ぽつり、 雨粒を頬に感じたと思った次の瞬間には、天上から降り注ぐ水量は桶を返したような有様になっていた。 あのお転婆は、今ごろ自分の注進を聞かなかったことを後悔していることだろう。そう思いながら主君の娘を脳裏に描く。 ぷうと頬を膨らませて、早く迎えに来いと文句を言っているかもしれない。 (……いや、) それはどうだろう。 佐助は自分の想像を取り消した。案外、狙って傘を持っていかなかったのかもしれない。 が出かけたのは城下の呉服屋だが、そこの若旦那は中々出来た人物だと聞く。 眉目秀麗、男前で気立てが良くて家財人望も申し分無いとくれば、いずれは降嫁だって許されるかもしれない。 雨粒は生い茂る木の葉の隙間を縫うように降ってくるが、佐助は微塵も躊躇せず、じっと身を潜めていた。 やがて慌ただしい足音が大手筋に沿って近付いてきて、館の敷居をくぐった。 それからほどなく姿を現した部下はの護衛に就いていた者で、長、と控え目に呼びかけてくる。身を預けていた太い枝から降りずに用件を促せば、姫様がお呼びです、と、簡潔で予想していた通りの言葉が返ってきた。 佐助はそれに何も言わず、黙って身を起こした。その動作自体が返答なのだ。 部下は一礼し、再び姿を消した。 「遅いわよ佐助、いくつ数えたと思っているの」 「そりゃ申し訳ない。二十三くらいですかね」 「三十八!」 唇を尖らせて、頬を膨らませて、佐助の遅参を批難するのは甲斐の虎の愛娘である。 今はその濡れ羽色の髪から水を滴らせ、行儀作法なぞくそくらえとばかりに、床の間へと腰掛けている。 畳よりも少し高い位置にある腰からは、すらりとした脚が下降線を描いて伸ばされている。 泥の跳ねた足袋が脱ぎ散らかされているのを拾い上げて、佐助は溜息を吐いた。 「何か御用ですか」 「ええ。あのね、足を拭いてほしいの」 ぷらぷらと爪先を揺らし、が言った。ほっそりした白い脚にはあちこち泥が跳ねている。よほど急いで帰ってきたのだろう。だがそれにしても、なぜ自分を。 お付きの侍女たちはどうしたのかと問えば、下がらせたのだとはあっけらかんとした返事をする。 そんなことは見れば分かる。佐助が尋ねているのは、なぜ気心の知れた者を下がらせてまで自分を呼び出すのかということだ。 憮然とした表情の佐助を横目で見て、答えに満足していないらしいと悟ったは、再度唇を綻ばせる。 「だってね、佐助は器用じゃない。佐助は私のお気に入りだと侍女たちの皆が知っているから、佐助の佐の字を口にするだけでそれならどうぞと言って下がるのよ」 「だから。忍にさせる仕事じゃないでしょう」 「わがままで、世間知らずで、皆を困らせてばかりな私のお世話よ。十分に厄介で面倒な下働きじゃない。分かったら早く足を拭いて頂戴よ。冷たくてたまらないわ」 催促をするように、の爪先がまたゆらゆらと揺れた。 最初から逆らえる道理などあるはずのない佐助は、の傍らに置かれていた手拭いに視線を遣る。 がそれを渡してくる様子は無い。佐助が屈み込んで、触れそうなくらいに互いが近づくのを愉快そうに見ている。 手拭いを片手に掴んだものの、佐助の手には未だ鋭い防具が装着されていた。冷え冷えとした鐡に指をかけてそれを外そうとするが、その作業が少しも進まない内に、が声を上げた。 「だめよ、佐助。それはつけたままにしていて」 「そう言われても、こいつは見た目以上に危ないもんですからね」 「そんなこと知っているわ。だけど今はつけたままがいいの」 「お戯れも程々にしといちゃくれませんか、ほんとに。うっかり引っ掻いちまったらどう責任取ればいいんです」 「佐助はそんな風に“うっかり”していないでしょう」 事も無げに言い放つに、佐助は何も反論しなかった。その通りだ。そんな失敗をするほど抜けてはいない。失敗を仄めかすことでの気が変わるんじゃないかと、そう期待しての言葉だった。それも見抜かれていたが。 佐助は反論や諫言を飲み込み、目の前でゆらゆらと左右に振れる白い足を掴んだ。 鋭い爪が素肌に触れる際のちくりとした感触に、「ひゃ」とが不意を突かれた声を上げた。佐助はそれを聞かなかったふりをして木綿の布を動かした。 足首を指の先で支えながら、傷ひとつない脛の泥を落とし 手の平にふくらはぎを乗せながら、真白な膝の裏の水気を払い 包み込むように踵を持って、足の指の、爪の間まで、僅かな泥も雨粒も残さぬように 佐助が柔らかな布地で脚を擽るのを、は黙って見ていた。少しでも不用意な動きをすれば、あの黒い手甲はすぐにの脚の皮など裂いてしまうだろう。ちくりちくりとした痛みは今も絶えない。 つめたく、痛みを伴う、彼の指先。それは徐々にの脚を上ってゆく。あとどのくらいで腿にまで到達するだろう。彼の視界からならばもうすっかり肌蹴た様子が見えているかもしれない。ならば佐助はそこに触れようとするだろうか。 腱、ふくらはぎ、膝、 そこまで辿って、佐助の指は離れて行く素振りを見せた。畳に戻されようとする瞬間、は脚をぴんと伸ばした。親指の先に佐助の顎が乗る。 「もっと先まで来て御覧なさい。ねぇ、」 顔を縁取るように形作られた防具は篭手と同じような冷たさだった。の爪先はそこから少しずつ横に動いていく。くい、と顎を持ち上げたあとは、頬を。眼の真下までなぞったあとは、耳を。そうすればさらりとした髪が足の甲に触れる。 足蹴にされているというのに、その間佐助は何も言わなかった。一言も発さず、身じろぎひとつせず、けれどの視線から目を逸らすこともなかった。 暫し、そのまま視線を合わせていた。 は爪先を耳の辺りから首筋へ移動させようとしたが、力尽きてそのまま脚を下ろさざるを得なかった。腹と腿がいやに疲弊したようだ。 「何か反応してよ、疲れたじゃない!」 「すみませんね。で、もう満足ですか」 が畳に打ち下ろそうとした踵は佐助に掴まれ、静かに下ろされた。筋が張るような感覚に腿をさすりつつ佐助を睨めば、佐助はまた気付かないふりをして反対の脚を拭っていた。 いくじなし。そう訴えたところで反応がないのは分かっているから、胸中で声高に叫んだ。 両足を拭き終え、新しい足袋をきっちりと穿かせて、佐助は軽い会釈と共に姿を消した。次の仕事か、館の見張りに行ったのだろう。 もう近くには居ないと分かっているから、は今度こそ声に出して「いくじなし」と呟いた。 (……ああ、なるほど、) だから傘を持っていかなかったのか。 もはや定位置となりつつある木の幹に寄りかかりながら、佐助は黒く冷たい指先で頬に触れた。あの白い足の温もりはもう残っていない。 |