「きっとお前は私のことをばかだと思っていたでしょう。立場も弁えず己の興味だけを押し付けてくる、ばかな女だと」


奥州 青葉の城
しばらく見ない間にぐんと大人びたかつての姫の前で、佐助は片膝をつき静かに頭を垂れていた。滑らかに磨き上げられた檜材の木板がの足元でぎしりと鳴る。
佐助は音に合わせて顔を上げた。は落ち着いた微笑みを湛えたまま彼を見下ろしている。甲斐に居た頃には見せたことなど無かったような表情だった。


「ずっとそう思われているのは心外だから言ってしまうけれど、私だってこれでも色々と考えていたのよ」
「存じてます」
「意外だわ。てっきりお前の中での私の評価は、幸村みたいなものかと」


軽く目を開いてが言う。確かに、佐助のような忍を彼らと同じく人間として扱おうとする面は似通っていたかもしれない。
だが幸村との根本的な違いは、“意識せずそう扱う”のか“意識してそう扱う”のかという所にあり、だから佐助は幸村とを同列に見たことはない。より厄介なのはどちらかと聞かれても、どちらも同じほど厄介だった。


「いくら挑発してもお前は一度として乗ってきてはくれなかったわね。私の望む、ぎりぎりで最低の線をいつもくぐっていった。お前をその気にさせるにはどうしたらいいのか、幾度も諦めそうになりながら、とにかく考えたわ」
「諦めて、欲しかったんですけどね」


その熟考の結果がこれですか
そう目線で尋ねると、は満足そうに頷いた。


「“なぜ、佐助は私に手を出してこないのかしら?”
 “佐助のようなのが手を出すのは、どういう相手かしら?”」
「………」
「きっと、同業者か、利用したい相手でしょう。違う?」


の語尾は問い掛ける形式だったが、その本質は確認のようなものだった。佐助は否定も肯定もしない。それはつまり肯定と同質だったが、分かっていても動かなかった。

何も違わない。
かつては武田の姫で、佐助は武田の駒だった。ただそれだけのことで、だからこそ厄介なことだった。


「だから、同盟も反故にしたと?」
「いいえ、今回の事はあのお方がご自分でお決めになったことよ。私はただ、ついてゆきますと言っただけ」


佐助は落としていた腰を上げ、と相対した。がちゃり、手裏剣の擦れる硬質な音がして、はそちらに視線を遣った。それが自らを貫くことは無いと、奇妙な自信があった。
はもはや武田の姫ではなかった。一度は同盟のために他国へ嫁ぐ駒となったが、先日その同盟も破られ、今では伊達の駒に等しい。だからこそ佐助が、いまだ武田の駒である佐助が、この身を害することは無いと確信していた。

の背後には一対の障子があって、そこを抜けてほぼまっすぐに何枚もの襖を突破していけばこの城の主の元へと辿り着く。佐助もそれは知っているだろう。最短距離だからこそ、二人は対峙しているのだ。


「…連れ戻すようにと仰せつかっているんですけどね」
「嘘はだめよ。“可能ならば”、でしょう?けれど大変ね、佐助、私は退くつもりが無いわ。どうしましょうね、お前、私を攻略しなければいけないわ」



佐助が一歩踏み出す。
は一歩下がる。

佐助が縁を越え、廊下に上がる。
は更に一歩下がり、障子に手をかける。

佐助が暗器を構える。
はふふっと笑って部屋の奥へと逃げ込む。

佐助が開け放たれた障子を、襖を越える。
は招くように手を泳がせ、更に奥へ奥へと下がってゆく。


もはや城主の元へ向かう道筋から大きく逸れていることなど、佐助もも気付いている。
だが二人は何も言わず、追いかけ合った。


とうとう佐助が畳を踏みしめ、追いかけるのを止めた。
は振り向き、参ったかと言わんばかりの表情を作る。



「まあ、大変。自室に連れ込んでしまったわ」
「…………あのねえ、姫さん……」


ひどくわざとらしい言葉に佐助は苦笑を漏らした。
は「お黙り」と言って、佐助の口を自らの手で封じる。二人の傍らには、佐助にとって見覚えのある化粧道具や小物が転がっていた。


「ねえ、考えてみて。どうしたらお前は、今の私の機嫌を窺えるかしら。どうしたら私を利用できるかしら」


足を止めた佐助に構わず、はじりじりと後退していく。その表情は先程対峙した時とは違い、生気に満ちていた。少し紅潮した頬は幼いが、口許はしっとりと大人びている。差している紅は、以前は嫌っていた深い赤のものだろう。佐助は身じろぎせず、目だけを細めて「お気に召さない紅は落として差し上げます」と答えた。


「他には?」
「雨の日に泥が跳ねたら、隅々まで拭いて差し上げます」


じわりじわりと後退を続けていたは、ついに用意されていた布団の端にまで辿り着くと、崩れ落ちるように腰を下ろした。転ぶのかと一瞬身体を強張らせた佐助を見上げ、にんまり微笑むと、ほかには?と繰り返す。その目尻は実に楽しげである。
佐助は先程のの言葉を思い出した。曰く、佐助は自分のことをばかだと思っていただろう、と。

それを否定したのは決して表向きのことだけじゃない。本当に、この姫のことは頭が回ると思っていた。良い方にも、悪い方にも。
ただ、今この瞬間からは、それも改める必要があるかもしれないと佐助は思った。 こんなことを企てるなんて、やっぱりばかなのかもしれない。


ねえ。とが続きを催促する。
佐助は獲物を手放して、部屋の隅へ蹴飛ばした。




「飲み干しますよ、骨の髄まで」