「―― この人が全部、払いますから!」 大通りを歩いていた。 すると、脇の小道から慌てた様子の女が飛び出してきた。 女は光秀と視線が合ったその瞬間彼の背面に回り、同じく脇道から飛び出してくる強面の男たちに光秀を差し出した。 そうして、彼にとっては理解できない一言を放ったのである。 ぼきぼきと拳の骨を鳴らし、此方をねめつける男たち。光秀は「はあ」と短い言葉で応答した。 意味が分からない。背面の女はくるっと身を翻して逃げ出そうとするが、光秀は振り返らずにその腕を捕まえた。 ぎゃっという悲鳴が聞こえる。 「あんた、“猫”の情人か?まあ何でも良い、出すもん出してくれりゃぁな」 懐に入れた銭袋を鳴らしつつ、男のひとりが光秀に言う。光秀は小首を傾げた。 戦場では好んで人を斬り、その精気を啜るような彼だが、さすがに畜生の相手を務めたことはない。生憎と未だ人間である。 しかし男たちの視線の先は光秀に腕を掴まれ、もがいている女に向いていた。彼女もまた人間のように見える。 意味が分からない。分からないが、自分が金を払えと要求されていることだけは分かった。 首を廻らせ、女を見る。派手な着物を着崩し、髪に挿している簪がしゃらしゃらと鳴っていた。 程々に整った目鼻立ちの中で特に目を惹くのは、濃い色の紅で彩られたぽってりした唇か。 一見した限りでは、金を踏み倒すほど貧窮極まった様子でも無いのだが。 今度は男たちの方に顔を向ける。「出すのか、出さないのか」とがなって、うるさいことこの上ない。 面倒ごとは斬り捨ててしまおうか、と考えて、彼は愛用の獲物を持って来ていないことに気が付いた。 残念だが、致し方無い。懐に手を入れ、小銭を入れた布袋を引っ張り出した。 「差し上げますよ」 光秀はそれを、ぽん、と放る。 先程の男はそれを受け取り、ずっしりした感触に目を見張った。 少しだけ袋の口を開けて見れば、中には小判や金平糖が乱雑に入れられている。 「足りますか?」と悠長に尋ねてくる光秀を見上げ、さては何処かの大店の若旦那だろうか、と諮詢した。 “猫”の奴、いつの間にそんな金づるを捕まえたのか。 金の在る所からは、在るだけ頂戴する。彼らだけではない、賭場を営む者ならそれは誰でも掲げる信条だ。 目の前に居る男が何者かは知らないが、この場で絞り取れるだけ絞ってやろう、と、彼は考えた。 恐らく背後にいる彼の仲間もそう思っただろう。 彼は「残念だが、旦那、すこぉし足らねぇな」と口に出そうとした。 手持ちが無いとしても、屋敷まで案内して貰えば良いだけの話だ。 けれど背中を奔るぞわぞわとした“嫌な予感”に、結局は口を閉ざした。 今さらながら、目の前の男の佇まいに違和感を感じたのだ。白い髪。細長い体躯。無感情な瞳。 この男を“起こして”はいけないと、勝負師としての彼の勘が言う。 「―――…ああ、十分だ。そこの女は好きにしな。 けどな、旦那、しっかり躾けて、二度と それだけ言うと、男は仲間を引き連れて元の脇道を引き返す。もっと寄越せなどと言うようであれば、 獲物が無くとも何らかの手段で斬り捨ててしまおうと思っていただけに、光秀にとっては残念な幕引だった。 横目で女を見れば、驚いたように目を見開いて此方を見上げている。 “なぜ助けた”と語りかけていることは明朗だが、光秀は敢えてそれには答えない。 代わりに、頭の先から足の先まで彼女の身体の隅々をじっくりと観察する。 美しいとか抱きたいとかそういった感想は持たなかった。ただ、斬っても面白く無さそうだな、ということだけは思った。 彼女の腕を握る手に少し力を入れるだけで顔を顰めるのだ。首の骨でもぽきりと折れれば、断末魔さえ上げてくれないだろう。 それではつまらないのだ。 「貴女は猫なのですか?」 「…………」 「その沈黙、人語は理解しない、とでも?おかしいですね、確か、出会い頭に言葉を話していたと記憶していますが」 女は答えない。 ただじっと、摩訶不思議な物を見る目つきで光秀を見上げている。 「まあ貴女が猫であろうとも、いま人間の姿をしているからには、人間の規則に従わなければならないのですよ」 「…………」 「なので食い逃げはしてはいけないのです。分かりますか?」 光秀は幼子に言い含めるように語り掛ける。そこで初めて、彼女は不快を露わにした表情で 「食い逃げなんてしてない!」と言葉を発した。 「食い逃げじゃないわ…ただちょっと、思ったより負け込んじゃっただけで…」 おやおや、と光秀は目を細める。どちらにしろ、彼女が払うべき金銭を踏み倒して逃げ出したことには変わりない。 それにしても昨今の猫は賭博を好むのだろうか。光秀にはそちらの方が興味深いところだ。 首に鈴はつけていない。だが意志の強そうな眼つきは、そういえば猫に似ているかもしれない。 光秀は空いている方の手でもう一度懐を探る。蘭丸の悪戯心で煮干のひとつでも紛れ込んでいるだろうかと思ったが、 無さそうだ。 「……あんた、あたしをどうするの」 再び、女はじとりとした眼つきで彼を見上げていた。 そこでようやく光秀は自分が女の腕を掴んでいたことを思い出した。 すみませんね、と断りを入れて指先から力を抜く。彼女は少し安心したような表情をした。 そうして掴まれていた部分をもう一方の手で撫でながらも、なぜか逃げ出す気配は無い。 「あたしをどうするの」 「…さて、どうされたいですか?」 彼としてはこの場でばらばらにしても構わない。しかし一応彼女の意向も尋ねてみることにした。 彼女は一瞬だけ視線を伏せて、それからすぐに正面から光秀を見る。 「連れてって」 返答は思いがけないものだった。 聞き間違えたかと首を傾げれば、女はすらすらと口上を述べていく。 金が無く・家も無く・親も無く・行く宛も無い。 余計な場所は取らない・仕事の邪魔はしない・食事は一日一回で良い。 「あたしを野良猫だと思えばいいわ」 だから連れて行け、と、女の主張はそういうことであるらしい。光秀は再び「はあ」と短く返答する。 先程の男が彼女を“猫”と呼んでいたことを思い出した。 負け込む以前は、賭場の常連客かその辺りの男に同じことを言っていたのだろう。だから、“猫”。 ということは女は化け猫の類ではなく、列記とした人間なのだ。 さしたる抵抗もなく斬り捨てられるだろうただの若い女だ。光秀は少しがっかりした。 もし猫が化けた女だったら、彼と死闘を繰り広げられたかもしれないのに。 つまらないと感じた光秀は、女が答えを待っているのに構わず背を向けた。そうして城への帰り道を辿る。 慌てた女は「ちょっと!」と言いながら彼の背中の着物を掴んだ。 「返事は!」 「貴女のお好きな様に。答えを待つ猫など聞いたことがありません」 「じゃあ着いてくわよ」 光秀は繰り返して「お好きな様に」と言い放つ。女は背中から手を離して、少し歩調を遅くした。 引き返すか、と思いきや、着かず離れずの距離で着いてくる。 どうやら光秀が「来るな」と言わない限りは着いてくるようだ。 だが女への興味が薄れた光秀に「来い」とも「来るな」とも言う気はない。 城ではいつも通りの光景が待っているのだろう。 信長は次の戦の計略を立てている。その妻は奥仕事をしながら短筒の手入れをしている。 蘭丸は金平糖でも食べているか、もしくは光秀の部屋に、戸を開けると雑巾が降って来る仕掛けでも作っている。 さて彼らは、この大きな“野良猫”を目にして、何と言うだろうか。 そこまで考え、光秀はふと足を止めた。そういえば女の名前を知らないのだ。 これでは彼らに何と言って紹介するべきか分からない。 端的に「猫が着いて来てしまいました」とでも告げれば済む話だが。 光秀は立ち止まり、彼女を振り返った。 「貴女の名前を聞いていませんでしたね」 「…別に、無いわ。好きに付けてよ。野良猫なんだから」 「ではそうですね……貴女のことは“煮干”と呼びましょうか。煮干」 追いついて来た女は露骨に嫌そうな顔をする。もちろん、光秀の呼びかけにも返事をしない。 「では“猫背”の方が良いですか?」と彼が尋ねれば、渋々「」と答えた。本当の名か、それとも以前に飼われていたときの名か、口から出任せか。 どれが正解かは知らないが、それが女の名前であるらしい。 光秀は返答をせずに再び城への帰路を辿り始めた。 野良猫相手に必ず返事をしなければならないという触書きは無い。 云わば先ほどの問答も、単なる独り言なのだ。 捨猫日和
「珍しい猫を拾いましたよ、蘭丸。見せてあげましょう」 |