近頃、伊達政宗の心中は奥州の冬のように荒れ模様だった。 その原因は、例えば彼の腹心の小言がいつにも増してうるさいだとか、友好の品として届けられた荷が好意的な解釈の余地などないほど危害を加える気満々な品揃えだったとかである。だがそれらは喩えるなら雪片のようなもので、木枯らしが吹いているからこそ粉雪は吹雪になるのだ。 最近の政宗にとっての木枯らしとは石田三成である。 小田原で彼の男に敗れ、不様にも意識の無いまま奥州へ帰還した。その事実が重く圧し掛かり、時に政宗を絶望させ、時に怒りへと駆り立てる。だが国主としての気概を失ったわけではない。一人の武将として、国の主として、次に進むべき道は見据えているつもりだ。 政宗の視線は今は三河に向いていた。例の、友好的に見えない友好の品を送りつけ、小十郎の畑を穴だらけにするという荒業をやってのけた男と同盟を結ぶためだ。 徳川家康。彼もまた石田三成と縁の深い人物であり、政宗とは旧知の仲だった。同盟を結ぶのに、これほどお誂え向きな相手はそう居ないだろう。 聞くところによると随分身体も大きくなり、相変わらずなのは鎧の色くらいだとかいう話である。かつては今川の人質として窮屈そうにしていたあのいがぐり頭の少年が、豊臣を倒した今では東照と称されるようになるのだから、やはり時代の流れというのは分からないものだ。 そんなことを考えている内に、ある程度動けるまでに傷は癒えていた。 伊達軍は奥州の根城を発ち、三河へ向かった。道など無視して山を越え谷を越えるのでなければ、主だった道すじは二つあった。ひとつは奥州からすぐ南に向かい、鎌倉街道から東海道へ海沿いに三河へ至る道。もうひとつは東山道沿いに内陸をひたすら進む道である。 前者は常陸の佐竹を攻めた回数を考えれば通い慣れた道なのだが、相模の小田原を通るというのが今の政宗には面白くない。こちらの道は石田を倒した後の帰路に使うとして、先ずは東山道へと進路を向けることにした。何より、この道は信濃を通るというのが粋ではないか。 小田原での一件とほぼ時を同じくして、甲斐の虎が戦の最中に病で倒れたと聞く。そのせいで彼の好敵手たる真田幸村はすっかり気落ちしてしまっているというのが黒脛巾からの報告だった。代理とはいえ大将を名乗る男がそのような有様だとは、武田軍の兵たちが哀れだとしか言いようが無い。 打ち合いでもすれば奴も多少は喝が入るだろう、と、半分くらいは自分の願望の混じったことを考えながら、切り立った崖の端に立つ。 この細い峠道で最後の休息を取ったら、この小さな山など一気に突っ切ってしまおう。そうすれば直に信濃が見えてくる。 「Targetは目の前だ!気合い入れろよ!」 政宗は愛馬の元へ戻り、地べたに座り込んでいる自軍に声をかけた。 「Yeah!!!」と木霊する声が小山に響き、どこかでこちらの様子を窺っているであろう真田の忍の耳にまで届いたろうと思うと、不敵な笑みさえ浮かんでくる。準備は万全だ。 ◎ ◎ ◎ 帰るべきか、帰らざるべきか。 神流川の白い山犬を大人しくさせた武田の一行は、信濃を目の前に行軍を止めていた。一団の中には、当然このまま上田に寄るものと思っている者が少なからず居る。それくらいは幸村も理解しているのだが、いざ上田へと指示する声は胸につかえて中々出てこない。事が落ち着くまでは、奥といえども女に現を抜かさぬようにと、密かに立てた誓いが邪魔をしているのだ。 一度顔を出した方が良いのだろうとは分かっている。 だが、一体どんな顔でに向かったものだろう。 煮えきらない表情で頭を抱える幸村を、周囲は何も言わず待っていてくれている。こういう時は声に出して頭の中を整理する方が良いのだろうが、生憎と佐助は偵察で不在である。 上田へ寄るべきか。甲斐まで戻るべきか。 思案の最中、すぐ近くの茂みがわさわさと音を立てた。 山中にあって警戒心も何もなく、その気配は近寄ってくる。一瞬、幸村は槍に手を伸ばし俯いていた頭を持ち上げたが、どうにも気を削がれ、腕を引っ込めてその気配の来る方を見つめた。 くしゃり、草を踏む音がして、小枝の折れる音がぱきぱきと鳴り。木漏れ日の奥から大きな影がひょいと顔を覗かせた。 「あっれぇ、幸村じゃないか。 甲斐の大将さんがこんなとこで何してるんだい?」 影から聞こえてきた声は予想通り、馴染みの人物のもので。幸村はわざとらしく大きな息を吐き出すと、大きな影もとい前田慶次に向かって顔を顰めて見せた。 「確かに境は幾らか越えておるやもしれませぬが、この小山を越えればすぐに我が領地。 慶次殿がこの地に居ることに比べ、何ぞ不可解もありますまい」 「そんな睨まなくたっていいだろ、おれはただの謙信のおつかいだよ。 高野ついでに加賀も見てこいって言われてんだけど、気が乗らなくてさぁ…」 慶次はそう言って、休息を取る武田軍の中にどかりと腰を下ろした。相変わらず堂々とした居座りっぷりに面倒くさくなり、幸村は顰めた眉を元に戻した。仮にも世話になっている者の頼みを“気が乗らない”と言ってのける神経は全くもって理解できないが、それを追求したところで無駄だ。それくらいは学んだ。 それよりも幸村は、甲斐の大将として慶次の話に付き合うことにした。 高野へ遣いを出すというのは何の意図あってのことだろうか。仏門の徒として金剛峰寺に言付けでもあるのか、それとも上杉軍の将として雑賀に火器の相談でもするのだろうか。 だが、おかしい。この東山道は奥州へこそ辿ることができるとはいえ、加賀へ行くには見当違いな方向へ伸びている道である。つまりこの男、遣いを放り出してどこぞへ流れて行くか、少なくとも加賀へは寄らず高野へ行くつもりなのだろう。 「加賀といえば……まつ殿はご息災か」 「まつねえちゃん?元気だと思うけど、なんだい急に」 以前届けられた報告の中にまつが攫われたという噂があったことを思い出し、幸村は尋ねてみた。耳が痛いという反応も期待しての言葉だったが、慶次は何かを隠す様子でもなく、のんびりとしている。幸村は「何でもない」と質問の理由を咳払いで誤魔化した。問われた相手よりも不審な様子の幸村だったが、慶次は特に言及するつもりは無さそうだった。 「じゃあこっちも、息災と言えば、は元気かい? あいつも大概、何ていうか虎のおっさんを信じきってるような感じはあったし、なんか心配でさ」 「む……いや、変わりない、」 今度は慶次が幸村に様子を尋ねる番だった。話の流れとしても、心配される理由としても、不自然なことは何ひとつ無い。だが幸村は返す言葉に詰まってしまった。最近のの様子なんて、書簡上の言葉でしか知らないのだ。耳が痛いという思いさせられたのは此方である。 幸村が小声で「…と聞いている」とばか正直に付け足すと、慶次は難しい顔をして「なんだそれ」と言った。 「喧嘩でもしたのかい?そりゃ、喧嘩なんて男と女の間にゃ付き物だけどさ。 だけどもしかして、その様子じゃ顔も合わせてないなんてことは……あり、そう、だな」 「違う!喧嘩などではあらぬ!某は……」 「じゃ、何かい。あんたは国に引っ込んではほったらかしってか。 そりゃあ、おれだってそちらさんの立場も知らないわけじゃないけど」 それにしたってさぁ、と慶次が再び溜息を吐く。幸村はぐうの音も出ない。 それを横目でちらりと窺い、慶次は迷いながら言葉を選んだ。 「どうもね…嫌味を言いたい訳じゃないんだけど。 そうだ、あんたには言ったんだっけ、おれの古い知り合いのこと。 自分の弱みになるって、ただそれで嫁さん手に掛けた大馬鹿野郎」 「ああ……」 「あんたにとってのって、確かにさ、弱みなのかもしれない。 でもそれだけじゃないだろ?…それだけじゃないはずなんだよ、絶対! とにかく顔出してやんなって。そうすりゃ分かるよ、おれの言ってること」 「たぶん。いや、絶対」とあやふやな語尾を口の中でごまかしながら慶次が言うのを、幸村は黙って聞いた。彼は一体何が言いたいのやら、いまいち分からないような分かるような、けれどやっぱり分からないような。 その時、不意に、思考の渦に嵌った幸村の耳元で「あー!!」という大声が響いた。 思わず身を竦めて反射的に武器に手を伸ばすと、「待って待って違う違う!」と焦ったような馴染みの声が改めて聞こえてきた。いつもの大鳥を片手に従え、まだ頭ひとつ分は宙に浮いている、佐助が居た。 「いや、っていうかあんた何やってんだよこんなとこで!」 「なんだ佐助か、お前こそ何故ここに居る。瀬戸内はもう良いのか」 「良かねぇけど、のんびりしてる場合じゃないでしょ。 伊達が来てるんだよ、すぐそこまで。分かってる?すぐ、そこまでだ!」 苛ついた様子の佐助は裾野を指差した。 すぐ其処まで、伊達が。幸村はその言葉を口の中で何度か呟いた。伊達が、もう目の前に上田が見えそうなこの地のすぐ傍、まで。 「なっ――、お前、政宗殿はまだ動かぬだろうと!」 「外したのは落ち度だ、でも、最後に判断するのはあんたの仕事だろ! とにかく戻ってくれよ、城に誰を残してるか忘れたわけじゃねえだろうな」 忍にぎろっと睨まれ、幸村は慌てて立ち上がった。 誰を残して来たか、思い出すまでもない。 慌しく出発の準備をする武田軍を尻目に、慶次もゆっくりとだが立ち上がった。よっこらせと腰を上げたあと背伸びをして、それから加賀とは反対の方向へ身体を向ける。やはり叔父夫婦に会うつもりは無いらしい。その背中がどうにも物言いた気で、幸村は馬上から「慶次殿」と呼び止めた。 「……その、差し支えなければなのだが。 例のお知り合いとやらは、その後どうされたのか聞いても良いだろうか」 気まずい様子で言葉を繋ぎ、幸村は慶次の様子を窺った。 少し驚いた表情の慶次だったが、すぐにその色は顔から消えてしまった。空を仰ぎ、返事はぽつりと零された。 「――……死んじまったよ、つい最近」 ◎ ◎ ◎ 「敵軍、水門に接近!」 見張り櫓に詰めていた兵の緊迫した声が上田城に響く。 は明り取りの小窓に張り付き、外の様子を窺っていた。女中たちがどうしても着替えろとせがむので、お気に入りの打ち掛けを脱いで大人しい柄の小袖に着替えていたのだが、こう押され気味では隠し通路から逃げる所の話では無くなってきたかもしれない。 市の閉鎖はなんとか間に合った。茶屋の緋毛氈から野良猫までもが屋内へと押し込まれ、城下町から大手門へまっすぐ伸びる大通りには枯葉の影くらいしか落ちていない。 その一方、城内はおしくらまんじゅうでもしているかのような混雑である。町に居た男衆は身の回りにあるもので武装して即席の戦力として集っており、それ以外にも集落の外れから働きに出てきていた女や親とはぐれた迷子なんかが一堂に会しているのだ。 城内から裏山へ抜けるために防柵を登ったり土塁を飛び越えたりする必要があるのも、城内に人が滞留している原因のひとつだった。本丸内部から裏山へ通じる、整備された抜け道もあるにはある。しかしそれは城内の構造を明け透けにするということで、たとえ一時的だとしてもが勝手に許可して良いわけがなく、裏山へ向かって列を成す人影はまだ途切れそうにない。 「ならぬ、水門を破られてはならぬ! ええい幸村様は未だ到着されぬのか…皆の者、なんとしても耐えるのだ!」 緊迫した兵たちの声と、子供の泣き声が入り混じって耳に届く。 弦月の前立てはまだ見えないが、敵兵の具足の色を見る限り相手が伊達軍であることはやはり確定的だった。大将伊達政宗はずっと後方に控えていることだろう。じわじわとこちらを消耗させ、幸村を誘き出そうとしているのだ。 だが幸村はまだ戻っていない。 もうすぐ、あと少しで、と誰もが言うが、“今”でなければ駄目なのだ。民の生活にも関わる堀の水を抜かれそうだという状況に置かれては、もう黙って見ているだけでは気が収まらない。は転がっていた帯締めの紐を掴み、袖を襷掛けに纏め上げた。そのまま素早く外へ向かおうとするに、侍女達が一瞬遅れて着いて来る。 「どちらへ往かれます、御方様!だめです、なりませぬ! 殿がきっと、もうじきにお戻りになりますから、お気持ちは分かりますけれど、」 「でも、堀の水を抜かれて困るのは誰です? 確かに幸村様もお困りになる、けれど民の生活に不便が出るのも事実。 せめて気を逸らさせなければ。…先に言ったとおり、まともに応戦するほど自惚れてはいません」 懐から髪紐を取り出して結わえ、右腕を伸ばして武器を催促する。侍女も護衛役も天井裏の忍も、誰もが言葉に詰まって互いの顔を見合わせ、はあと諦めを漏らした。物干し竿なんか渡して怪我をされるくらいなら、しっかり誂えられた薙刀を渡した方が良さそうだとの思いが一致した瞬間である。
奥州包囲網(宴片倉) 上田城水攻戦(3伊達) |