Chapitre II. mariage et enterrementn -- 02

「……アイツ今ごろ飛行機ん中かー…」
「新幹線だろ?飛行機乗れねぇんだからよ」


翌日、幸村の居ないSANのキッチンで元親はどこか上空を見上げながら“飛行機…”と呟いた。 聞いた話によれば元親は乗り物、というか、メカ好きなのだという。その横で政宗がすかさず否定の 言葉を入れ、は思わず「そうなんですか?」と聞いた。幸村が飛行機に乗れないとは初耳だ。


「そ。フランスに研修行った帰り、飛行機が乱気流に巻き込まれてすんげー揺れたんだって。 それ以来恐怖症」
「だからアイツの絶叫マシーン好きって矛盾してんだよなぁ」


佐助の説明を受けて元親が不思議そうに言い、も「そうですねぇ」と同意した。
そういえば最初に幸村と会ったとき、彼はジェットコースターに乗ったショックで熱を出していたのだった。
そこで政宗は何かを思い出したらしく、ニヤッと笑いながら佐助を振り返った。


「なぁ、あいつこの店の名前『パティスリー真田』にしようとしてたんだろ?」
「そうそうよく知ってんね。俺が旦那に『店を出すから』って誘われたときの話でさ、 まぁ製菓学校時代のよしみで誘われたんだけど、外観とか内装は全部『佐助に任せる』の一言だったくせに 妙にこだわってたのが厨房の使い勝手…これは当然として、それからあとは店の名前だったね」


佐助は懐かしそうに話し出した。少し手を休めて、もその話に聞き入った。


「“パティスリー真田”がダメならローマ字で“パティスリーSANADA”にするって聞かなくてさ。 でもそれじゃ若い女の子とかに敬遠されちゃいそうじゃん?もっとフランス語っぽい感じにすれば?って 言ったんだけど」
「どうしても名前を入れたいって駄々捏ねたんだろ?」
「何でかねぇ…結局、折衷案で“SAN”に落ち着いたわけ。“サナダ”の一部だし、なんかこう英語の『sun』 っぽくていいんじゃない?ってことでさ」


といつきは声を揃えて「へぇー」と感心した。
と、そこで、今度は元親が首を傾げて「でも変じゃねぇか?」と言い出す。


「アイツ、普段表に出たがらねぇだろ?いつだったか、美味いもん食わしてもらった礼を直接シェフにさせてくれって、 なんか金持ちそうなオバチャン客が来たとき、厨房から出るの滅茶苦茶イヤがったじゃねぇか」
「苦手なんだ、っつってたか?確かに、店に自分の名前つけたがる奴の言い分じゃねぇよなァ」
「だよねー、しかも結局俺が代わりに出さされたし!」


政宗、元親、佐助は「意味わかんねぇー」と笑う。 アッヒャッヒャとでも聞こえてきそうな笑い声の背景には幸村に対する親しみや信頼感があるように、は思った。





その日も、その次の日も、は閉店後に居残ってプレートを書く練習をしていた。
佐助は「心配だから帰ったら連絡ちょうだい」と言い残して少し前に店を後にした。 しん、と静まり返った厨房でひとりチョコペンを手にしていると、どうしても佐助のことが頭に浮かんでしまう。 『最近なにかと物騒だからね』と、さり気なく気遣ってくれたことが、とても嬉しい。
嬉しい、けれど、佐助には恋人が居るのだ。に対する気遣いはあくまで“元・教え子”に対するもの。女として特別に扱われているわけではないし、 そもそも佐助は元から優しくて気遣いのできる人なのだ。

分かっていても、つい期待してしまう。
一度深呼吸をして、はチョコペンを握りなおした。 まずはいつきのように上手なメッセージプレートを書けるようになるところから、店に貢献していきたい。 プレートに、“お誕生日”の“お”の文字を慎重に絞り出す。

そのとき突然、ガチャリと音がして厨房の扉が開いた。

思わず身体がビクッと反応してしまったせいで、書きかけの“お”の点の部分が ひどく大きくなってしまった。誰だろう、と顔を上げたの目には、同じく驚いたような顔の幸村が映った。


―――シェフ!いま帰られたんですか?」
「あ、ああ…殿は、何を…」
「メッセージプレートの練習を…いつきちゃんみたいに上手に書けるようになりたいと思って、」


いつものラフな私服ではなく、スーツを着込んだ幸村にの声が止まった。
スーツの色は黒、ワイシャツは白、そこまでは普通だ。しかしなぜか、幸村はネクタイまでも黒で揃えていた。


「あの、シェフ……余計なお世話かもしれませんが、それじゃ結婚式じゃなくてお葬式の恰好ですよ…?」


不恰好になってしまったのプレートを覗き込んでいた幸村は、その言葉に少し顔を上げた。
そして、口の端だけでふっと笑う。

何かを嘲るようなその表情に、は「まさか」と思った。
幸村のこの服は。飲み会のときの、あの電話は。もしかして…


――続けて下され。某で良ければ、ご指導いたそう」


すぐに何でもなかったような顔をして、幸村はの書きかけのプレートを指差した。は「はい」と答えながらも、モヤモヤした気持ちが晴れなかった。 本当に、ただの非常識な人、なんだろうか?









家に戻ると、の両親はリビングでチークダンスをしていた。
どうもお酒が入って、上機嫌になったらしい。は内心「げっ」と呟いて、自室に避難する。それからすぐに着替えを準備して浴室に逃げ込むと、 なんだか一気に疲れたような気がした。

あれは何だったのだろう?
雑誌を読みながら半身浴をしていても、あの時の幸村の表情が頭の片隅にずっと残っていた。 見間違いでは無かった、と思う。の軽口に怒ったわけでもない、と思う。

けれどひとりで考え込んでいても、答えは見つからない。 潔く忘れてしまおう、と決意して、は頭から勢いよくシャワーを浴びた。



風呂から上がると、の携帯には佐助からのメールが2件も届いていた。
まさかまた恋人宛てなのでは…と恐る恐る決定ボタンを押すと、画面には『ちゃんまだ店に居んの?もう結構な時間だけど…』という文面が表示された。 しまった!とは顔を蒼くする。幸村の不可解な態度に惑わされ、佐助に連絡するのをすっかり忘れていた。
は慌ててアドレス帳から佐助の番号を選び、通話ボタンを押す。


――せ、先生!?ごめんなさい、連絡遅くなっちゃって…」
『あ、ちゃん?良かったーいま電話かけてみようかと思ってたとこだったんだわ』
「うん…あの、ちょっと、バタバタしてて…本当にごめんなさい!」
『いーよいーよ、無事なんでしょ?』


佐助の優しい声色を聞いているとは申し訳無くなってきた。バタバタしていたのも本当だが、 実際は長風呂とパックに大部分の時間を割いていたからだ。そしてやはり、自分が特別扱い されているような錯覚を感じてしまいそうになる。
恋愛に不慣れなだから、そう感じてしまうのだろうか。「いっそ恋人以外には冷たい人だったら良かったのに」と 思いながら、は顔に貼りつけたパックのシートを剥がした。




翌日から、幸村は勤務に戻って来た。
不在の間、特に変わったことは無かったことの報告などがされたあとは、も通常の仕事に戻る。午前は販売、そして午後は厨房でスタッフのアシスタントだ。

透明なフィルムを手にして、ケーキの外周に巻きつけていく作業は、思っていたより神経を使う。 美しく仕上げられたケーキを崩さないように、と思っていると、どうしても全身が強張ってしまう。 横から覗き込んだ佐助が「もうちょいピッタリ目に」と指示をしてくれるのだが、 力を入れすぎて潰してしまったら、と思うとヒヤヒヤする。


「先生、こんな感じ?」
「あー……うん、ま、そんなもんじゃない?」


いくらか譲歩したような佐助の言葉に、は「ダメだったら直すから言ってね」と言うのだが、佐助は「それでいいよ」と笑ったまま 自分の作業に戻ってしまった。本当に良いのだろうか、と思いながらはフィルム巻きを続け、終わった!と伸びをしたところで今度は幸村が後ろから覗き込んで来た。
彼はの仕上げたケーキたちをポイポイと2つに分類し、片方を指して「やり直しでござる」と言う。


「それではまだ緩い、もっとピッチリと……ああ今度は曲がっているでござる!」
「す、すみませ…」


幸村の厳しい監督の下、はフィルムを巻き直した。
彼はどうも、のことを器用だと思っていたらしい。「卵を分けるのは上手いと思ったのだが…」と 首を傾げる幸村に、「崩してしまいそうで怖いんですよ」とは少し言い訳した。


「それに卵を分けるのは家でお菓子を作る時にもしますけど…でも、フィルムを巻くのは したことが無くて…」
「それもそうでござるな」
「はい、剥がすばっかりで…それで、フィルムにクリームとかが残っちゃうと悲しくなるんですよね」


「フォークで掬って食べちゃいますけどね」とが笑って言うと、幸村もつられたのか上機嫌そうに「それは良いことを聞いた」と言う。 製作側からすれば、最後まで残さずに食べてくれることほど嬉しいことはない。 友人に差し入れすることも多いとしては、その心理はとてもよく分かった。


「では習うより慣れろということで、こちらもお願い致す」


幸村はまるで雑談のような流れで、新たなトレイをの前に置いた。 そこには形も様々なケーキがたくさん乗っている。思わず顔を引き攣らせるに構わず、幸村はニコリと笑っていつきの方へ去って行った。









「“先生”とやらは指導者には向かないタイプだな。誰にでも良い顔をして厳しくなりきれないんだろう。 その点、真田はしっかりしているみたいじゃないか」
「えええ…でも喪服で結婚式行ったかもしれない人だよ?」


次の休日、いつものように前田家に集まり、はまつとかすがに最近のSANでの出来事を話していた。


「しかし本当は葬式だったのかもしれないと言っていただろう?」
「それは…あたしが何となく思っただけだよ。だって嘘つく必要も無いと思わない?」
「さては真田殿、かつての恋人の結婚式にわざと喪服で行ったのでは!」


ハッと閃いた顔をしたまつは自信満々に言う。
主婦だから、というわけではないのだが、実は彼女は昼ドラ好きな一面を持っていたりする。


「いやがらせ、ってこと?…いやー…そこまで変な人じゃないと思うんだけどなぁ…」
「案外そうだったりしてな。男はいつまでも昔の恋人を『自分の物だ』と思い込む傾向があるという話は、 聞いたことが無いわけでもない」


面白がって便乗するかすがに「ちょっとぉ…」と反論するが、かすがはフムフムと 頷いていてには取り合ってくれなかった。
と、そこでまつが「結婚式といえば、」と思い出したように言い、戸棚を開けて中を漁り出す。


「濃先輩の結婚式が、ついに再来週ではありませぬか!」


まつが取り出したのは結婚式の招待状だった。
“濃先輩”というのは、かすが、まつの高校時代の先輩にあたる人物で、本名を斉藤帰蝶という。 キリッとした目鼻立ちの美人で、特にまつは彼女に惚れ込んでいた。 高校を卒業してからはめっきり連絡も取らなくなってしまっていたのに、 それでも結婚式に招待してくれた彼女の優しさが嬉しいやら驚くやらである。


「噂なんだが、新郎の織田信長というのは“オーディーコーナー”の経営者らしいぞ」
「えぇっ?本当?」


かすがが口にしたのは、日本全国にチェーン店を展開する大手パティスリーの名前だった。 まつは「のライバルですわね」と言って笑っているが、からすればライバルどころか雲の上の存在である。もし本当にオーディーコーナー経営者の 結婚式ならば、どんなウェディングケーキが出されるのか期待に胸が膨らむというものだった。


「でも……あたしも、早く運命の人と結婚したいなぁ…」
の両親は仲が良いから憧れるのは分かるが…ひとつ、聞いていいか?は結婚することとパティシエになること、どちらが優先なんだ?」


「え」と言葉に詰まるに追い討ちをかけるように、まつまでもが「優先順位をはっきりさせておいた方が良いのでは?」と言ってくる。 結婚したいのか、一人前のパティシエになりたいのか。かねてからの夢か、佐助と働ける現在か。

結局、うんうん唸りながら考えるの脳裏に浮かんだのは、「パティシエになって佐助と結婚する自分」というものだった。 そんな大それた“野望”を抱いたのは、生まれて初めてかもしれない。




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