「一応聞くけど、どこ行くつもり?そんで何するつもり?」 「だ!!それ以外にあるか!」 頭の中で描いていた通り、幸村は通常の戦時であれば本陣として使っているはずの場所に着地した。そしてその次の瞬間から駆け出そうとするのを、目の前に滑空してきた佐助に阻まれた。 呆れを含んだいっそ冷たいまでの視線と言葉を向けられるのに対し、幸村は噛み付くような口調で返した。 「……ま、そうだよな…分かってたけどさ、どうしてあんたはそうなんだよ。 あんた大将だろ、ならどうして大局を掴もうとしない? どうして、国の主として城を取り戻すって言ってくれないんだよ」 「城は直さば直る!だがは、」 目を細め、なおも食い下がる幸村を眺めていた佐助が、不意に手を上げた。 ぱしん!と軽く乾いた音がして、幸村の声が止まる。 「じゃあ直してみろよ、ぶち壊された城も、流されちまった水も、あんたの手で! なんで、あんたの為に戦って身体刎ねられた民の顔が見えないんだよ。 あんたそんなんじゃ無かっただろ?――もう、頭が冷えるまで出てくんな。邪魔だ」 そう吐き捨てると、佐助は瞬く間に影と消えた。 幸村は呆然と頬を押さえたまま、耳の中で響く声に唇を噛んだ。叩かれた部分は驚くほど痛くなかったが、驚くほど彼の頭の芯を揺さぶっていた。 分かっている。何処が敵の手に落ちていて、此方はどのくらい戦力が残っているのか、把握しなければいけないと。単騎で敵本陣に突っ込む間に、この城やこの町を手遅れになるほど破壊されては元も子も無いと。 それでも、所在無く座り込んだあの小さな後姿が、瞼の裏から離れないのだ。 ◎ ◎ ◎ 「――で、真田幸村はどこ行ったって?」 「直に戻りますから、左様にご心配なさらずとも結構です」 「心配?そんな気色悪い言葉聞かすんじゃねぇよ。 俺は、国がこんな状態だってのにのこのこ出掛けて行く奴の頭の悪さを嘆いてんだ」 そりゃそうだ、とでも思う。 しきりに腕を組み替え、脚を組み替える政宗は相当苛ついているようだ。 時折、黒い衣装で全身を包んだ忍が現れて小十郎に何事か報告して去っていくが、すぐに小十郎から政宗へ伝えられる話はほとんど無く、それもまた政宗は面白くないのだろう。耳に入れる程の用件ではなかったというのは承知の上でもだ。 「……ああ、退屈だ。詰まらねえ。 あんたは何か無いのか、最近の都流行りの曲だのは」 「そう仰られましても……」 「そうかい。まあ、思い出したらいつでも舞い始めて構わねえんだぜ。 そのためにそんな結びにしてあるんだ。笛も居ることだし、なぁ?」 にやにやした政宗が視線を遣るが、腹心は目を伏せていて、真面目に取り合うつもりは無いらしい。 彼らの意識の何割かは、どうやら門の外に向いているように見受けられた。耳を澄ませば何やらざわついていることくらいならにも分かる。 急ごしらえの本陣である此処は実は大手門にほど近く、幸村が軍を連れて戻ってきたならすぐに聞きつけられる場所なのだが、このざわついた空気が果たしてそうであるかは定かでない。 は視線を下げて、膝の上に揃えて置いた両手を眺めた。 古びた縄で結わえられてはいるのだが、“縛っている”というよりは“なんとなく引っ掛けてみた”という方が正しいような状態だった。表面が粗く毛羽立ってちくちくすることを除けば別段不自由もない。少し重いが、二、三度腕を振ればすっぽり抜けるだろう。けれど、縄抜けしたところで大した意味はない。 門の向こうから聞こえる喧騒は意識しなくとも耳に届く程になってきた。 大手門側とは反対の、本丸の方からも声が迫っている。 「……ようやくお出ましか」 「いえ、これは――」 腰掛けから立ち上がる政宗を制し、小十郎がゆっくりと刀を抜いた。 と同時に、本丸側の門が勢いよく開く。 「――いやあ、どうもどうも、うちの奥様がお世話になったみたいで。 という訳で、さっさと返せ。今すぐ返せ。でないと、さすがの俺様も怒っちゃうかもな」 「……いやに不機嫌だな、猿飛。真田はどうした」 「へそ曲げさせた張本人たちに言われたかないね。 それに、大将には大将なりの役割ってもんがあるだろ?」 入ってきたのは佐助だった。しかも、相当腹を立てているようだ。小十郎とのやりとりを聞いているだけなのに、は背筋にぴりっとしたものが走ったような気がした。 そんな様子を察してか、政宗は「下がってろ」と声量を落として言った。大人しく従うことにして、は座ったまま一歩分後ろに下がり佐助たちと距離を開けた。 腹心二人のにらみ合いは早くも獲物の打ち合いになっていた。 佐助は大型の手裏剣を振り回しながら巧みに姿勢を変えて切りつける。小十郎はそれらを堅実に確実に受け流し、素早く反撃する。 相性がいい、というのは敵同士に用いる言葉ではないかもしれないが、二人の流れるような動きは剣舞と言っても大袈裟ではないように見えた。これが佐助と政宗や幸村と小十郎、ましてや幸村と政宗の組み合わせだったならここまで流麗ではなかっただろうとも思う。 思わず見入ってしまっていたを傍らに、今度は政宗が刀を抜いた。一本ではなく、六本全てだ。 視界の横にそれが映り、佐助に注意しようかとは口を開きかけたが、政宗の視線が佐助たちとは違う方を向いていることに気付いた。つい先ほど佐助が入ってきたのとも違う、もう一方の門を見ているのだ。 も同じ方向に目を向けてみたが、別段変わった様子はない。何を見ているのだろうかともう一度政宗を見上げると、笑みを隠し切れない様子の彼の顔があった。その目が、を捕えた時とも違う色で輝いている。 そうか幸村が近くまで来ているのかと、不意に納得した。 その予感めいたものは合っていたようで、それから間も無く、嫌というほど聞き覚えのある「うおおおあああ!!」という地鳴りのような雄たけびを上げながら、赤い鎧が門を蹴破って飛び込んできた。 「案外遅かったな、真田幸村。待ちくたびれたぜ」 「伊達政宗!!」 幸村は槍の先を政宗に向け、大声で叫んだ。その奥にが居ることなど、気付いてさえいないように見えた。 政宗は嬉々とした様子で六爪を構えたまま走り出す。目指す先はもちろん幸村だ。 正真正銘刀のぶつかるきんきんと甲高い音が耳の奥を震わせる。 向こうでは佐助と小十郎が、此方では幸村と政宗が、それぞれ殺気だとか気迫めいたものを隠そうともせず戦っている。怖くて恐ろしくて、けれどどこか憧れのようなものもあって、は身を竦ませながらそれらを見つめた。 幸村が槍を無数に突き出す。政宗はそれを避け切ってから爪を振りかぶる。 影に潜った佐助が背後を出し抜き手裏剣を放る。小十郎は形振り構わず蹴りで阻む。 攻守が目まぐるしく入れ替わる中、は政宗の切先が幸村の横っ腹を掠っていったのを見た。鋭い銀色が今にも刺さりそうで、そうでなければ抉り取られそうで、思わず目を瞑ってしまった。 幸村は一瞬息を呑んだが、それ以上のことは無かった。は恐る恐る目を開け、変わらず戦い続ける男たちが見えたことに少し胸を撫で下ろした。だがそれも、石畳に落ちた血が見えたことでまた苦しくなる。 やっぱり、やめておけば良かったのかもしれない。 がしたことは、城下で暮らす大勢を思えば間違ってはいない行動だったかもしれないが、そのためにこの国で今一番失ってはいけないただ一人を危険に晒すことになった。一滴だって流させてはいけない血が、自分のせいで零れている。 は背中が柵にぶつかるまで後退り、そのまま座り込んでひたすら身を小さくした。 戦を舐めていたわけではないが、ただ今はもうひたすらに恐ろしい。あの場に身を置くとはどういう事なのか、それを全て指揮する立場というのがどれ程の重責なのか、想像しただけで頭が痛くなった。 しばらくそのまま斬り合いが続いて。あ、と声を上げたのは誰だったか。 反射的に顔を上げたは、頭から胸へかけて猛烈な勢いに襲われた。誰かの技の勢いで荷車がばらばらになり、その車輪が見張り櫓まで吹っ飛び、それがどうにか因果して、水門が開いたのだ。そしてそれが、真下にいたに降りかかった。 年季の入った柵はめきめきと音を立てて崩壊し、は鉄砲水の勢いに押し倒されるように柵の残骸の向こう側へ、つまり、堀の方へ落ちていった。 重い。冷たい。 自分が立っているのか座っているのかも分からず、思うように息を吸うのも吐くのも出来ず、轟々とした音以外は何も聞こえず、頭の中は真っ白だった。 幸村も、その場にいた誰も、何が起きたのか瞬時には理解できなかったようだ。 槍を放り出しての腕を引っ張り寄せることも、任せたと佐助に指示を出すことも、どちらも出来なかった。あまりに一瞬の出来事だった。 水を掻く微かな音がして、幸村は我に返った。 目の前で同じように呆気に取られていた政宗を押し退け、の落ちた所の近くまで駆け寄る。 「旦那、」 追いかけて来た佐助が引き留めようとするのを振り払い、ついでに槍を押し付けた。の頭は浮いたり沈んだりを繰り返している。幸村は淵に手を掛け、そのまま身体を滑らせるようにして堀に飛び込んだ。 ばしゃん!と小振りの水柱を立てて着水する。堀の底に足をつけると、水は幸村の喉元の高さにあった。伊達軍によって水門が解放されていたために、水かさが常時より低くなっているのだ。ある意味幸運ともいえるが、にはこれでもまだ深いのだろう。 幸村から少し離れた所にあるの身体はやはり浮き沈みを繰り返していた。流れに翻弄されるのに加え、じっとり濡れた縄や紐が身体に纏わりつき、思うように姿勢を保てないでいるらしい。 歩こうと思えば出来ないこともなさそうだが、流れの強さから判断して潜って近付く方が良さそうだ。 大きく息を吸い込み、幸村は水中に身を沈めた。目の前が一気にくすんだ色に染まる。頭上から差し込む光が揺らめいて、どこかで見たような、感じたような焦燥感を覚えた。 積み上げた石で囲まれた灰色の視界に一筋、鮮やかな色の袖が上下に漂っている。 時折流れてくる板切れを払い除ける程度で、に追い付くのはそれほど困難ではなかった。が精一杯背筋を伸ばして水面から顔を上げるのを見計らって、再び姿勢を崩す前に背後から腕を回して抱え込む。 此方に気付く余裕も無かったらしくは一瞬驚いたように身体を震わせたが、幸村はその間にの腕に絡まった重たい縄を引き抜き水の中に捨てた。 「…、」 「――ご、ごめん!…ごめんなさい……」 もう大丈夫だと安心させようとした言葉は、顔を見るなり発せられたの声に阻まれた。 苦しそうに咳込みながらは何度も「ごめんなさい」と謝るが、幸村は何と返して良いかよく分からなかった。枷が外れようやく自由になった腕には赤い跡がついている。 ひとまずは堀から上がることにして幸村はゆっくりと足を進めた。 は大人しく抱えられ、しがみつく様にその腕を彼の首に回している。 時々が咽込む他は特に言葉を交わすこともないまま、水はあっという間に浅くなった。 階段を登って堀から完全に上がりを地面に下ろすと、幸村は眉を顰め近くにあった門の向こうを睨んだ。 「政宗殿」 「………………」 馬に跨った政宗は此方を一瞥し、不満そうに息を吐いてから背を向けた。それに続き、伊達軍の面々が撤収して行く。 門の上で佐助が睨んでいるせいか、ある程度の人数が引き上げるまでに時間は掛からなかった。 敵が退いたと見るや、すぐに城の中から女中たちが飛び出して来てわあわあ言いながらを取り囲んだ。 怪我が無かったから良かったものの一体何を考えて云々と涙ながらに叱られれば、幸村が改めて言い含める必要もないだろう。それに幸村は幸村で、叱責されに行かなければならないのだ。 駆け寄ってきた若い兵に後を任せ、幸村は佐助の方へ歩き出した。 背後から物言いたげなの視線が突き刺さるが、今はうまく喋れそうにない。 ――そうだ、あの夢だ。 歩きながら思い出したのは、近頃幸村の元に毎晩訪れる、あの薄暗い夢。 を追って飛び込んだ時のあの焦燥感、あれはあの夢の中で感じるもどかしさと似ていた。 その夢の中でも幸村は水の中にいて、思うように動かない身体をじたばたさせながら何か出口のようなものを探していた。滲んだ光が遥か頭上にあって、そこに到れば天啓が示されるような、救われるような気さえするのに、一向に辿り着けない、あの夢。 夢と違っていたのは、灰色の景色の中に流れる、鮮やかな色の筋。 その光景があまりに強く脳裏に焼きついて、あれを手放してはいけないと、見失ってはいけないと幸村の耳の中で囁いているようだった。
上田城攻竜戦(3幸村/宴佐助) |