Chapitre II. mariage et enterrementn -- 03

「……シェフ、何してるの?」
「しさくのしんさくちゅーだべ!」


厨房の隅で、ひとり泡だて器を握る幸村を眺めながらがぽつりと言うと、返って来たのは分かるようで分からないいつきの言葉だった。 思わず「ん?」と聞き返すと、フォローするように佐助が「新作の試作中だよ」と言った。 どうやら夏に向けての新商品を考えているらしい。

しばらくして、幸村は出来上がった新作を手にしてスタッフを集めた。 ヨーグルトムースの白とピスタチオの緑が鮮やかで、見た目には夏らしい、爽やかな印象である。
何でもいいので意見を言って欲しい、と幸村が言い、たちは切り分けられたケーキを早速口に運んだ。


――…如何か」
「美味しいだよ!」
「ああ、悪かねぇな」


いつきや元親が褒めても幸村はニコリともせず、今度は佐助に視線を向けた。 佐助は少し考えるような顔をしたあと、「…いいんじゃない?夏らしくて」と言う。
次に意見を求められるだろうは、内心で葛藤していた。美味しいことは美味しい。けれど、 他のケーキたちに比べて随分インパクトの無い味のような気がするのだ。言うべきか、言わざるべきか。


「…………殿は?」
「えっと、美味しいんですけど……何と言うか…全体的にちょっと、ぼんやりした味が…します…」


迷った末、は本心を告げた。本気で意見を求めているなら、嘘は吐かない方が良いと判断したのだ。 怒られるだろうか、とヒヤヒヤしながら上目遣いに幸村を見れば、彼は目を大きく開けてを見ている。


―――そうなのだ…何か新しい組み合わせを求めてヨーグルトと ピスタチオに挑んでみたがどうにもならず、何とかするには互いの味を相殺せねばならんかった…」


ダメだ怒られる、と覚悟を決めただが、予想に反して幸村はぽつりぽつりと呟くだけだった。
佐助も、政宗も、元親も、いつきも、みんな驚いた顔で幸村を見る。


「うむ、これではっきりした。某はスランプに陥ってしまい、新作を編み出す力が無い。 よって、皆から案を募集する!」
「はああああ!?」


は、こんなに堂々としたスランプ宣言を聞いたのは初めてだった。






その日の帰り道、ひとり思い悩んでいるらしい幸村は独りにした方が良いのだろうかと気を利かせ、は居残り練習を断念した。そうして、皆で駅への帰り道を歩く。


「シェフのスランプって、よくあることなの?」
「いやー初めてだね…でも意外と明日になれば直ってるかもしれないし、あんま気にしないでいいと思うよ」
「あたしが文句言ったのが悪かったとか、そういうことは…」
「それは無いから大丈夫。正直言うと俺もちょっと…微妙?とか思ったし」


ううん、と難しい顔をしながら佐助が言うと、元親たちも「実は俺も思ってた」と手を挙げる。


「でも何か…言い難くてなぁー…」
「おらもだ!けどもペーペーのくせにそんなこと、股が裂けても言えねぇだよ…」


いつきは“口が裂けても”と言いたいらしい。
どの居酒屋で飲み会をするか、ということにはガンガン主張していたのに、仕事のこととなると別物なのだろうか。 確かに幸村は店のオーナーシェフで、実力もあるのだろう。しかし仕事のことだからこそ、 思ったことは正直に言った方がお互いのためになるのではないだろうか、というのがの考えなのだが。

いつの間にか、政宗たちは「腹減った」と言いながらラーメン屋へ向かうことにしたらしい。 「ちゃんも行く?」と尋ねる佐助に「うん!」と返しながら、は考えた。せっかくだから、何か幸村をアッと驚かせるようなアイデアを提案してみたいじゃないか。
とは言え、はいつも本やインターネットを参考にしながらお菓子を作るので、オリジナルレシピを 持っているわけではない。幸村が失敗した“ヨーグルトとピスタチオ”という発想だって、なら絶対に出てこなかっただろう。

となると、何か外部からインスピレーションを受けるしかない。
“なにかヒントはないだろうか?”と内心で小首を傾げながら、ラーメンを受け取る。 チャーシューの横に添えられたナルトが、の視界に飛び込んだ。









「シェフ!新作なんですけど、ロールケーキはどうですか?」


翌日の朝一番に、は幸村に提案した。言わずもがな、昨晩のナルトから連想したものだ。単純な思いつきかもしれないが、 実は『SAN』にはロールケーキが無い。他のケーキならば種類も豊富なのに、コンビニでも 売っているほど一般的なロールケーキだけは何故かレパートリーに含まれていないのだ。
その辺りも含めては幸村に提案したのだが、幸村はふいっとそっぽを向く。


「……ロールケーキは、駄目でござる」
「え、なんでですか?」


幸村は返事をしない。はもう一度、「どうしてですか?」と聞いた。


「ロールケーキというのはフランスでは一般的ではなく、ブッシュ・ド・ノエルに 用いられる程度でござる。この店は曲がりなりにもフランス菓子に拘っているのだ、 日本で知名度があろうとも店の主旨には反する」
「でも…抹茶味の焼菓子、ありますよね?チーズケーキだって、フランスのお店ではあんまり見かけないって 聞いたことありますけど…」


はショーケースに目を向け、チーズケーキを見た。 フランス菓子にこだわっていると幸村は言ったが、他にもこの店独自のケーキだって並んでいるのだ。
の言わんとすることが分かったのだろう、幸村は険しい顔で振り向くと「とにかく!」と語調を荒げた。


「とにかく某はロールケーキは好かぬのだ!理解して頂きたい!さあ殿、打ち合わせの時間になる前に外を掃いて来て下され!!」


それだけ言うと、幸村はの背をぐいぐい押して店の外に追い出してしまった。 あまりのことにしばらくは思考が停止していただが、箒で店の周囲を掃いているうちに徐々に理不尽なあしらわれ方に怒りが沸いてきた。

新案を募集すると言ったのは幸村のくせに、あんな風に怒らなくてもいいじゃないか。 ロールケーキを提案されたくなければ『新案募集、ただし某の嫌いなロールケーキは除く』とでも最初に言っておけば 良かったのだ。
「むかつく!スランプのくせに!」と声に出さずに文句を言いつつ、は埃を掃いた。

せっかく、話しやすくなってきたと思っていたのに。
そのことが“嬉しい”とさえ、思っていたのに。

横目で窺った幸村は、無表情でクッキーを陳列している。 しかし、溜息を吐いたが店内に背を向けようとした瞬間、その人影がふらついたかと思うと、ゆっくり崩れていった。


―――シェフ!!」


箒を投げ出し、は店内に駆け込んだ。幸村は目元を押さえたまま座り込んでいる。
の慌てた声が聞こえたのだろう、厨房から出てきた佐助は、うずくまった幸村を見つけると 「旦那!?」と声を上げた。続いて政宗・元親・いつきも顔を覗かせる。


「おい幸村、大丈夫か!?」
「いつき!救急車呼べ、救急車!」
「分かっただ!110番だな!?」
「違ぇよ119番だろ!」


バタバタと慌しい雰囲気の中、ようやく幸村が「待ってくだされ…」と小さく声を上げた。


「某は大事無い…救急車など呼ばずとも大丈夫だ」
「……いつきちゃん、タクシー呼んでくんない?」


ふらふらした頼りない動きで店の壁に寄り掛かる幸村をしばらく見つめていた佐助が、 静かな声でいつきに声を掛けた。幸村は「佐助、」と言ってそれを止めようとするが、 佐助に睨まれてしまう。


「病院行けよ、旦那」
「なにを大袈裟な…ただの寝不足だ。寝不足で少し足元がふらついただけで…」
「寝不足でふらつくこと自体が普通じゃねぇだろ!?どうしても嫌だっつーんなら、 アンタの為じゃねぇ、俺らが安心して仕事するためだと思って行ってくれよ!」


幸村は「しかし…」と言ったきり、返答に詰まった。電話を終えたいつきが 「タクシーすぐ来るって言ってただ!」と戻って来て、幸村はいよいよ病院行きの運命から逃げられなくなる。


「本当に…もうなんとも無いのだが…」
「往生際わりぃな、オラ乗れよ」


いつきの言った通り、タクシーは5分も経たないうちにやって来た。 その頃には幸村はもう立ち上がれるほどに回復していて、強情に「大丈夫だ」と言い張っていたが、 結局は政宗によってタクシーに蹴り込まれたのだった。
店に居なくても一番支障が無いということで、は幸村に付き添うことにした(いつきはその言葉を額面通りに受け取ったのか、涙ながらに 「ねぇちゃんは要らなくなんかねぇだ!」と言っていたが)。


「……アイツ、と二人っきりだぜ、うらやましいなチクショウ」
「ああ、全くだ」


タクシーを見送りながら政宗と元親がそんな会話をしていたことも、 佐助が憮然とした表情でしばらく道路を見つめていたことも、 幸村とは何も知らない。




一方でタクシーの車内。
は意を決して「シェフ」と幸村に声を掛けた。


「あの、シェフ…もう、朝はいつきちゃんと二人で大丈夫です。佐助先生から聞いたんですけど、 シェフは本当は7時過ぎにお店に来るんですよね?でも私が不慣れなのを気にしてくださって…」
「ああ、まあ……そう言われるのであれば後はいつき殿に任せよう。 しかしそれが原因の寝不足なのではござらぬ。殿は責任など感じないで下され」


幸村はそう言い、窓の外を見た。流れていく景色を見ているようだが、には『じゃあ原因は?』と追求されたくないがための行動に見えた。 いや、実際に、彼の背中はそういう無言の雰囲気を出している。

難しい人間だ、真田幸村という人は。









結局、血液検査をしてみても幸村の身体に異常は見つからず、医者も原因は「疲労と寝不足なのではないか」と結論付けた。 とりあえず点滴を受けた幸村は、午後から普通に厨房に立って働いていた。見ている限りでは完全に健康そうだった。

店仕舞いも終わり、も佐助たちに続いて店を出ようとしていたのだが、今や来週に迫った結婚式の日に 休みを貰い忘れていたことを思い出し、足を止めた。


「…ちゃん、帰んないの?」
「あ、シェフにちょっと話があって…」


「ふーん」と言って、佐助は釈然としない様子である。は「お疲れ様でした」と挨拶をしてから幸村の傍へ寄った。
売上表とにらめっこをしている幸村に「あのぅ」と声を掛ければ、彼は首をゴキゴキ鳴らしながら 「如何された?」と返事をする。その様子を見ていたは、ふと思いついた。


「肩揉みましょうか?私、上手いんですよ!実は友達がリフレクソロジーのお店で働いてて、 こっそりコツを教えてもらったりしてるんです」
「い、いや、その様に気を遣って下さらずとも…!」


は遠慮する幸村の背後に回り込み、問答無用で肩を揉み始める。
逃げようとしていた幸村だったが、すぐに「ぉおう」と感心したように呟いた。


「……それでですね、背後からで申し訳ないんですが…今度の日曜日、休ませてもらえませんか?」
殿…もしや肩揉みはそれを言うために」


が「それも少しあります…」と小さく言うと、幸村は「正直でござるな」と苦笑した。


「その日、結婚式なんです。本当はここに就職する前から決まってたんですけど、 すみません、すっかり言い忘れてしまっていて…」
「構いませぬ。日曜日でござるな…皆にも伝えておきましょうぞ」
「ありがとうございます」


そのまましばらく、は幸村の肩を揉む。
“結婚式”という言葉を口に出したからだろうか、は先日の幸村の黒いネクタイを思い出した。もう気にしないでいよう、と決めていたのに、 いざ思い出してしまうと聞いてみたくて堪らなくなる。顔が見えない体勢だからだろうか、 『いまなら聞ける!』という気さえするから不思議だ。


「シェフ、あの……この間って、本当に結婚式だったんですか?」
「何故、そのような事を気にされる」
「だって普通、結婚式に黒いネクタイはしていかないじゃないですか」
―――ほう、それは知らなんだ。折角の慶事に 某は悪いことをしてしまったようだ」


幸村は売上表から視線を上げずに、それだけ言った。
ごく自然に、まるで本当に“うっかりしていた”かのように。

『どうしてパティシエになったんですか?』
『あの電話は何だったんですか?』
『寝不足の原因って、それなんじゃないですか?』
『本当の本当に、結婚式だったんですか?』

様々な疑問が頭をよぎるが、どれを聞いてみたところで幸村は正直には答えないだろう。
なんだか無性に悔しくなって指先にぐっと力を込めれば、幸村は「殿、痛い!」と焦ったような声を上げた。


ついこの前まで全くの他人だったのだ、幸村がに本音を言わなくても、本当のことを教えてくれなくても、文句を言う筋合いなんて どこにも無い。けれど“今”は、たとえ短い期間であっても係わり合いがあるのだ。 少しくらい、心を開いてくれれば良いのに。

そんなことを考えながら店を出ると、すぐに「ちゃん」と聞きなれた声がした。 パッと横を見れば、片手を挙げて佐助が立っている。


「佐助先生、みんなと一緒に帰ったんじゃなかったの?」
「んー、ちょっとね。そこで電話してたんだ。折角だし一緒に帰んない?送ってくよ」


「うん!」と答えたは、佐助の手に握られた携帯電話に気付いた。
電話をしていた相手というのも、きっと例の恋人なのだろう。 少し複雑だったが、そのお陰で一緒に帰れるんだと思うと、喜ぶべきなのかどうか分からなくなった。


「懐かしいなー、ちゃんち、家庭教師してたとき以来だもんな」
「うん、本当に!…あ、お母さん呼んでこようか。先生がパティシエになってたんだよって教えてあげたら、 すっごいビックリしてたもん」


取り留めの無い話をしているうちに、二人はすぐにの家の前まで辿り着いてしまった。
もう夜も遅い時間なので声は落としたまま、佐助は「まっ、普通はそうだよねぇ」と笑う。


「でも挨拶はまた今度にしとくよ、もうこんな時間だし。よろしく言ってました、って伝えといてくんない?」
「うん、伝えとくね。お母さん、佐助先生が来なくなって、 お父さんがやきもち妬くくらいガッカリしてたからすごく喜ぶと思う」
「さてはご両親、いまもラブラブ?」


は肩を竦めて「やんなっちゃう位だよ」と苦笑いをしてみせた。


「…ちゃんはさ、案外アッサリしてたよね。てっきり俺になついてくれてると思ってたから ちょっとショックだったもんなぁ」
「えっ…!?そ、そういう訳じゃ…」


わざとらしく肩を落として言う佐助に、は思わず「寂しかったよ!」と叫んでしまいそうになった。
打ちのめされるほどショックを受けたが、それでも佐助にとって“良い子”のまま憶えていて欲しかったから、 涙をこらえて「バイバイ」と言って笑ったのだ。そして、その日の夜は泣き明かした。
“アッサリしていた”という佐助の印象を否定したい。が、「一晩泣いたんだよ」と言うなんて、 告白しているみたいでとてもムリだ。


「……電話掛けてた、ってのさ、嘘なんだ」


が言うか言わないか迷っていると、佐助は携帯電話を見下ろしながらぽつりと言った。
思わず「え?」と聞き返せば、佐助は少しだけ目線を上げて、悪戯っぽく笑う。


「たまには一緒に帰ろうと思って。だっていっつもチカちゃんとか伊達ちゃんとかいつきちゃんとかが居て、 二人でゆっくりあの頃の話とかする時間も無いじゃん?」
「あ、うん…」
ちゃん、大人っぽくなったよね。初めて待ち合わせたとき、キレイになってて驚いたよ。 あ、もちろん昔が可愛くなかったとかいう意味じゃなくてね?」


「変な言い方でゴメンな」と佐助が言う。は心臓がドキドキとうるさくて、「ううん」と短く返事をすることさえ息が詰まりそうだった。


―――じゃ、また明日ね。おやすみ」
「お、おやすみ、なさい」


軽く手を振って夜道に消えていく佐助の背中を、はしばらく見つめていた。




  SAN Entree