上野国をぐるりと巡るように流れるその川は、やがて大河と交わり下総から外海へと抜ける。 川の源を湛える山は越後・信濃・上野の三国に隣しており、幸村が居城を構える上田から見れば北東の方角にある。もっとも、国境の辺りは山あいの地であるため、遠目にはどの峰がどの山やらの判別は容易でないが。 その川―神流川の流域では、近頃白い大きな獣が霧と共に現れるのだそうだ。獣の低い唸り声は地面を震わせ、間近でそれを受けようものなら人さえもよろける程の威力らしい。 そのような危険な存在が上野国を越え甲斐信濃へと侵入せんとしているという状況なのだ、軍を動かすことに反対する者は居るまい。不満を抱く者があるとすれば、それはきっと、上田を横目に見ながらも素通りしていくことになるからだろう。 甲斐を出て、通い慣れた信濃への道を辿った。 けれどもその道とは途中で別れ、東へ進路を取る。 山がちな信濃を横断する道程ゆえに、上田の地もまた、山頂から見下ろすことができた。遠目には以前と変わらなく見える彼の地に、が居る。まだ戻るべき時ではないのだと、伝わるあての無い眼下への弁解を胸中で呟いた。 国境の山を跨ぎ、神流川沿いに歩を進める。 久々の行軍に幸村は逸っていた。 馬の背に揺られながら、前後左右に気配を巡らす。耳を欹て、遠い景色を瞳に入れる。少しぴりっとした空気が肌に心地良い。懐かしい、戦場の空気だ。この空気の中に身を投じてみると、やはり自分は、机に向かって頭を捻っているよりこうしている方が性に合っているのだなと思う。咎められそうで、とても口には出せないが。 まだ領地を超えてから幾許も経たない内に、幸村は遠く地面が霞むのを見た。忍隊が幸村の乗る馬の足元へ降りて来て、「近いようです」と言う。幸村は右腕を真横にぴんと伸ばし、後続の兵たちに静止を呼びかけた。ぱかぱか鳴っていた蹄の音が静かに消えていく。 耳と肌に神経を集中させると感じる、微かな地鳴り。 幸村は馬を降りた。背にくくり付けていた二槍を解き、両手に持つ。 周囲の木立はざわつき、つい先程は遠かった靄はもう足元にまで漂っている。 馬を下がらせ、槍の柄を握り、迎撃の姿勢を取ったその時。木々を薙ぎ倒し、岩を飛び越え、白く大きな塊が猛然とした勢いで飛び出して来た。ごお、と鳴るような唸りが目の前で発せられ、波のように衝撃が押し寄せる。 「山犬よ、良き咆哮だ!! この幸村も負けてはおれぬ!うおおおおお!!」 犬じゃなくて虎だぁ!という武将たちの悲鳴は、負けじと響く幸村の吼えるのに掻き消された。 ◎ ◎ ◎ 「今日の元就様、なんかお優しくて…ちょっと不気味だよなあ。 聞いたか?“怪我をせぬ程度に励め”だってよ」 「それより凶王だろ、なんだって大坂に居残ってるんだ? 毛利軍をなめやがって!……いや、大谷ひとりでも怖ぇけど…」 瀬戸内に到着した佐助は、萌葱の鎧に紛れてあちこちの会話に聞き耳を立てていた。 それによるとどうやら、毛利・石田両軍ともこの戦にあまり兵力を割くつもりは無いらしい。石田軍に至っては総大将が大谷吉継ひとりという有様である。 「伝令、でんれーい! 大谷殿は元就様とご会談したいと仰せである!道をあけい!」 そこへ、身分の高そうな武将が毛利軍旗を掲げながら一般兵たちの間を縫って登場した。武将の背後には大谷吉継が輿に乗って浮かんでいる。いつものことながら、浮かぶ輿はどのような機工をしているのかと思わずに居られない。 大谷は連絡用の小船に案内され、毛利の座す母船へと向かうようだった。物陰から窺っていた佐助は、海面から死角となるよう身を動かした。大谷が僅かに首を回し、こちらの方を見た、気がした。あちらからは決して見えていないはずだが。 (毛利と会談…?何を企んでいる…?) 当代きっての知将が二人。しかも、どちらもただ明晰なだけでなく、腹に秘めた黒いものが外見にも見て取れるような、厄介な種類の人間だ。何を企んでいるのかは計り知れない。なぜこの二人が共謀する仲となったのか、切欠もいまいち見えない。ただ、この折、この戦場で会談を持つということは、当面両軍は手を結ぶだろうということだけは分かる。 不意に、ざわつく戦場に、風が吹きぬけた。 内海とはいえ海上で吹いたにしてはその風は清廉で、混じりけがない。佐助はその風を知っているような気がした。いつだっただろう、同じように混じりけのない、力強い風をその身に受けたように思う。だがその感触を思い出そうとすれば嫌な記憶に辿り着きそうだったので、今は深追いしない。それよりも毛利と大谷だ。 船橋の前は混雑しているので、帆けたまで飛び上がる。そこから母船へ向けて滑空し、物陰を伝って上層を目指した。件の会談とやらは最上層で行われているに違いなく、いまこの場での最上の形は、毛利・石田両軍の同盟を武田の利とすることだ。 「――どーもぉ。申し訳ないんだけど、その内緒話、俺様も混ぜてくんない?」 ◎ ◎ ◎ 「なんて言ったかしら、ともかく向こうのお山の方らしいんですけれど、 赤い鎧のお侍さんたちがたくさん入って行ったのを見たって、出入りの商人が」 「ええ。武蔵国…までは行かないそうだけれど、出立されたそうよ」 お茶を運んできた若い女中が熱心に語る傍ら、は文箱の漆を磨いていた。 幸村は意地でも甲斐を動かないつもりのようだったが、文を出せば返事はあるので、文箱の中身は増える一方である。開けては文を取り出し新しいのを入れたりしている内に、曇りなく仕上げられていた漆に指の跡が付いてしまった程だ。 女中は「まぁ」と呟いて目を丸くした。彼女の内心では、幸村に対する不満がさぞかし渦巻いていることだろう。文を寄越すばかりで姿を見せる気配も無く、甲斐から動かないのかと思えば近くまで来ていて、けれどそれについての知らせは無く。 は手を止め、苦笑いを女中に向けた。自身は、先日の佐助の報告で各地の様子も聞いていたので「やっぱりか」と思う程度だが、彼女たちにしてみれば寝耳に水なのだろう。 「そんな顔しないで頂戴、幸村様はお忙しいんだから。 もしかしたら帰還の折にお戻りになるかもしれないでしょう」 「ですが……いえ、そうですわね。 幸村様がいつお戻りになっても、万端の準備でお迎えしないといけませんもの!」 不満顔を引っ込め、若い女中は気合を入れた様子で頷いた。切り替えの早さとこの熱の入り様は、勤めてまだ日が浅いといえども立派な真田の女中である。 彼女が空になった湯呑みを持って下がろうとしたその時、慌しい足音が廊下の奥で響いた。 何やら焦っているような、大きな声も聞こえてくる。こちらまで響いてくる音は然程大きなものでは無かったが、ただ事では無いといった様子に感じられた。 は天井を仰ぎ、居るであろう忍に向かって「何事です」と問いかけた。暫しお待ちを、という忍からの返答は一拍の間を置いて返ってきた。幸村がひょっこり帰って来た、などという事情であれば良いのだが、の勘はそうでないだろうと告げている。 不安な様子の若い女中を傍に控えさせたまま、待つ。 それから少しして、大きな足音がの居室へと向かって来た。 「奥殿。ご無礼ながら、火急お知らせしたく!」 「構いませぬ。何事ですか」 本来は侍女を通してに話が伝わるのだが、作法などに構う余裕は無いらしい。男の声には戸惑いを隠しきれていない様子が襖越しでも感じられた。 が話を続けるよう促すと、伝令にやってきた男は一層熱を込めて語った。 「は!先刻、伝令兵より入りました情報によりますと、 武装した騎馬の集団が地蔵峠にて目撃されたとのことで、まもなく上田南方へ到達するかと…」 「地蔵、峠…?も、もう目の前ではありませんか!」 地蔵峠は上田のすぐ東に面した山中にある峠道で、そこを下りきると、上田と小諸城下の町との中間の地に出る。騎馬であれば大した時間も掛からず上田へ辿り着くことが可能な距離だ。 は思わず立ち上がり、目の前の襖を勢い良く開けた。 傍に控えていた若い女中も廊下に膝をついていた汗だくの兵士もぎょっとしていたが、それこそ作法などに構っている余裕は無い。は男に、集団の特徴について語るよう命じた。 「その集団の馬は手綱が柄のようになっていたり、鐙が小筒で設えてあったり、 とにかく妙な装飾が施されており…衣装の色は青や黒で…恐らくは、」 「――伊達軍で間違いないでしょうね」 は深く息を吐いた。とかく時機の悪い時にばかりやって来るという、伊達軍である。彼らは信玄が病に臥す少し前に小田原から奥州へ撤退したという話だったが、再度の上洛に打って出たのだろうか。 は襖に手を掛けたまま思案した。幸村を始め、主立った武将は不在だ。忍隊は居るが、佐助の居所はも知らない。だから早く逃げろと、目の前の兵が言いたいのはそういう事だと分かっているが。 「…市は閉じて、みな家から出ぬように申し伝えましょう。 旅の者や遠出をしてきている者は城に入れても構いません。 裏から山へ通じる道があった筈です、城内の女子供と共にそちらへ誘導して」 「御方様、」 「忍隊は今すぐ幸村様にお伝えを。お館様のご負担にならぬよう、甲斐への伝令は慎重に。 …その様な顔をせずとも、伊達政宗公を相手に応戦しようなどと自惚れてはいません」 泣きそうな顔の女中へ、言い聞かせるように最後の言葉を付け加えた。 まさに目の前で城内を荒らしまわられているとでもいうなら話は別だが、僅かながらまだたちには時間がある。伊達軍が進路を変えないとも言い切れない現状、自ら危険を呼び込むような真似は出来ない。 「けれど、わたくし達は、上田の留守を任されているのです。 少しでも幸村様のお力添えとなれるよう、そなたらも力を貸してくれますね」 「む、無論にございます!」 はその場で腰を屈め、平伏する男の頭上に投げかけるように言葉を紡いだ。間髪入れない返事に頷き、先程から固まったままの女中を見遣って、また頷いて見せる。はっとした様子の彼女はに向けて一礼すると、着物の袖を捲りながら部屋を出て行った。 それに続くように伝令に来た男も一礼し、具足を鳴らしながら立ち去る。 民への指示は出した。伝令についても一応指示したが、こちらは忍隊の方が上手く判断し、然るべき相手へ伝えてくれることだろう。 「…御方様、長より連絡が。 瀬戸内での諜報を終え、既に帰途にあるとのことです」 ひとりになったの頭上から、控え目な声が届いた。先程「何事か」と聞いた忍が戻って来たのだろう。佐助が戻って来るというのは頼もしい、が、如何せん瀬戸内は遠い。 先に大手門を閉じさせた方が良かっただろうか。いや、それでは城内へ民を匿えないか。 留守は預かると豪語したものの、他に自分には何ができるのか、はいっそ泣きたいような気分だった。
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