Chapitre I. Associe de destin -- 04
「ただいま」と声を掛けても返事は無く、家の中は真っ暗だった。は手探りでスイッチを探し、リビングの明かりを点ける。 食事用のテーブルの上には、母親から『お父さんと映画を見に行ってきます』という メモが置かれていた。どうやら両親はデート中らしい。 いつものパターン通りならお酒でも飲んで帰って来るはずだ。 いい年して、と呆れるのと同時に、羨ましくなる。 (いつかあたしも行ってみたいな…佐助先生と映画…) そんなことを考えていると、鞄の中で携帯電話が震えた。ハッと我に返ってそれを取り出し、開いてみれば、 受信メールの欄に『猿飛佐助』の名前が表示されている。“噂をすれば影”とでも言うべきタイミングの良さに、 まさか自分のヨコシマな妄想がバレたんじゃないか、と、は一瞬焦った。 『Sub:おつかれさま あさってからパティシエ仲間だね。 朝早くて慣れるまで大変だと思うけど、一緒にがんばろーな』 その文面を見るだけで、思わず笑顔になった。は深呼吸して、自分を落ち着かせながら『私のほうこそ、これから よろしくお願いします!』と佐助に返信する。携帯を閉じても、まだ心臓がドキドキしていた。 風呂に入りながらも、佐助のことが頭から離れない。 『一緒に頑張ろう』というのは、家庭教師初日に佐助がに言ってくれたのと同じだった。実際、佐助はとても熱心に勉強を教えてくれた。 そんな佐助に応えたくて、褒められたくて、も一生懸命勉強した。 だからきっと、今回も頑張れるような気がした。 5時半出勤は確かにキツイが、それだけ朝早くから佐助に会えると思えばつらくはない(はずだ)。 風呂から出て、は水を飲みながら『まつとかすがにはいつ話そう?』と考えた。 しかし、どうしてSANに入店することになったのか経緯を説明しようとすれば、必然的に 佐助のことにも触れなければならない。『今まで全部隠していたなんて!』と拗ねる かすがやまつを想像すると、知らず苦笑が零れた。 両親にどう説明すればいいのか考えていると、またもや携帯が震えた。 誰だろう?と思って開けば、そこには再び『猿飛佐助』の表示。はワクワクしながら決定ボタンを押した。 『Sub:おつかれさん いま仕事終わって駅向かってるとこ。 明日メシの前どっか行く?見たい映画あるんだっけ? ま、風呂上がったら電話するから、それまでに考えといてよ』 違う と思った。 それは明らかにに宛てた文面ではなかった。 よりもっと親密な相手、例えばそう、恋人への文面だった。 どうしよう、とは混乱した。『宛先間違えてますよ』とでも返信した方が良いのだろうか? それとも、佐助が気付くまで黙っていたほうが良いのだろうか?間違えて送ってきたのは 佐助だが、まるでが佐助の日常を覗き見してしまったような、後ろめたい気分になる。 それと同時に、『やっぱり相手は、彼女?』という気持ちにも。 結局は何も行動できないまま、両親が帰って来てもずっと布団の中でやきもきしていた。 そして真夜中をとうに過ぎてから眠りに落ち、朝起きれば、また佐助からメールが届いていた。 『Sub:ごめん! ゆうべは間違いメール送っちゃってごめん! 気付いたのが夜中で、寝てたら悪いと思ってすぐに謝れなくて…ほんとにごめん!』 別に夜中でも、どうせ起きていたのだ。 朝食兼昼食にパンをかじりながら時計を見上げ、「今ごろ映画でも見てるのかな…」と憂鬱になった。 何をどうやって返信したものだろうか。 彼女宛というところに触れるべきか・触れないべきか。どっちが自然か・不自然か。 そんなことを考えていたら、の休日はあっという間に終わってしまっていた。 自宅から二駅先の店へ5時半出勤、ということは、身支度に30〜40分はかかるとして、 ギリギリまで寝ても4時半には起きなければならないだろう。 『Sub:Re;ごめん! 返信遅くなってごめんなさい。 大丈夫だよー先生、気にしないで。よくある(?)ことだよー。』 5時半。そんなに早い時間から、佐助に会わなければならないのだ。 # 「ねぇちゃん!」 翌日、いつきはアイスグレーのおさげ髪をゆらゆらと揺らしながら駆けて寄って来た。 は凭れ掛かっていた店の壁から身体を離し、手を振って返事をする。 5時半という時間のせいで、目の前の道路を走っている車は無い。 「ずいぶん待っただか!?おらが鍵持ってるのに、すまねぇだ!」 「いえ、大丈夫です。いま来たばかりでした。……他の方は?」 「この時間に来るのはおらだけだべ!一番ペーペーだもんで、兄ちゃんたちが来る前に タオル洗ったり機械の電源入れたりするだよ!」 いつきはそう言って店の鍵を開け、二人はまだ無人の店内に入った。 すぐに、いつきはロッカールームへ走って行く。もそちらへ向かおうとしたが、いつきが新しい調理着を持って戻ってくる方が早かった。 「これ、ねぇちゃんのだ!更衣室がないもんで、おなごはトイレで着替えなきゃなんねぇんだけども」 「あ。ありがとうございます…」 はその調理着を受け取り、眺めた。 浮かない表情に気付いたのか、いつきは「ムカついただか?」と焦ったように尋ねてくる。 「ムカついてないですよ!」と慌てて否定して、は笑顔を取り繕った。 いつきは不思議そうにを見上げていたが、やがて「う〜」と頭を抱え込んでしまった。 どうしたのかと覗き込もうとすると、パッと顔を上げてを見る。 「なんか、自分がキモいだよ…“です”とか“ます”とか言われると痒くなるだ!“米田さん”ってのも 言われたことねぇから馴染まねぇし、呼び捨てとか、もっとさげすんだ感じにしてほしいだ!」 「え、じゃあ…いつき、さん?」 「もうひとこえ!」 「…いつきちゃん?」 愛称で呼ぶのと蔑んで呼ぶのとは別物だが、いつもの間違いなのだろう、とは思うことにした。 “いつきちゃん”の呼び名が気に入ったらしく、いつきは「それがいいだ!」とニコニコ笑う。 「で、でもいいのかな…私の方が後輩なのに…」 「構わねぇだ!おらよりねぇちゃんの方がトシマじゃねぇか!」 「いつき殿、それを言うなら“年上”でござる」 ふたりの会話に突然幸村の声が割り込んできて、といつきは揃って振り向いた。見れば、首をコキリと鳴らしながら 店の入り口に立っている幸村の姿。「“トシマ”は敬語じゃねぇだか?」といつきが尋ねれば、 幸村は「むしろ逆の意味だ」と頷く。その後頭部には一段と激しい寝癖がついていた。 「殿」 「はいっ?」 「今日はひとまず開店までの流れを見ていて頂きたい。明日からはいつき殿と共に 開店準備を手伝って頂く」 「はい、分かりました」 幸村はそれだけ言うと、ロッカールームに入って行く。 も、着替えのためにいつきと並んで女子トイレに向かった。 『明日』 しかしこの調理着を着る自分は、今日だけかもしれない。 着替えを済ませ、空のショーケースを眺めながら、はそう思った。自分は、ここで何をしようとしているのだろう?の夢は結婚だ。運命の人と結婚して、50歳を過ぎても手を繋いでデートするような、 両親のような結婚をすることが夢なのだ。かすがやまつに「それは野望とは言わない」と言われようとも、 しかしが一番叶えたいことは、それしか無いのだ。お菓子作りはあくまで趣味。 佐助に再会しなければ、パティシエになんてなろうと思うことさえ無かっただろう。 「おはよー、ちゃん。早起き辛かった?」 「うん、ちょっとだけ…でも大丈夫」 「そう?あ、おとといのメール!ごめんねぇ、ほんと、マヌケなことしちゃって…」 出勤してきて早々に声を掛けてくれる佐助に、は「ううん平気」と首を振った。自分では笑っているつもりなのだが、 もしかしたら強張ってしまっているかもしれない。 そんなの心境にはちっとも構わず、佐助は顔をぐっと近寄せると、のコック帽のずれを少し直す。 「サマになってるじゃん」と笑う顔が間近に見えて、は心臓が止まるかと思った。 無理だ。 ここで毎日佐助と顔を合わせて働くのは、無理だ。 赤くなった顔を感じながら、は俯いて手を握り締めた。佐助の、今のような何気ない仕草のひとつひとつに 動揺して・舞い上がって、その一方では「彼女が居るんじゃ」と不安に苛まされて、 そんな調子でしっかりと仕事が出来るわけがない。 スーパーの仕事を見つけよう。 いきなり正社員は難しくても、レジのパートくらいならすぐに見つかるはず。 スポンジにクリームを塗りつける幸村を眺めながら、は悔しさに唇を引き結ぶ。もし「辞めます」と言ったら、 「やはり女は根性なしで使えない」とでも思われることだろう。しかしは、思いたければ思え!と開き直ってしまいたい心境だった。 自分のことを、本当はきちんと働ける人間だと思っている。けれど、恋愛という慣れないものが 絡んだ途端に「根性なしで使えないバカ女」になってしまうのだ。 仕方ないじゃないか。何が悪いというのだ。真田め!真田め!!というの心の中での文句はもはや定型句になりつつあった。 厨房には、各々が作業に集中する音しか聞こえない。 いつきは見ているだけで腕が重くなりそうなほどのカスタードクリームを混ぜていて、 佐助はほぼ出来上がったケーキに仕上げのクリームを乗せている。「Excuse me」と言われて 振り返れば、トレイを持った政宗が大量のマルジョレーヌを持っていた。 そうして、ショーケースに今日の完成第一号が並ぶ。 再び厨房に目を戻せば、今度は元親がクリームを詰めたばかりのシュークリームを持って 通って行く。マルジョレーヌを並べ終えた政宗はスライスしたリンゴを並べていて、 幸村はフレジエを切り分けていた。同時にオーブンが焼き上がりのアラームを鳴らしたので近付いてみれば、 ガトーショコラが5ホール分ほど焼けていた。の家のオーブンでは1ホールだけでスペースが一杯になってしまうだろうという大きさである。 クレームカラメル、タルトフレーズ、タルトココ、ブロワ、ミルフィーユフレーズ… あっという間に、ショーケースはそれらのケーキで埋め尽くされ、開店を待つばかりとなった。 プロの仕事を見ていると、自分のお菓子作りがまるでおままごとのようだとさえ思う。 「ちゃん、立ちっ放しでしんどくない?」 いつの間にか、感動していたの背後には佐助が立っていた。 は「全然!」と答えながら振り向く。 「そう?退屈じゃない?」 「ちっとも!どんどん出来上がってくのが楽しくて、見ててもちっとも飽きないよ!」 「なら見てるだけじゃなくて、やりたくなってきたっしょ?」 「うん!」 笑顔で即答して、は“即答することができた自分”に驚いた。 さっきまであんなに、『辞めよう』『スーパーの仕事を探そう』と考えていたはずなのに? なぜだろう、と考え込んで、不意に思った。 自分は本当に、10年間佐助に恋をしていたんだろうか? 10年間の内、佐助を想って眠れない夜が一体どれだけあっただろう。 彼氏が出来なかったのは、本当にそれが原因なんだろうか。 かすがに“乙女”だと揶揄されながらも結婚についての夢を語った日、 たまたまその日に佐助からメールが来て、運命を感じたような気になっているだけなんじゃないだろうか。 「―――ね、佐助先生。 おとといの間違いメールって…彼女宛でしょ」 「ん、まあ……暗い中歩きながらだったせいか、ねぇ…」 佐助はバツの悪そうな表情で頬を掻き、「ほんと恥ずかしい事しちゃったよなぁ」と苦笑する。 “彼女”という言葉を声に出してみても、照れ笑いをする佐助を前にしても、思っていたほどつらくはなかった。 運命の相手は、既に彼女が居る佐助じゃない。 けれどがここに立っているのも偶然ではなく、運命の導きがあったのではないかとも思う。 だとしたら。 だとしたらにとっての運命の相手はこの店、『パティスリーSAN』そのもの、だったのかも、しれない。 # 「―――そんな風に思えちゃって、 SANでパティシエ見習いを続けることにしました!」 「まあ…!驚きましたけれど、でも、らしいですわね!」 次の休日に、前田家にかすがを呼び、SANの焼菓子を土産にはそう言って報告をした。 予想通り佐助のことは「隠していたなんて水臭い!」と言われはしたものの、 まつもかすがもの再出発を喜んでくれているようだった。 「それは分かったが、、なぜそこで諦めるんだ?別に諦める必要は無いだろう」 「え?」 「恋人が居るくらい何だ。あのな、世の中の恋人同士というものは大半が別れるぞ。は経験が無いから『運命の相手とは絶対だ』と思うのかもしれないが、 『こいつがそうかもしれない』と思って付き合ってみても、やはり違った、ということはざらにある話だ」 かすがはそう言い、フィナンシェをむしゃむしゃ食べる。 「“恋人が居る”ということが必ずしも“うまくいっている”と等号で結びつくわけじゃない。 まだ結婚してなくて運が良かった、とでも思っていれば良いだろう?」 「…そうですわね、どうせなら恋をしていた方が、仕事にもハリが生まれるのでは?」 その言葉に、何かしぼんだはずのものが、の中で最高級のシュー皮のように膨らんでいった。 “結婚してなくてラッキー!”という文字での頭の中が一杯になっていく。もし佐助が彼女と別れたりすることになったら。 そのとき、もし気を落とす佐助を支えることができたら。そうして佐助が、近くに居るの存在に目を向けてくれたら。 「………ラ、ラッキーだったのかも…!!」 かすがは「そうだろう」とでも言いたげな、不敵な表情で微笑んだ。 明日からまた、の『SAN』での日々が始まる。 ← SAN Entree → |