍しく慌ててましたから」
「……そんな。じゃあ私は、死ぬの?」
「まさか。なんてことない流感ですよ、頑張ったって死にゃしませんて」
そう言うと、佐助は水差しの中に何か粉のような物を入れて私の口元に宛がった。
飲めと言うのか、という視線を向ければ、にこりと笑って返される。
「いやだ。にがいのだろう、お前がそんなに楽しそうな顔をするくらいだから。
余りのにがさに死んだら如何してくれるの」
「死にませんて。苦くもないですし」
「なら甘い毒なのだろう。私が病で死んだように見せかけるつもりなのだな、そんな手に引っ掛かると思うたか」
このあんぽ柿め、という捨て台詞を吐くために開いた口唇に、佐助は水を流し込んできた。
咽る間も無く飲み下し、「何をするか」と抗議をする間も無く睡魔が襲ってきた。
「おやすみ、姫様」
佐助の声がどこかで聞こえた。
奴の声はどうしてか耳によく馴染み、馴染んだかと思えばいつまでも耳の奥で響く。
なぜだろうか、よく分からないが、とりあえず明日の朝日は拝めるのだろうかと心配しながら眠りに就いた。
しかし結局、朝が来る頃には熱はすっかり下がり、父と幸村は大層喜んだという落ちなのだった。
それからも季節は巡り、再び長雨の時期が来て、やがて私にも婚期というものがやって来る。
連日父の元に運ばれる書簡は、余す所なく「ぜひ虎の姫を嫁御に」との嘆願であるらしいというのを、侍女から聞いた。
嫁に出れば、あの忍と顔を合わせることも無くなるだろう。
それはそれで問題の解決になるが、しかしそれでは私の野望は達せられないままだ。
私はなんとかして奴を驚かせ、狼狽させてやりたい。返事に窮する問い掛けをして、
分からぬのか、と笑ってやりたいのだ。そこで私は再び佐助を呼び、問答をすることにした。
「破瓜の痛みは如何程なのだろうな、佐助」
佐助は「ぶふっ」と音を立てて咳き込んだ。汚いぞ、と言うと、軽く睨まれる。
外からは雨音が静かに聞こえ始めた。睨んだって怖いものか、柿のくせに。
「…なんで俺に聞くんですか」
「お前はなんでも知っているから、答えられようと見込んだのだ。知らぬか?ん?答えられぬのか?」
「…鼻に大根突っ込む程だって聞きますけど…そんな嬉々として聞くことじゃ無いっしょ…」
嫌々ながらに答える佐助に、なんだ知っていたのか、とがっかりした。
驚かせることは少しは出来たかもしれないが、なんとも手強い相手である。
女子しか知りようもない事柄であるのに返事を寄越され、窮したのは私の方だ。しかもまさか鼻に大根とは。
「よくぞ死なぬものだな…」
「比喩ですから。というより、いきなり何でそんなこと知りたいと思ったんですか」
「なぜと言われても、お前の答えられぬ事を知りたいのだ。それにどうせ、近い内に縁談が纏まるのだろうし」
「…縁談のこと、ご存知でしたか」
「当たり前だ。それより、お前の答えられない事は無いのか。お前の知らぬことや、出来ぬことは」
「買い被りすぎですよ、俺に出来ないことなんて山ほどありますって」
佐助は苦い顔で笑いながら言った。
「でもお前は昔から、木には登れたし天気は予期できたし、空だって飛べただろう」
「それはまあ…忍なので」
「今すぐ雨雲を散らして見せよと言っても、どうせ出来るのだろう」
「姫様がお望みなら、忍術で風を起こせば」
やりますか?と尋ねる佐助に、しなくていい、と答えて、私は文机にうつ伏せた。
私が望めば、佐助はなんでもするという。多分、幸村が望んでも父が望んでも、なんでもするのだろう。
「佐助。もしも私の縁談の相手が、脂ぎった狸爺だったら、そいつを如何にかしてくれるか」
「大将の許可があって、尚且つ姫様のお望みとあらば」
「では私が命じれば、私を殺すことも出来るか、佐助」
「そりゃ出来ますけど、しませんよ」
「そうであろうな」
私はうつ伏せたまま手首を振り「もう良い、ご苦労だった」と佐助に告げた。
佐助はしばらくその場から身動きしなかったが、やがて「じゃ、失礼します」と言った。
佐助が出来ると言う事の中には、虚言もあるかもしれない。見栄を張って言った事もあるかもしれない。
だが奴の口から出ると、全てが可能な事に思える。奴が予見する事は、全て起こりそうに思える。
腹立たしくて悔しくて、私は去り行く佐助の背中へ向けて言葉をぶつけてやった。
「あんぽ柿め、雀に食われてしまえ。熟しすぎて腐り落ちてしまえ」
「…えーとそれ、もしかして俺の陰口ですか」
「そうだ、この渋柿め。私は悔しいのだぞ、陰口くらい叩かせろ。または悔しかったら私を殴ってみろ」
「いや出来ませんって」
私は身を起こした。いま奴は「出来ない」と言っただろうか。
「出来ぬか」
「そら出来ませんよ、大将の娘さんに」
「なんだそういう理由か、つまらんな。それは出来ぬのではなく許されぬの間違いだろう」
「同じ事でしょう」
「違う!まったく違う!私は、お前がしたいと思っても出来ない事を知りたいのだ。
答えたいと思っても言葉を知らぬ事を知りたいのだから、違う!」
佐助はまた困った様に笑って、「今度は美味そうな柿でも持ってきますね」と言った。
騙されるものか、この柿男め。私は佐助の着物の端を掴んで食い止める。
佐助は「姫様」と呼び掛けてくるが、手を外そうとはしない。迷惑だろうに。
さっさと振りほどいてしまえばいいのに、なぜそれをしないのだろう。
ああそうか、佐助は私に触れられないのか、と気付いた時には、もう遅かった。
何の因果か滝のように涙が溢れてくる。佐助はただ困った様に、立っているだけだ。
(望んで触れないのか、望んでも触れられないのか、どちらかは知らないけれど)
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花束
が風邪を引いた。
それを聞いてからずっと心はに向かっていたわけだけど、授業があったので駆け出してしまうわけにはいかなかった。
午前の授業が終わって、昼飯を食って、午後の授業を乗り切って、その間ずっと空席になっているのための場所を見つめていた。
何てことない風邪なんだろう、『生きてる?』と送ったメールには、『生きてるよ失礼な』という
多少むくれた様子の返事があった。『俺様お見舞い行ったげるよ何か欲しいもんある?』と続けて送信して、
『なんも要らないからノート見せて』と返ってきたときには俺のノートは純白だった。
だってのことが心配で板書を写す気力なんて無かったもんだから。
あらま、どうしよう。そう呟いて、旦那に視線を遣る。ミミズのような字が這っている紙面が見えたので、
あれ解読して写せばいいか、と俺は自分を納得させた。
旦那、『昔』はそれなりに綺麗な字を書いてたはずなのに。変な感じ。
俺にとっての『昔』というのは何もこの体がちみっこかった頃だけを指しているのではない。
それよりもっともっと時間を遡った、所謂『前世』と呼ばれる時点を意味していることが多い。
この体に生まれてから、戦場や古城の光景はじわりじわりとインクのように俺の頭のどこかから滲み出してきて、
この体に生まれてから初めて出会ったはずの人たちと奇妙な関連付けをした。
旦那は、『旦那』。大将は『大将』。そしては、俺の『お姫さま』。
その姿は『昔』とそっくりだけど、きっとは何も憶えていない。それどころか旦那や大将だって、
どっから見ても『昔』のままだが、何ひとつ憶えていやしない。
なぜだか俺だけが『昔』の記憶を引き継いでいる。忍の因果か、
そのわりにはかすがだって何も憶えていないわけだけど。
授業が終わって、それこそ忍のような瞬発力で自転車に跨って、それからの家へ向かう。それはつまり大将の家へ向かうということだ。
本当に何の因果か、俺のお姫さまはまたしてもその名字に“武田”を頂いている。
だけどそれはもう、今ではただの識別記号でしかない。は大将の娘さんだけど、俺はもう縛られた忍じゃない。だから今では自分からに触ることだって出来る。の機嫌が良ければ、の話だが。
は昔と変わらず、どこか素っ気無くてどこか男らしくて、それはさっきのメールの履歴からも
窺えると思う。だから時に他人は『前世で相当に威張り散らしていた名残りなんだろう』と笑う。
そういうとき、俺は『やあ、あんた鋭いね』と言ってやる。威張り散らしてはなかったが、
なんたって本物のお姫さま、オーラがあって当然ってところだ。
途中でコンビニに寄って、が喜びそうなものを土産に買い揃えて、それからは全速力でペダルを踏み込む。
なにを必死になっているんだ、と、笑いたければ笑えばいい。ただ俺はもうに会いたくて会いたくて、『昔』からずっと会いたいと思っていたもんだから、
一日だって姿が見られないのは死刑にも等しい。
やがて、広大な敷地に立つ懐かしい趣の日本家屋に辿り着き、俺は自転車を乗り捨てた。
玄関の引き戸を開け、脱いだ靴は丁寧に揃えて置いて、の部屋を目指す。そうだ、『昔』もこうして見舞いに行ったことがあったけな。
そんな感傷に浸りながら首だけを室内に突っ込み、様子を窺うと、小さな寝息が聞こえた。
物音を立てないようにの部屋に侵入し、ベッドサイドに腰掛けた。
起きてよ、お姫さま。こうやって寝顔を眺められるのも幸せだけど、俺は欲深い性格だから、
風邪で変になってるとしてもその声が聞きたいんだよ。
願いが通じたのか、は小さく身じろぎをする。
よーし起きろ、そのまま、起きて俺をその目に映しておくれ!なーんて。
「……………」
「おはよー、」
「……………」
「あっ、いま、俺のこと『変態渋柿野郎』とか思ったろ!?」
「お、思ってない」
「いーやうそだね、その顔は確実に俺を罵ったね」
顔を背けて誤魔化すに、土産の中から梅味ののど飴をちらつかせる。しばらくはそれさえも無視していただが、結局は俺の手から奪い取った。目の前にぶら下げられると気になるってもんだろう。
まるでネコじゃらしに飛びつく猫のようだ。
受け取ったあとでそれが何なのか認識したらしいは、包装を剥がして琥珀色の飴玉を口に放り込む。独特の匂いがして、
だけど嫌な匂いじゃなくて、「いっこちょーだい」と言うと「ん、」と気前良く渡してくれた。
「この飴さあ、無性に食べたくなるときがあるんだよね。も好きっしょ?」
「知ってたの?」
「そりゃあんた、俺様の大事なお姫さまのことですから!」
は瞬間ポカンとして、それから旦那のように顔を真っ赤にすると俺の手の甲を抓った。
いってぇ!と悲鳴を上げてしまうほど容赦ない攻撃だけど、が自分から触ってきてくれることは稀なので、実は嬉しい。なんて言ったら変態くさいか?
「ノートあるから、置いとくな。用に作ったやつだからずっと持ってていいよ。あ、アイス溶けるから冷凍庫入れてくるけど、
ついでに何か持ってくるもんある?何なら着替えとかでも手伝っちゃうけど」
「帰れ変態!おとーさーーーん!」
「大将ならお留守ですよー残念でした!」
えっへっへと笑いながら立ち上がると、は頭から布団を被って亀のように隠れてしまった。すると布団の中から、
くぐもった咳が微かに聞こえてくる。おっとやばい、調子に乗りすぎたかな。
反省した俺は手際良く動き、冷蔵庫からスポーツドリンクをボトルごと持ち出した。
もちろん、アイスを仕舞うことも、タオルを調達することも忘れない。
部屋に戻ると、は待っていたように腕を差し出してきた。そこにマグカップを握らせ、
うっすら汗ばんだ額を拭いてやる。
「もう死ぬかも。そしたら佐助、どうする?」
「やめてよそういうこと言うの。死なないよ、ぜってー死なせない」
俺がそう言うと、は数回瞬きをして、口の端だけで少し笑った。
「なんか、佐助が言うと、ぜったい的中する気がする」
「…そらどーも」
「ねえ、“明日には治る”って言ってよ。そしたら治るかもしれない」
「…………そーやってさぁ、あんまり期待されすぎちゃうと、プレッシャーなんだけどなあ」
まったく、『昔』から俺を困らせることばかり画策していたお姫さまは健在だよ。
苦笑いをして、少し寝癖のついたの髪を撫でる。ああこうやって、無造作にきみに触れることができる日が来るなんて、
『昔』の俺が知ったらなんて言うだろう。いや、きっと何も言わないだろう。何も言わず、ただ
仕事に打ち込んだかもしれない。
「治るよ。は明日には元気になって、俺様と一緒に授業を受けて、旦那の世話を焼いて。
そんで、放課後はなにしよっか、明日も多分晴れるから、散歩でもしながら帰る?」
「スーパー寄らなきゃ、明日、特売日だから」
「あのねー、もちっと色気あること言ってくんない?」
「じゃあ、ケーキ食べて、それからスーパー行く」
「はいはい、お姫さまののお望み通りに!」
しばらくそうして髪を撫でていると、その内には眠ってしまった。そろそろ旦那が帰路につく頃だろうか、名残惜しいけれど、
俺もそろそろ日常に戻らなければ。最後にその額へと唇を掠めさせて、立ち上がる。
「おやすみ、」
また明日も、こうしてきみの名前を呼ぶことができますように。
(あの頃いちばん望んだことは、貴女に触れること、貴女の名を呼ぶこと。ただそれだけ)
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