政宗はサックス奏者で、は要するに常連客である。


And



最初の邂逅は半年前、金曜日の深夜、今と同じ公園の噴水の前で。
その時のは残業をたっぷりこなした帰りで、飲み会後だったりデート中だったりする見ず知らずの通行人たちに呪詛を唱えながら足早に駅へ向かっていた。 とにかく一刻も早く帰りたくて、時間短縮のために公園を突っ切るコースを取った。カップルばかりで居た堪れない気分になろうとも構わなかったし、 むしろ二人の世界に入り込んでいる目の前を歩いて、彼らの雰囲気をぶち壊しにしてやろうとさえ思った。
それほど気分がやさぐれていたのである。

コツコツとヒールを鳴らして歩いたが、公園内は予測していたよりも閑散としていた。それが余計にを惨めな気分にさせて、神様か仏様に意地の悪いことを考えたお仕置きをされているのではないか、などと考えてしまうほどだった。
しばらく歩くと、不意に耳が金管楽器の音を捉えた。に音楽の専門知識は無かったので、それが何の楽器なのかは分からなかった。トランペットかその仲間あたりだろう、という程度が精々関の山である。

普段ならベンチか外灯の下でいちゃついていただろうカップルたちは、その音の発信源に集まっていた。
もそこへ近寄ってみた。噴水を背景に、縦に細長い金色の楽器を若い男が演奏していた。楽器はトランペットではない、ということは分かったが、それだけだった。
男の髪は右側に向かって少し長めになっていて、片目を隠すかのようだった。均整のとれた細身にシンプルな服を着ていて、飾り気はない。 それでも、首のストラップに繋がる金色の楽器そのものが、まるで彼の装飾品のようだった。

彼の演奏が巧いのかどうかは、やはり知識のないには分からなかった。とりあえず不自然に音が跳んだり揺れたりはしたいのだから、下手ではないのだろうと思った。 そうでなければ、こんなにたくさんの人が集まるはずないだろう、とも。
彼は隠れていない方の目を瞑って楽器に息を吹き込んでいた。細くて長い指は忙しなく動き、逐一追いかけようとすれば目が回りそうだった。には音楽の巧拙は分からないし、彼が演奏している曲名もジャンルも分からないが、その音色にはただ聞き惚れるしかなかった。

あっという間に演奏は終わり、深夜の公園に控えめな拍手が響いた。彼は不敵に笑って、わざとらしいほど恭しい礼をした。 周囲のカップルたちがまばらに解散していく中、はぼんやりと立ち尽くしていた。今夜はもうお開きなのだろうか、まだ演奏するのだろうか、もしそうなら、もう1曲くらい聴いていきたいのだが。
おいアンタ、と声を掛けられたのはその時である。聴衆が自分ひとりしか残っていないことに初めて気付き、はハッと声の主を見た。そこには金色の楽器を下げた男。

 ―もう終いにするつもりだったが、しょうがねえ、特別にアンタのリクエストに応えてやる。

彼はそう言って、楽器を軽く持ち上げてみせた。
当然、は焦った。なにせ音楽の知識も無ければ、目の前の楽器の名前も知らないのだ。しどろもどろな返答をしていると、彼は眉を顰めて、なんだよハッキリ言え聞こえねぇ、とを睨んだ。低くかすれた声はまさに彼のイメージ通りで、けれども喋り方はイメージ以上に粗雑だった。

 ―ごめんなさい私あまり詳しいことは分からなくて、リクエストがあるから残ってたわけじゃなくて、
 ―あなたがもし、まだ演奏するなら聞きたいなと、思っただけで、…

思い返せば、早口でそんなことを捲し立てた気がする。彼はの言葉に驚いた様子で、隠れていない方の目を大きく開いて瞬かせた。そうして猫のように目を細めて笑って、何も言わずに楽器を構えた。
公園に再び響く音色。先程まで演奏していたものよりアップテンポで、若さのある曲だった。先程までのが恋人たちのためのムーディな曲だとしたら、これはを励ますような曲だった。ささくれた気分に染み渡って、次第に高揚感へと変わるような。元気出せよと、言われているような。

曲が終わるまで、やはりは口を半開きにして聞き惚れていた。



All



それから色々な話をして、まともな返答だったり投げやりな返答だったりを貰った。
まともな返答が貰える質問は“歳はいくつか?”“仕事で演奏しているのか?”“この近くに住んでいるのか?”
の類ではない。がそう尋ねても、面倒くさそうに曖昧な言葉で濁されるだけだった。まともに答えてくれるのは楽器のことについてだけだった。 彼の楽器はサクソフォーンというもので、金管楽器ではないらしい。あんなに金ぴかなのに木管だというのはにはいまいち理解できない次元の話である。アルトだとかテナーだとか分類も事細かに語られたが、聞いた傍から忘れてしまった。

は次の週もやっぱり残業にまみれて疲れきっていて、ふと彼のことを思い出して公園を通ると、楽器の音がした。 先週とは違うカップルたちの中、一番後ろの列で立ち尽くして音を聞いた。5分か10分かして1曲終わると他の聴衆は解散してしまう。 もったいないことだ、とは思った。“上手かったね”だのと雑談するくらいなら、もう少し聞いていけばいいのに、と思った。

おいアンタ、と、同じ調子で声を掛けられた。ちったぁ勉強して来たのか、と言われたので、素直に首を振った。 何の曲が聞きたいというわけでもない、ただ彼の演奏する音を聞きたかった。彼は了解したように楽器を構えた。 演奏してくれるのは、やはりアップテンポの、元気の出る曲だった。ジャズというのか、スウィングというのか、にはテレビから聞こえてくる程度の知識しか無い。

彼は演奏することでチップを集めていたわけではなかった。ただ純粋に楽器を吹いていただけだが、は彼に缶コーヒーを奢った。ベンチに座ると音楽についてのご高説を頂いたが、やはり覚えられそうになかった。
だから今度はが質問をした。いつもここで演奏しているのか・いつからそうしているのか・何曲のレパートリーがあるのか。

 ―まあ、そんなようなもんだ

だが、ほとんどはそう言い返されて会話が終わった。ただひとつ得たことは彼の名前が政宗だということのみだった。 どこの政宗なのか聞いても教えてくれず、が仕事用の名刺を渡してフルネームを教えても、それには一瞥もくれずに仕舞ってしまった。
恋人たちが占領する予定だったはずのベンチで、意味があるのかどうかすら分からない言葉の応酬をする。それはとても、楽しい時間だった。

は毎週金曜日に公園へ通っていたわけではなかった。残業が無ければ早くに帰ったし、わざわざ遅い時間まで彼の音楽を待つほどの余裕は、の生活には無かった。それでも、少し遅くなると、彼の来る時間まで粘ってしまうようにはなったかもしれない。
最初の邂逅から数ヶ月経っても、はやはり彼のことを“政宗”としか知らず、昼間なにをしているのか、プロの演奏者になるのかなりたいのか、何一つ知ってはいなかった。

 ―留学とかしないの?きっと世界でトップになれるのに、この公園でしか演奏しないなんて、もったいない

ある日の演奏後、がそう言うと、今度は政宗は誤魔化すような言い方はせず、妙に真面目な顔つきでを見た。

 ―No,I'm no one's wife,But,I love my life

歌うような調子で、綺麗な発音の英語が紡がれる。なにそれ?とは思わず聞き返してしまった。
そりゃあ政宗は男だから、ワイフにはなれないだろう。趣旨からずれたことを考えていると、政宗は解説するように再び口を開いた。 誰のものでもない、愛すべき自分の人生を生きているのだから、と。世界のためだとかで演奏をしているわけじゃない、ただ自分の人生に必要だから、楽器を手にしただけ。 彼の音楽を聞きたいというのなら、向こうから彼の人生に飛び込んで来ればいいだけのこと。

ひどい俺様っぷりだとは思った。最初の頃のクールで寡黙な演奏者という印象は会うたびに薄れていく。それでもは毎週末のように公園に来ては、金色の楽器が揺れるのを飽きることなく眺めていた。なぜならは、もう既に政宗の世界の中に飛び込んでしまっていたからだ。



That



最初の邂逅から半年後、仕事帰りの金曜深夜、いつもの公園の噴水の前で。
他の誰がいなくなってもはそこに残っていて、政宗と一緒に缶コーヒーを飲んで、ジャズについての話を聞いて、終電の時間になれば帰る、つもりだった。 だが今日は、立ち上がったの腕を政宗が掴んでいた。初めてのイレギュラーである。驚いたが、なに、と聞くと、政宗は不満そうな顔をした。

は5分後に迫った終電を逃せば帰宅出来なくなるのだ。しかし振りほどこうとしても離れない。何がしたいのか分からなかった。どうしてこうなった、とは内心で舌打ちをする。

政宗、終電の時間だから離してよ。がそう言っても、政宗はやはりお決まりの台詞を口にする。どうでもいいじゃねぇか、そんなもん。ちっとも良くない、とは言うが、政宗の様子は正に馬耳東風という感じだった。

 ―帰らせたくねぇっつってんだ、分かれよ

ひときわ強く腕を引かれ、の身体は大きく傾いだ。楽器を支える逞しい腕が腰を捉え、顔と顔は額がぶつかりそうなほどに近くて、すらりと伸びた彼のしなやかな指が顎を掴む。
は驚きのあまりに開いた口を閉じることもできず、ただ政宗を見つめ返した。は金色の楽器が奏でる彼の音楽が好きだ。演奏者らしい大きな手も、鋭い眼差しも好きだ。お互いにずっと、気付かないようにしてきたけれど。

もう電車はホームに入ってきている頃だろう。走ったって間に合わないに違いない。
やられた。呆然とするに、3ヶ月くらい前からずっと企んでいたのだと、彼は言った。低く囁く掠れた声はの大好きな声だった。が拒むことなんて想定もしていないだろう物言いに反抗したくなるが、彼と彼の声と音の前には無力だった。なぜならは、もう既に政宗の世界の中に飛び込んでしまっていたからだ。

は次に彼が何と言うだろうか、知っている。
いまさら恥じらいなんて、建前なんて、遠慮だなんて、

 ―どうでもいいじゃねぇか、そんなもん


Jazz!




「That jazz!」


















Chicago the musical "All That Jazz"