――お館様のご容態は以上。ま、良くもなく悪くもなく、ですね」



報告を終えた佐助が質問を促すような視線でこちらを見上げてくる。は「分かりました」と返事をしてから、佐助の目をまっすぐに見つめ返した。次に出てくる言葉が分かっているのだろう、にらめっこに負けたのは佐助だった。



「それで、幸村様はいつお戻りになると仰っているの?」

「……いやぁそれが中々……ねえ?」



彼の視線は“分かってくれ”と懇願してくるようだった。
予想に違わぬ反応に、からは溜息も出てこない。そのまま表情を崩さず「分かりました」と言葉を繋げば、佐助は「いやだその顔こわい…」と小さく漏らした。



小牧の戦で信玄が倒れて一月になろうとしている。

武田軍は甲府の躑躅ヶ崎館へ帰還し、幸村を大将へ据えることで事態の巻き返しを図っていた。幸村はその期待に応えようと懸命に働いている、というのがの聞いた全てだ。
彼は躑躅ヶ崎の館に設けられた自室を新たな根城としていて、城下にさえ下りて行こうとしないのだそうだ。誰が何と言おうとも、たとえ評判の良い甘味処があろうとも、である。

決して器用ではないが、まっすぐ進もうとする姿は変わらないらしい。
はようやく息を吐いた。佐助も安堵した様子なのが微かな身振りで窺える。



「…幸村、ちゃんと食べてる?」

「多少早食いになったけどね、そこに関しちゃ心配いらないですよ。
 自分まで倒れたらどうしようもないって分かってるみたいだし」

「ちゃんと眠れてる?」

「もうぐっすり。頭なんか普段使わないもんだから、疲れるんでしょうね。
 あー…でも、夢見はいまいちみたいで、なんか水中に居て声を聞くんだとか…」



そこまで言って佐助は口を閉ざした。うっかりしていたとしか言いようが無い。
ようやく納得しそうな気配だったは、再び表情を無くしてしまった。硬く結ばれた口の端はよく見れば震えているかもしれない。自分も甲斐へ連れて行けと言いたいのを、ぐっと堪えているのだ。

どうしたものかと腰を浮かしかけ、思い直してまた降ろす。そうして佐助はを見上げた。忍らしく控えていた先程までの体勢と比べると、畳に腰を据えている姿は幾分砕けた風に見えた。



「……え、っと。うなされては無いよ、眠りが浅い訳でも無いみたいだし。
 あのー、ほら、目の隈だって全然ないし!だからそんな顔してないでさ…」

「わたくしは普通ですもの。あなたがおかしいのでしょ」

――頼むよ、今の上田には姫さんしか居ないんだ。
 いつも通りに笑ってくれてたら、それがきっと甲斐や上田や、旦那のためにもなるんだから」



は姿勢を崩さないまま、瞼だけを伏せた。「そうかしら」という呟きは静かに零されたが、佐助はそれに対して「当然ですよ」と返事をした。これも決して大きな声では無かったが、にはしっかり聞こえた。

分かりやすいご機嫌取りだと、自嘲気味な笑みが浮かぶ。現実には、幸村が戻らないことで寂しい思いをしないようにと、の方が上田の皆に気をかけて貰っているようなものなのに。


は静かな所作で床の間へ腕を伸ばし、活けられていた花をひとつ抜いた。茶席でもあればと詰んでおいた、白の木槿だ。それを懐から取り出した薄い紙に包み、端を折る。どうせ暇もないだろうから、文はつけないことにする。

心得ているとばかりに佐助が手を出してくるが、はまだ渡してやらない。茎の方を両手で握り、花弁を口許まで寄せて目を瞑る。お祈り?と不思議そうな声色で聞かれたので、首を横に振って返事をした。祈りとか願掛けといった立派な類のものではない。ただこの花が、役に立たぬ身に代わって少しでも幸村の心を慰めてくれたらと思う。



「上田の留守はわたしが預かります。
 だから、甲斐を…幸村を、よろしくお願いね、佐助」

「まぁ、ね。今年分のお給金も頂いちゃってますし。
 麗しき御方様の御身が為とあらば、ってとこかな――そんじゃ、行って来きますよ」



ようやく受け取った花を懐へ仕舞い、いつもの軽口を叩いてから、佐助は姿を消した。
見送りになるのかは分からないが、はしばらく佐助の消えた天井を見上げていた。


どうすれば自分は役に立てるのだろう。
そのままで居れば良いと佐助は言っていたが、それしか無いのだろうか。

例えばあれくらい身軽だったら。
さもなくば、もっと武芸に秀でていれば。
力が無くとも、それを翻弄するだけの頭があれば。

いっそおんなでさえ無ければとまで考えて、自分でもばかげていると可笑しく思った。











◎ ◎ ◎
◎ ◎ ◎












飛騨の碧落と呼ばれる城、その周囲の高低を記した軍略図。
金ヶ崎に落ち延びた敗走の徒、その動向および予測、対処。
長谷堂に運び込まれた大きな荷、その正体や使途についての推論。


両手でがしがしと髪を掻き回し、幸村は呻きながら背を曲げた。
そうすると届けられた報告書の山に危うく顔を埋めそうになったので、慌てて居住まいを正す。ちらりと横目でそれら密書を見遣っても何がどうなる訳もなく、どれから手をつけたものか、幸村はいよいよ頭の奥が芯から重くなっていくのを感じた。

国主の下にこれほど多くの情報が届けられていたとは、幸村はこれまで知らなかった。領主の下に集められる情報は、いま彼が眺めている情報よりもずっと身近なものだった。城下の治安だとか、近くの村の飢饉だとか、どこぞの山に賊が出るだとか。他国の動向といえば精々奥州伊達や越後程度でないと判断も想像も難いという有様には、誰よりも幸村自身が愕然とした。

今までは信玄が寄越してくれる情報が全てだった。上田の統治にはそれで十分だった。
だが、今の幸村は病に臥せった信玄の代わりに甲斐武田の総大将を務める身である。分からぬとごねたところで誰かが決めてくれる訳ではない、自分が武田の道を拓かねばならないのだ。


ばちん!と大きな音を立てて、幸村は自分の頬を叩いた。
信玄に食らわせられる拳にはちっとも足りないが、少しだけ気分が切り替わる。「よし」と誰にともなく呟いて、山からいくつかを無作為に取り上げた。

旧豊臣が瀬戸内へ進行の兆候あり。毛利との合戦または何がしかの取引と目される。
前田の奥が拐かされたとの噂が加賀で静かに蔓延っているとのこと。
小田原城の再建は順調、北条の老将も健脚、だが元の国力を取り戻すまでには至らない。



「佐助か」



慣れた気配を感じて天井の忍に呼び掛けると、「はっ」と静かな口調が返って来た。次の瞬間には、幸村の執務机の前に佐助が膝をついて控えていた。
この男もすっかり強情になってしまった。と、幸村は感じている。信玄が小牧の戦場で倒れた際、慌てふためく姿を見せてしまったからだろうか、佐助は今では幸村を“大将”扱いをするし、それに応えるだけの態度を求めてくる。自分で考えて自分で決めろと、それが一国の主の務めだと、理屈では分かっているものの中々努力が結実しない幸村の尻を叩いて来るのだ。今日も叱責されるのだろうかと一瞬暗い気持ちになりながら、幸村は新たな報告書を受け取った。



「まつ殿が拐かされたとは真か」

「仮に真実だったとして、前田としては隠しておきたい事実だ。そう易々と教えちゃくれない。
 だが流言だったとしても、そんな嘘を流す目的が見えない。まだ調査中ってとこだね」

「そうか。…安芸にて合戦の兆候というのは」

「起こることはまず間違いない。だけどその裏の思惑が読みきれない。
 その点に関しちゃ面目ない次第で、俺様もそろそろ見物に行こうと思ってたとこ」

「そうか。………」



佐助から巻物を受け取り中をざっと検めつつ、疑問に思ったことをつらつらと問う。忍はそれらに対して的確な返事を実に端的に寄越してきた。この忍が言うのだから、きっと毛利と石田は事を構えるつもりなのだろう。だがその真意は佐助にも分からない。つまり幸村にも分かる訳がない。
幸村は再び両手で頭を抱え込んで「うううぅ」と苦悩の声を上げた。それを見た佐助は呆れたような息を吐き、間延びした調子で「大将さぁ」と言う。



「いっぺん御方様のところ戻った方がいいんじゃないの、まじで。
 大将はまだ戻りませんって伝えるの、結構断腸の思いなんだぜ?」

「いや、まあ、うむ…その点についてはすまぬと…」

「とか言って、思ってないだろ」

「おも、思っておる!!だが俺は甲斐武田の大将なのだから、
 いくら己の奥と云えどおなごに現を抜かしてはならぬと日々精進を」



佐助は「はいはいすみませんでした」と言いながら、ぶらぶらと手首を振って“もう十分”との意思表示をした。 最近は随分と気落ちしていたように見えたが、傍迷惑な大声は健在であったらしい。

言葉を引っ込めた幸村は大の字で床へ倒れこんだ。しかし佐助は微塵も驚いた様子などなく、何やら床の間の花瓶をいじっている。幸村は横目で忍の足元を眺めながらもそもそと喋った。



を前にしたら、己の責務を見失いそうなのだ。
 幼子のように縋って…離れられぬやも知れぬ。……それでは、あまりに、みっともない!」



今の自分は誰の信頼にも応えられていない。そんな中でを呼び寄せるなり上田に戻るなりして、偉大な信玄公と違って真田の若虎は女と遊んでばかりだなどと思われたくないし、この程度で根を上げる男だったのかとに失望されるのも嫌なのだ。
我を通しているという自覚もあるが、幸村はそうする以外に道は無いとも思っている。

花瓶をいじり終えた佐助は軽く首を傾げ、あーあ、と溜息混じりに呟いた。幸村はさっぱり気付いていない様子だが、元から活けてあった花の中に白い木槿が新たに挿されている。様々な人間に成りすまさなければならない仕事柄、芸事も広く齧った身であるが、どうにも花はうまくこなせている気がしない。



「ま、めおとの問題にこれ以上野暮な口を挟むつもりは無いよ。
 そんじゃ俺様もう行くぜ。お天道様のご機嫌が変わらない内にな」

「うむ、くれぐれも気をつけて行け。それと道中、良い薬の噂でもあれば―」

「あーもー分かってるよ!
 大将こそ、例の夢、何か変化があったらすぐ忍隊に言って下さいよ」



身体を起こした幸村に見送られ、佐助は瀬戸内へ向けて姿を消した。
近くの襖を開ければ、空の所々に雲が見えるものの陰っているというほどではない。佐助の言った、気を変えるかもしれないお天道様とは、毛利のことなのだろう。


幸村はもう一度、届けられたばかりの書を開いた。
上野国の川沿いで、白い大きな獣が度々目撃されている。その獣が食い散らかした村の数は日に日に増え続けており、あろうことか獣の進路は我が国との境へ近付きつつあるとのこと。

片手で顎を掴みながら、ほんの少しの間、思案する。
飛騨、長谷堂、小田原はまだ様子見をするだけの猶予はある。金ヶ崎は注視する必要があるものの、下手に刺激をしたくない。



――誰ぞあるか。軍議の場を整えてほしい」



分かりましたと小姓が答えるのを聞き、幸村は着物の袷をきちんと直した。
向かうべきは上野国であると、胸の内で誰かが囁くようだった。

















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