「そんなに強く擦ると、腫れますよ」


一切の前触れも無く投げかけられた言葉に、は手を止めて首を廻らせた。いつもの装束を纏った佐助が、どこか呆れ気味に戸口へもたれ掛かっていた。
彼が投げかけたのは間接的な制止である。けれど気付かなかったことにして、は再び懐紙を握った。それを唇に宛てると、左右に強く動かす。がしがしと音がしそうなほど、強く。


――私、あのお方は、苦手よ」


数刻前の出来事を思い返し、眉を顰めながらが言った。ぐしゃぐしゃに握りつぶされた懐紙には唇から移った紅の色が微かな線を描いている。それを眺め、傍らに打ち捨てたあと、はまた新しい紙を取り出した。憎しみすら感じさせるほどの調子で、何度も何度も口許を拭う。がしがし、ぐしゃり、がしがし。

他の誰にもどうにも出来ないのだと泣きつかれたから佐助が来たわけで、の機嫌が良くないということは知っていた。だがそれにしても中々の不機嫌っぷりである。今が拭おうと躍起になっているのは京から取り寄せたのだろう上等な紅だし、紙だってそんなに無駄にしていい代物ではない。


「悪いお人ではないのでしょうけどね、でも、本当に苦手なのよ。私とあのお方がどちらも“さでぃすてぃっく”だからじゃないかって仰っていたわ」


そこでは一度言葉を切り、少し間を空けてから「“さでぃすてぃっく”とは何という意味なの?」と佐助に尋ねた。佐助は肩を竦めて『知るもんか』と伝える。 事実、あの男が使う異国の言葉の意味なんて知り様が無い。


「気になるなら、直接聞いてみれば良かったんじゃないですか」
「苦手なのだと言っているでしょう」
「でも、許嫁だ」


がしがし、ぐしゃり。
眉根を寄せ、口許を歪ませ、は全身で“不愉快だ”と表現しながら再び佐助を振り向いた。紅はまだその唇に張り付いている。苛立ちから無為を招いているのだろうが、は自身のことも分かっていないようだった。

は腕を振り上げ、丸めたばかりの懐紙をいくつか、佐助めがけて投げつけた。佐助は特に避けるような動作はせず、ただ手の平を広げて顔に飛んでくるものだけを叩き落した。 ぺしり、ぽとり、と、腹や脚に当たった紙は情け無い音を立てて畳に転がる。


「父上の妄言を真に受けないで!」
「妄言って…――今は未だ、でしょう」
「今日はいやに反抗的なのね、佐助」


そんなことありませんよと答えながら佐助は足元の紙くずを拾い上げた。赤い筋が視界に飛び込んで来る。信玄の総髪兜の赤色や幸村の羽織の赤とは違った、深くて重みのある赤だ。はそのような赤を好まない。の纏う赤は、鮮やかで軽やかな武田の赤なのだ。故に、趣向の異なる赤を贈る人物は甲斐には居ない。
甲斐、には。

佐助が冷たい視線で紅の線を見下ろすのを、は黙って眺めていた。好みではない色、それをわざわざ唇に乗せたのは、贈り主と顔を合わせることになっていたからだ。佐助だって既に気付いているだろう。

何を思ったのだろう。
武田から離れてゆくかもしれないの事を、佐助はどんな思いで嗜めるのだろう。沸いてきた好奇心に幾分か気分が持ち直すのを胸の裏に感じ、は緩く笑んだ。


「こちらへ来て、佐助。この頑固な紅を落とすのを手伝ってくれないかしら」


顔を上げた佐助は僅かに瞼を細めた。その様子はの真意を見定めるようにも、これから申し付けられるだろうことから逃れる算段でも企てているようにも見える。

早く、と一言付け加えて急かすと佐助は諦めたように近寄って来た。
の正面で片膝をつく忍にまだ使っていない懐紙を差し出し、にこりと笑い掛ける。


化粧用の紅は、紅花から抽出した赤を固着させて作られる。白磁器や貝の裏に固められた赤に湿らせた筆や指を滑らせ、色を移す。 それはつまり、一度唇に乗せた紅も水気に触れることで容易に落ちるということだ。

佐助は水を入れた竹筒を取り出そうと懐に手を入れるが、目当ての物を引っ張り出す前に「佐助」との弾んだ声色に動作を遮られた。視線を合わさず、声も出さず、続く言葉を待つ。するとの赤い唇はまた、佐助の名前を熱っぽく紡いだ。


「しのびに求めることでは、無いと思いますけど」
「そうね。けれど“許嫁”にも言わないわ」


の苛立ちが、徐々に佐助に伝染しているような気がした。ひとかたまりの苛立つ気分はの身を離れ、佐助に吸い寄せられていく。今やはどこか軽快な心持ちですらあるが、佐助の内心は大嵐が来ているかのようだった。

この姫は全て分かっていて無茶なことを言う。
佐助が忍であることも、自らが姫であることも。佐助の煩悶も、自身の好奇心も。佐助の経緯も、自らの先行きも。 全て承知の上で「意気地が無い」と批難する。それは、何も分かっていない者に言われるより遥かに堪えるものだ。


「佐助」


いつも、が無茶なことを要求してくるときは腹の底がむかむかしていた。
邪気はなくとも明確な意思の篭った言葉や笑顔を向けられるたびに、胸の裏は焦げるように熱を持った。それが佐助には煩わしかった。“それ”から逃げられるのならば、いっそ自らの手での全てを徹底的に消し尽くしてしまいたいとさえ思った。

同時に、そんなことでは“それ”から逃げられないことを知ってもいた。
“それ”はもう、自身の内側にまで侵食していたのだ。


短く息を吐く間だけ瞼を下ろし、佐助は覗き込む様にぐっと顔を寄せた。額と額、鼻先と鼻先。の顔との距離はほとんど無いが、二人が触れ合っている部位もまた、無かった。
睫毛の長さほどしかない危なげな均衡の中で、は今までの人生で一番近くに佐助を見た。髪より少し濃い色の眉、すっきりした目尻、ほど良い高さのある鼻、そしてより薄い唇。何も纏わない佐助の親指がゆっくりとその淵をなぞる。蛇を思わせる動作で舌先がちらりと覗くのを見止めたと思った間に、の唇には冷たい指先が押し当てられていた。


さすけ、と呼びかけようとして、声は途切れた。


静かに。
そう語るかの如く、佐助の指はの唇を少し強く押した。歯の先端に彼の親指が触れ、そのまま横滑りに端まで伝って行った。初めに湿らされていたのに加え、の舌の根からせり上がって来る唾液のおかげで、あれほど頑固だった紅は従順な様子を見せ始める。

捏ね回すように、摘むように、動きを変えながら弄る指先をはじっと見下ろしていた。正直に言うと少し驚いている。そして大いに落胆している。そんな疑似餌じゃなくて本物が欲しかった。


咥え込んでやろうか。噛み付いてやろうか。がそんな事を考え始めたのを敏感に感じ取ったらしく、佐助は最後に人差し指での口元を拭って身体ごと離れて行ってしまった。深く暗い赤色は今や佐助の指を染めている。
「ほら落ちましたよ」と言ってのけた口調は至極冷静で、こけにされているのではないかとさえ思えた。


「……私のこと、そんなに嫌なの?」


不機嫌の虫が再びに移り住み始める。途端に、何もかもが気に入らなく思えてきた。新しく仕立てたばかりの着物も、上手く引けたつもりだった眉墨も、もちろん佐助の指先に居座る紅の色も。

むっすりしたにも佐助は顔色を変えない。それがまた気に入らなくて、残りの懐紙を丸めて手慰みにした。くしゃり、ぐしゃり。
いびつな球を佐助の顔めがけて振りかぶったが、今度は避けようとしなかった。頬への衝突を甘んじて受け入れた後、佐助はただ黙って指先に口付けた。の紅の移った親指と人差し指、それがまるで主君の爪先であるかのように。


それが欲しい。は誘われるように手を伸ばすが、瞬きをした後ではそこに佐助の姿は無かった。



「………本当に、本当に、いくじなし!」



天井に向かって声を張り上げるが返答は無く、そこで頭を抱える忍の姿など、は当然知らないままだ。