光秀が猫を拾ったとか言うから、拾われた可哀想なのはどんなだろうかと見に行ったら人間だった。しかも女。死ねばいいのにあいつ。

蘭丸は背を弓なりに反らせ、頭の後ろで手を組みながら歩いていた。回想の中のいけ好かない男(男と呼ぶに値する生き物かどうかはさておき)は、そうやって歩く蘭丸がとさかを揺らすにわとりに似ていると言って、にやにやしていることがある。うるさい黙れ、ついでに死ね、と思い出しついでに頭の中で罵った。

光秀が猫を拾ったという噂は三日で安土城の中を完全に駆け巡った。
どうやら、“あの”光秀が、という枕詞が付いての話だったとのことだが、それも当然だなと思う。自軍の兵ですら道端の松ぼっくり程度にしか認識していない“あの”男が、敵軍を見れば朝食のめざし程度にしか思わない“あの”変態が、自分より小さな生き物に憐れみを示したとなれば天変地異の前触れというのもあながち的外れではない。

ただし、それは彼が拾ったのが本当に猫であったならばの話だ。
悲しいかな現実はやはり皆が認識している通りの彼でしかなかった。何が「珍しい猫を拾いました」だ白々しい変態野郎、と再び蘭丸は頭の中に勝手に浮かび上がってきた蛇のような男に対して暴言を浴びせた。



足の裏を廊下の木板へ叩きつけるようにして歩を進め、蘭丸の向かう先は件の変態に与えられた部屋である。不本意この上ないが、尊敬して止まない主君の命である。仕事を放っておく訳にはいかないし、誰かに任せる訳にもいかない。そんな事をして、蘭丸の不誠実が美濃殿の耳にでも入ったら、きっともう生きていけない。

蘭丸が命じられたのは光秀から書状を預かることだった。どのような経緯でそれを回収しなければならないのかは知らないし興味もないが、催促されるまで成果を上げないのは罪だ。だから蘭丸は光秀を足蹴にしてでも目当てのものを取り上げることが許されるはずだと考えている。待ってろ変態野郎、と三度悪態を吐いた。


日頃から近寄らないよう意識しているその部屋は襖越しにも何ら生き物の気配のしないのが常だった。それはあの男が“猫”を拾う以前からそうだったし、“猫”にとかいう名前を付けた後でもそうだった。そして今現在もその事に変わりはなく、蘭丸が爪先で襖を蹴って部屋の主を挑発してみたところで、うんともすんとも返事などある筈が無い。

「おい光秀」      返事はない。
「居るんだろ」     返事はない。
「分かってるんだぞ!」 返事はない。
「開けるからな!」   返事はない。

そうして蘭丸は宣言通りに襖を開けた。間仕切り板は桟を滑り、小気味良い音を立てて柱に衝突する。そのことが蘭丸を幾分か満足させた。もう一度勝手に立ち入ることを誰にともなく告げ、蘭丸は部屋へ踏み入った。

部屋の中はがらくたでごった返していた。それがこの部屋の常だった。
あの男は頭の螺子が幾つか外れていて、それこそ変態と罵るのに躊躇する必要も無い中身をしているのだが、外見だけは如何にも涼しげなものだから、どこか世捨て人の様だとおかしな勘違いする者も実は少なくない。だが間近であの男を見ていざるを得ない蘭丸のような立場の者からすれば、一笑に付すどころかそんな思い違いを抱いてしまうことに軽蔑さえ覚える。
何が世捨て人か、あの男は何も“捨てられない”のだ。欠けた刀であろうが破れた着物だろうが折れた傘であろうが白んだ骸であろうが、押しなべて部屋の隅へ積み上げるのだ。そのがらくたの中につい先日加わったのが“猫”という訳である。


“猫”はやはりがらくたの中で転がっていた。蘭丸の侵入にも興味がないといった体で、視線ひとつさえ寄越さなかった。不躾なそれなどは無視して、蘭丸は踵を浮かせ部屋の中を注意深く見回した。何ら生き物の気配などしない。それがこの部屋の常だ。“猫”が居ようが居まいが、それは変わらなかった。

どうやら部屋の主はどこかをほっつき歩いているらしい。蘭丸はようやく身体の向きを変えた。「おい」と短く発声すれば、ようやく“猫”の視線が此方に向く。


「光秀はどこで野垂れ死んでんだ」
「しらないわよう、そこら辺で金魚に石でもぶつけてるんじゃないの」
「留守番も出来ないのかよ。つかえねーな」
「そりゃあ、猫に犬のまねさせちゃあだめよ、坊や」


そう言って、大あくび。

何が猫なものか白々しい、蘭丸は胸の裏に刺々しいものを感じた。“猫”は自分の枕にしていた座布団を丸めなおし、ご丁寧にも姿勢を変えて蘭丸に視線をくれた。苛々している様を笑われているのだと分かっていても、睨み返さずにはいられない。


「お前に坊や呼ばわりされる筋合いなんかない。それより光秀が溜め込んだ書類があるだろ。知ってるよなぁ、“ご主人様”に大事にされてるならさ」


精一杯の憎たらしさを込めて言う蘭丸に、“猫”はもう一つ大あくびをして、それから事も無く「荒木様の件でしょう」と間延びした声で告げた。


「知らないなんて言っちゃあ、折角来てくれた坊やに申し訳ないから、特別よ」


言うや否や、“猫”は上体を起こした。手近ながらくたの山を一つ崩し、そこに細い腕を突っ込んで、まるで山の中にあるもの全てを知り尽くしているかのように目当ての書状を引き出した。丁寧に折られている所を見るに、書き上がってはいるようだ。

蘭丸は顔を顰めながら手を伸ばした。腹の内では困惑が渦巻いているのだが、何事もないという風を装った。“猫”はそんな蘭丸をじっと見て、にたりと笑う。嫌な顔だ、飼い主に似たのだろう。そう思った正にその時、“猫”は着物の胸元を惜しげもなくくつろげ、あろうことか発掘されたばかりのお宝をその狭間の奥へと押し込んだのだった。


「ほら、取ってごらんなさい」
「ばっ――…なにやってんだよお前!ばかじゃねーの!」


問うまでもなく馬鹿の所業なのだが、蘭丸はそう言わずに居られなかった。
美濃殿の戦装束を思えば、“猫”如きの着物が着崩れていようがどうでも良い。美濃殿の火器を取り出す様を思えば、“猫”が書状を挟み込んでいる如きどうでも良い、どうでも良いはずなのだ。
それなのに“猫”はにたにた笑うのを止めない。蘭丸がいくら怒っても、じゃあさっさと取ればいいじゃないかと話にならない。


「蘭丸を馬鹿にしてるんだな!それも光秀に仕込まれたんだろう!」
「いやだ、仕込みだなんて。猫は自分のしたい事しかしないものよ」
「おまえ人間だろ!」
――いいえ、猫ですよ。何をしているんです、蘭丸」


ひたりと。
降って湧いたように、前触れもなく背後から貼り付くような声がして蘭丸は一切の動きを止めた。首だけまわして見てみれば、このいけ好かない“猫”の飼い主にして安土城唯一の汚点が蘭丸の背と紙一重の距離でゆらゆらと立っていた。

「光秀」と男の名を呼ぶ蘭丸の声は非常に恨みがましい。だが当の本人は気にした様子もなく、ただゆらゆらと軸の定まらない様子で立っていた。その瞳は蘭丸や“猫”を映しているように見えるのだが、真実彼が何を見ているのかは定かでない。


「ど、どうもこうもあるもんか!お前が信長様への報告をさぼったりするから、蘭丸がわざわざ来てやったんだぞ!」
「ああ、その件ですか。もう少し泳がせていたかったのですが、仕方ありませんね」


然程残念そうでもなく、光秀は視線をがらくた山の方へ遣った。その一つが山崩れを起こしているのを見とめると、ごく自然に彼の“猫”へ向き直る。目当ての物の所在は、火を見るより明らかだ。

蘭丸はここぞとばかりに“猫”を指差し、光秀を睨んだ。お前が飼い主だろ何とかしろ、と視線に意思を込めるが、当の“猫”本人はどこ吹く風、そして光秀も蘭丸が何を憤っているのか理解しかねる様子で僅かに首を傾げるのみだった。


「………どうぞ、持って行って構いませんよ」
「そうじゃなくて!」


“猫”は蘭丸が小猿のようにきいきい文句を言うのを意地の悪い笑顔で見物するばかりで、飼い主に成り行きを説明しようとする気配もない。面倒になってきた光秀は片手で“猫”の着物の衿を引っ掴むや、もう片方の手を胸の間に差し入れた。十日か二十日ほど前に畳んだ覚えのある角ばった書状を引き抜いて、蘭丸の前に差し出す。


「お探しの物ですよ」
―――…お前、」
「どうしました、裸鼠のように戦慄いて。……ああ、分かりました。つまり駄賃が足りないと言いたいのでしょう、卑しいですね蘭丸」


確か蘭丸が以前に仕掛けていった煮干があったはず、と光秀が懐を探っている間に、蘭丸は目当ての書状を引っ手繰ると「違うよ馬鹿死ね!」と吐き捨てて脱兎のごとく駆けて行った。“猫”の笑う声が響き追いかけてくるようだが、聞こえない聞こえないと自分に言い聞かせた。何が猫だ、馬鹿馬鹿しい!


猫の鼠退治
「あらどうしたの蘭丸君、そんなに急いで」