鍛錬が終わると、幸村さまは縁側に腰掛けて暑い暑いと仰います。 時機を窺っていた私は洗いたての手ぬぐいを持って、お傍へ参ります。 傍らに膝をつけば、私にまで幸村さまの熱気が伝わってくるよう。 さあどうぞと手ぬぐいを差し出すと幸村さまはにこりとして、かたじけない、と私に笑いかけてくださいました。 幸村さまが首筋の汗を拭っておられるのを、私はじいと眺めるのです。 いつもは長く伸ばされた一掴みの御髪で隠されているうなじ。 幸村さまが少し首を傾げて手ぬぐいを行き来させると、筋がはっきりと見えて。 髪の生え際からは玉のような汗が浮かんでは拭われ、拭われては浮かんで。 熱気の立ち込める様は陽炎に似ていて、透かし見た向こうのお庭の景色が歪んで映って。 そうして、六文銭を吊るす紐が、まるで首を討つ際の目印のように、そこにあって。 私はもう辛抱ならず、幸村さまのうなじに鼻先を埋めてしまいました。 「ひあっ!な、なに、、何をっ」 「幸村さまが芳しくて、つい」 「か、芳しいことがあるか!汗臭いであろう、離れよ!」 「汗臭いのがたまらないのです…」 なんとか逃れようとする幸村さまの首に、私は尚も鼻を押し付けます。 すんすんと音を立てながら、胸いっぱいに何度も吸い込むのです。 幸村さまはその度にびくりと震えてしまわれます。 しまいに辛抱堪らなくなった幸村さまが私を全力で引き剥がすまで、 私は少し鼻につんと来る汗のにおいの中で恍惚と瞼を閉じるのでありました。 |
雑巾掛けを終えての戻り道。 廊下の先に見えた広い背中に向かって、幸村さま、と私が声を掛けると、幸村さまはぎくりと肩を震わせました。 悪戯の見つかった童のようにおどおどして、如何した何ぞ用か、などといやに張り目のお声で仰せです。 私は、偶然であっても大好きな幸村さまのお姿を拝見できて嬉しいのです。 そう申し上げると幸村さまも嬉しそうなお顔で、そうか俺も嬉しいぞ、よう励んでおるな、と褒めて下さいました。 私はまた、そう仰って頂けて嬉しいです、と返事をします。 堂々巡りになってしまって、これでは終わらぬ、と幸村さまは笑って仰いました。 それから幸村さまは私の横に並び立って、どれ持ってやろう、と仰るなり、私から桶を取り上げてしまいます。 お返しください、と私が慌てて取り返そうとしても、幸村さまはすいすい身をかわしてしまわれるのです。 その折、不意に幸村さまのお着物の袖が私の鼻先を掠めました。ふわりと漂う香りに、私はぴたりと動きを止めます。 「幸村さま、またつまみ食いをなさりましたね」 「――否、何の話だ」 「お口にたれがついておりますよ」 私が自分の口元を叩いて示すと、幸村さまは慌てたご様子で手を口に遣りました。 取れたか、と私を横目で見ながら何度も擦っておられます。 幸村さま、と私が声を掛けると、なんだ、と未だ焦ったようなお返事がありました。 「申し訳ございません、嘘でございます」 「なっ、やはり!おかしいと思ったのだ、俺は小介のおはぎは頂戴したが、六郎の団子は手付かずで…」 「誘導尋問だったのです」 私がそう申し上げた途端、幸村さまは苦いお顔をなさいました。 やりおったな、と憎憎しげに呟かれたので、私は雑巾を持ち上げて、あらあんこが、と言いながら幸村さまの口元を拭う素振りをしてみせます。 幸村さまはまたすいすいと私の手を避けて、今度は先に廊下の向こうへ駆けて行ってしまいました。 甘い残り香を辿って、怒りに震えた小介殿がいらっしゃるまで、あとわずか。 |
奇襲があったのは、もうとっぷりと夜も更けた刻限のこと。 櫓から聞こえてくる合図の音が、かんかんと響きました。 幸村さまは一気に身を起こし、何も仰らずに寝所の襖を開けて飛び出して行かれます。 いえ、何も仰らなかったわけではありませんでした。 低い小さなお声で、此処から動くな、という意味のことを早口で言われましたが、私にはうまく聞き取れなかったのです。 私は夜着を胸まで引き上げて、しばらく待って、 待って、 待って、 お待ち申し上げておりました。 すると突然に背後で物音があったので、真田忍のどなたかかしらと振り向こうとすると、 「真田幸村は何処だ」 「どなたですか、真田忍ではありませんね」 「真田幸村は何処だ」 首に冷たいものがひたりと押し当てられ、同じくらい冷たい声が降って来ました。 真田忍以外に答える口は持ち合わせておりません、と私が告げると、どなた様かは苛ついたように舌を鳴らします。 けれども、脅しに屈するわけには参りません。 というよりも幸村さまがどちらに向かわれたかなど、ずっと待機していた私が与り知るわけがありません。 いよいよ私が口を割らないと見えて、どなた様かは小太刀を振りかぶりました。 心の臓がさっと冷えたような心持ちがして、私は咄嗟に目を瞑ります。が、 「其のおなごにかすり傷ひとつでも負わせてみよ、直ちにそなたの首が宙を舞おうぞ」 ぽたりと、頬の上に生温かいものが降りてきて、私は目を開けます。 そこには瞳をぎらりとさせた幸村さまが槍を構えておられました。 生成りの色をしていたはずの寝巻きがまるで赤襦袢のようになっていて、私の頬に落ちてきたのも、幸村さまの槍から滴るその染料だったのです。 私は全くの無傷ですが幸村さまは怒り心頭のご様子で、私の背後のどなた様かの肩に槍を突き立てました。 耳のすぐ近くで苦痛の呻きが聞こえ、その恐ろしさに身を竦ませると、幸村さまは私の頭をすっぽり抱え込んで下さいました。 何も聞かぬよう、 何も見ぬよう。 幸村さま以外の何物をも、決して。 再び瞼を下ろすと鼻腔に漂ってくるのは、血のにおい、泥のにおい、火薬のにおい。 |
おはようございます、よくお休みになられましたか。 襖を開けると、幸村さまはまだ醒めきらないご様子でぼんやりしておられました。 起こした上体の胸元ははだけて、幸村さまが欠伸をなさると、胸に入った空気で厚い胸板が一層に盛り上がるのが見えました。 さあさあお顔を洗われませ、お体もお拭い致しましょうか。 傍らに置いた桶を持ち上げると、井戸から汲み上げたばかりの水がとぷんと揺れます。 私はそれを持ったままお部屋に入り、また腰を下ろして襖を閉じました。 幸村さまは未だぼんやりしておられます。 「幸村さま、さあ、ご自分で動いて下さらないのなら脱がせてしまいますからね」 「…………」 「もう。本当に今朝は如何なさいました、お加減が優れませんか」 すでに半分着ていないのと同じような寝巻きを肩からずり下ろして。 固く絞った手ぬぐいで背中を拭いて。 本当に反応が無いことが心配になりながらも、夜着を払って下穿きの方へ手を伸ばして。 その瞬間に、幸村さまの意固地の原因が分かりました。 「……幸村さま、子種をこのように使われては勿体のうございますよ」 少しぬるついた手触り。 鼻へ届くにおいを形容するのに、いつか武田軍が九州に出陣なさった際、ザビーなる人物から送られてきた腐った烏賊のにおいを思い出した私は、間違っているでしょうか。 幸村さまはかくりと首を倒して私の肩にもたれかかり、昨晩そなたが参らぬ所為だ、と耳を赤くしながら言われたのでありました。 |
朝早くから遠駆けに行ってしまわれた幸村さまは、夕暮れに戻って来られました。 途中で善からぬ者らと対峙したらしく、装束のあちこちが汚れておりました。 それを洗濯する役目を仰せつかり、私は両腕に幸村さまが脱いだばかりのお着物を抱えて井戸へ向かいます。 道中、誰も見ていないことを確認して、腕の中のお着物に思いっきり顔を埋めると、 いったいどこまで行かれていたのやら、山に入ったときのような色濃い緑のにおいがしました。 裾は、潰れた草のにおい。 胴は、古い木肌のにおい。 袖は、川べりの苔のにおい。 背は、照らし続けてくれた陽のにおい。 肩は、刃の切っ先が掠めたらしく、破れております。 そうして順ににおいを嗅いでいくと、胸のあたりは花のにおいがしました。 珍しい、幸村さまから食べ物以外の甘い香りがするなんて。などと考えていると、井戸は目前でした。 伏しがちだった視線を上げて、手桶を深い井戸に放って、水を汲み上げて。 いくら名残り惜しくてもこれらの香りを消さなければ私は夕餉を支給してもらえないのです。 ざぶざぶと音を立てながら、揉んで、擦って、押して、染み込んでしまった汚れを洗い流していきます。 時折跳ねた水を無造作に腕で拭うと、青っぽい、井戸のにおいを感じました。 さてこれで女中頭も文句のつけようが無いだろうというくらいにまで幸村さまの装束をきれいにした私は、立ち上がって腰をうんと伸ばします。 それからまた両手いっぱいにお着物を抱えて、あるはずのない残り香を求めて、やはり鼻先を近付けながら歩いて行きます。 「は、俺のにおいがそんなに好きか」 突然声がして顔を上げると、着替えを済ませた幸村さまが目の前に立っていらっしゃいました。 私は、はい、と答えたあと、今日はどんなにおいがしたのか指折り挙げてゆきます。 草、木肌、苔、陽、刃の焦げ付き、それから花。 花まで数えると幸村さまは驚いたお顔をなさって、よく気付くものだ、とどこか拗ねたように仰いました。 私は咎められたのかと不安になって、お気に障りましたか、と幸村さまに尋ねました。 幸村さまは黙って首を振り、私の眼前に小さな花を差し出して、優しいお声で言われます。 「土産に驚いた顔が見たかったのだが、また別の策を考えるとしよう」 私はその花を受け取って、ありがとうございます、と言い、幸村さまと並んで帰り路を辿りました。 その道中も頭の片隅で、ああこれは箪笥のにおいかしら、と考えていることは、もしかしたら幸村さまにはばれているのかもしれません。 |