本丸最深部。背後には干からびた堀からのみ辿れる隠し通路がある場所で、は薙刀を片手にさっそく後悔しつつあった。
すぐ近くで生まれているはずの物々しい音が何故だかとても遠くに聞こえ、扉一枚隔てた先が戦場だということが信じられなかった。都にいた頃は直接に戦火を被ることは無かったし、物騒なことも身近にはあったとはいえ精々が十人規模の小競り合い程度だった。百人、千人が入り混じる戦を肌で感じるのはこれが初めてだ。

怒られるだろうなぁと思った。たとえ幸村が遅かったからという理由があれど、戦事には手も口も出さないという暗黙の了解を破ることになるのだ。


いや。もう来てしまったものは仕方無い、どうしようもない。
は手の平で頬を軽く叩き、気合を入れた。幸村がよくこうしているのを見ていたからだが、心なしか目が冴えたような気がした。



「なんだ、観念して出てきたかと思ったらあんたの方かよ、Lady.
残念だがお呼びじゃねぇな。真田幸村はどこだ?早いとこ出してもらおうか」

「今、この上田を預かっているのはわたくしです。ご不満ですか?」



密偵から連絡が入ったのだろう、が姿を現してから政宗が乗り込んで来るまでそう長くは掛からなかった。
は柄を強く握りなおし、構えを取った。返事を待つまでもなく政宗は大層不満そうな表情をしており、ちっと舌打ちして「小十郎」とだけ言った。ただそれだけの言葉で従者には意図が伝わったらしい、小十郎は神妙な顔で頷いた。



「時間稼ぎならやめておけ、あんたじゃ大して足止めにゃならねぇ。
 もっとも、本気で自分が留守役だとでも思ってるんなら、なおさらお話にならねぇな」

「承知の上です」

「……聞く耳なし、ってか。困ったLadayだぜ」



鼻で笑い、政宗が一本だけ刀を抜く。
手加減しないとは言いつつも、六爪を抜くつもりもまた無いらしい。

と政宗は無言で向かい合った。片手を自由にぶらつかせたまま、構えをというほどの構えも取っていない政宗はひどく余裕そうだ。実力差が桁違いなのだから、当然なのだが。
突っ込んで行ってはいけない。躍起になってはいけない。は深呼吸をして、大きく踏み出した。


間は一瞬のうちに詰められて、穂先を下げるや否や掬い上げるように押し返される。
は握りを返して柄尻を押し出すが、政宗は軽い身のこなしで一歩分引いており、手応えといえば胴に掠ったらしきこつりとした音くらいだった。

隙の生まれた横っ腹を狙い、今度は向こうが剣先を突き出して来る。は身体を斜めにして、転がるようにしてそれを避けた。


刃同士がぶつかるような金属音とはまた違った、がつんごつんと鈍い音が幾度か響いた。
造作なく向けられたような刀を受けた時でさえ、向こうは片手であるのには手の平がびりっと痺れた程の力だった。

徐々に息が上がって来たのが自分でも分かる。
しっかり締めたつもりの帯紐の結び目が緩み、纏め上げた袖がもたついてきたのも、背中にじわりと汗が滲んできたのも、目の前の相手からの威圧感なのか何なのか全てが心地悪い。



「そろそろ諦めた方がいいんじゃねぇか?」

「諦めたら兵を引くとでも仰るのですか?
 そんな道理はございませんでしょう?ですから、もう少し時間稼ぎを致します」

「つくづく面倒臭ぇ女だな、あんた。
 だが、嫌いじゃないぜ。女に生まれたのが勿体無ぇ度胸だ」



人相悪くにやりと笑い、政宗がまた踏み込んでくる。
弾いても流しても、その刃は上から下から自ら動いているかのように軌道を変えて迫ってくる。


幾度目かに攻撃を避けた後、政宗は振り回すようにして切っ先をの視界の横から突っ込んできた。これは避けられないと判断し、薙刀を立てて柄の部分で刃を受けるが、相手は瞬時に手首を返して反対側から再び大きく薙いだ。堪えきれず、の手から武器が離れる。

その場で倒れ込まんとする薙刀を遠くへ蹴飛ばすと、政宗は口笛を鳴らし耳慣れない言葉で何事か呟いた。これでは容易に取り戻せそうにない。
政宗は勝負はついたとでもいうような顔をして、の方へ腕を伸ばしてきた。だがはまだ「参りました」と言ってはいないし、幸村が戻ったというなら話は別だがそれも未だだ。

集めた民はみな裏山に逃げただろうか、あれだけの混雑だったからまだもう少し掛かるかもしれない。あと少し、せめてもう一閃だけでも、と、まるで命令のような声無き声がの頭の中で響いた。


咄嗟に、帯の間に挟んだ懐刀を取り出た。
自分の目線より少し上の高さにある、飛び出した弦月の端を狙い、鞘を抜く一瞬の間すら惜しみ、そのまま振り被る。

相変わらず余裕の表情を浮かべたままの政宗が目に入った。が、それとほぼ同時に足元を衝撃が襲い、は前のめりになって体勢を崩した。

「あっ」と声を上げようとしたところに、背中から重いものがずしりと圧し掛かり、喉からは声にならない空虚な音が零れた。先の一瞬で何事か起きて、いまやは腹這いになっているのだ。



「御無礼、大変申し訳無いが、奥方殿。戯れもそこまでにして頂きたい」

「片、倉……」



なんとか首を動かして背後を窺うと、傍観を決め込んでいたはずの政宗の腹心の姿があった。どうやらは彼に足払いを仕掛けられて転倒したらしい。

脚は付け根から固められ、体重を掛けた腕に腰のあたりから押さえ込まれている。とても逃げられそうにない。見下ろすように屈んだ政宗が、の指を開かせて懐刀を力尽くで奪い取った。



「Hey,不満そうな顔だな。なんで小十郎が出てくんのか、ってか?
 二対一はずるいだなんて言ってくれるなよ、遊びじゃねぇんなら、尚更な」

「…………別に、卑怯などとは申しませぬ」

「その割にはfunnyなふくれっ面じゃねぇか。
 残念だが俺は小十郎にしばらく様子を見させていただけだ。
 だがあんたが思ったより食いついてくるもんだからな、認められて良かったじゃねぇか」



そうは言っても、きっと対峙していたのが幸村だったなら政宗は「手を出すな」と言っていただろう。いくら自分が留守役だとが声を上げたって、幸村と同じように相対する腹積もりなど彼らには微塵も無かったのだ。だって、ただの時間稼ぎだと頭では分かっていたが、こうまで相手にされないというのは些か堪える。

政宗は一気に意気消沈したを観念したと捉えたらしく(あながち間違いでもないが)、腹心に目線を遣った。すると小十郎はどこから拾ってきたやら知れない短い荒縄での手首をごく緩く結んだ。



「さて、続きはうちの本陣で話そうぜ、Lady」















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馬を飛ばして上田の町へ入ってみれば、どうしたことか人の影が見当たらない。たまに気配を感じて振り返ってみれば伊達の家紋を背負った兵がうろついているという有様である。

一体上田はどうしてしまったのか。
店という店は商っている様子もなし、家々は固く戸を閉ざし、水路はいつもより流れが速い。馬上から見える限りでは大手門すら閉まっているようだ。
いや、どうしたということではない。敵襲があったのだから人影が少ないのは不思議ではない。ただ人っ子一人の姿もないのが不自然なのだ。

先に町を見回ってきたのだろう、忍装束がひとつ幸村の背後にふっと現れ、すぐに消えた。今度は佐助が幸村の背後に姿を見せて言う。



「大将、城に戻ろう。町の人間も含めて大勢が裏山に避難してるらしい。
 確かあそこには、本丸裏に入れる獣道があったはずだ」

「分かった。あの道を大人数では行かれまい、供はお前だけで良い。
 後の者は正面に回ってくれ。………それで、は」

「狭い間道にごった返してるもんだから、すぐには見つけられなかったってさ。
 危ないことしてなけりゃ良いけど…避難の指示出したのも奥方殿だって話だし…」



もしかすると、もしかするかも。佐助はふざけた口調で言ったが、強張った声色がその裏にあるものを窺わせる。幸村はもう一度「分かった」と答えて、馬の鼻先を茶屋の横道に向けた。その横道の奥には大岩があり、それを乗り越えると山中へ続く細い道があるのだ。







馬を降りて山中を進み、額に汗が滲み始めた頃、幸村様!と興奮気味の声が山中に響いた。顔を上げてみれば、手拭いを額に巻き、野良道具をあたかも武器かのように携えた初老の男が立っている。見張り役なのだろう。ということは、目当ての場所までもうすぐということだ。



「遅くなってすまない、大事無いか。町の皆もこの奥に居るのだな」

「へい、あの、弐之姫さまが中に入れって仰って下さいまして。
 若いのはお侍様と残っておるんですが、そうでないのはお城からこっちへ通して下さいまして…」



幸村はまた「分かった」とだけ言って男に頷くと、再び足を動かした。
いくらも登らないうちに随分と視界の開けた場所に出て、そこには話に聞いていた通り大勢の女子供が集っていた。女達は疲れ切った様子で言葉少ない様子だが、子供たちは誰が置いたとも知れない狸の置物に登ったりしていて元気そうだ。

先程と同じように「幸村様!」と上ずった声がしたかと思うと、視線が一斉にこちらを向いた。
一瞬だけ場が静まり返った後、あちこちから幸村の名を呼ぶ声が上がった。狸から降りた子供たちは遠慮なく幸村を取り囲んで、久しぶりだの腹が減っただのいつ帰ってきただのと銘銘好き勝手な事を言っている。その子供らの母らしき者たちがしきり申し訳なさそうに頭を下げているのを見回して、手前にも奥にも探している顔が見えないことに気付いた。



「……これで、皆か?は…」

「あのう…わたしらは真っ直ぐ裏へ通されたんで、お城の中のことは……
 こっちではお女中さんもお見かけしませんし、どこか別の所にお隠れなんじゃないかと…」



思わず落胆した声で呟いた幸村に、赤ん坊を抱いた母親がおずおずと返事をした。
それもそうかもしれないと半ば無理に納得させるように言い聞かせて、嫌な考えを払うように頭を振る。ともかく城を取り戻さねばと切り替わり始めていた思考に、「ひめさま?」と幼い声が割り込んで来た。ふと下を見ると、いかにもやんちゃそうな童が一人、奥の道を指差していた。



「ひめさま、見たよ!あのね、さっきこっち、こっちでね、いっぱい動いてたから見てた!
 前にあったことあるからおぼえてるよ、あれ、ひめさまでしょ?」



その少年に手を引かれ、更に奥の道を少し登る。そこからは城の敷地内の様子がよく見渡せた。
ほらあそこ、と短い指が示す方へ目を凝らす。大手門にほど近い櫓のひとつ、例によって青い軍旗によって区切られた帷幕があった。騎馬兵が周囲をぐるりと取り囲み、一番奥には床机が置かれている。

それに腰掛けている人影はひとつ。青色の陣羽織に、幾つもの鞘を挿した輪郭といえば思い当たる人物は一人しか居ない。だとすればその傍らに控えているのが彼の腹心、そして彼の目の前で大人しく座っているのが――


「あちゃー…」と佐助が情けない声を上げるのに構わず、幸村はとにかく走って目当ての場所である崖っぷちまで辿り着くと、無心で飛び降りた。こんな事なら、本陣があそこにあったのなら、正面に回っていれば良かった。
だが後悔先に立たずと言うもので、が伊達の本陣に居ることは動かしようもない現実なのだった。




















上田城水攻戦(3伊達)
上田城攻竜戦(3幸村/宴佐助)