そもそも始まりが偽りのようなものだった。 わたしが5歳で、彼が7歳で、彼の兄が8歳の時のこと。わたしと彼は婚約した。話によればわたしの家と彼の家は遠い遠い昔にもこうした姻戚関係を結んでいたらしい。純血の一族も少なくなり、近親相姦も止むを得ないという有様であったので、この婚約もそれほど不思議なことではない。 彼の家に比べ、わたしの家はたいそう小さかった。彼の家が大きすぎたとも言える。そんな小さな家の一人娘であるわたしがどうして彼と婚約できたのかというと、彼が次男だったからだ。彼にはひとつ年上の兄が居た。 彼ら兄弟はよく似ていた。まっくろな髪に、切れ長の瞼に挟まれた灰色の瞳。そろって美しい鼻梁と涼しげな口許。生きた人形なのではないかと思うほど、彼ら兄弟は美しかった。社交界の花形だった。 あいさつしなさいと父に言われ、ぎこちなくお辞儀をしたのを覚えている。愉快そうで、けれど不満そうにわたしをジロジロ見ていたのは彼の兄で、彼はほとんど無表情だったのもはっきりと覚えている。 「レグルス・ブラックです」彼は言った。「それで、こっちが兄のシリウス」 シリウスは少しばかにしたように言う。 「おいレグルス、飽きたら代わってやってもいいぞ」 彼はつまらなさそうに兄を見た。 「兄さんにはつりあわないって母上が言ってたけど」 「はあ?別にほんとに結婚するつもりなわきゃねーだろ」 (ああ、わたし、いまばかにされてるんだ)わたしは5歳にして上下関係の厳しさを知った。そこで彼はどうしたかというと、わたしをジッと見つめたのだった。 「ごめん」彼が言う。「兄さんの言うこと、気にしないでいいから」 わたしは黙って頷いた。シリウスに睨まれたのがわかった。それと同時に、わたしの中で彼に対する好感というものが芽生えたことも。 政略結婚だった。それはわかっている。わたしの家は凋落寸前だったから、なんとかしてブラック家の栄光にあやかろうとしたのだ。だけどそれでも、レグルス・ブラックという名前はわたしにとって特別な響きを持つ。 彼の家が催すパーティーには残らず出席した。わたしはその度に新しいドレスを仕立ててもらい、髪を結い、子供ながらにほんのちょっとお化粧をして、彼の隣に立つ。彼はまっくろい髪を綺麗に揃え、しゃっきりした白いシャツを着て、解るか解らないか程度の微笑みを浮かべながら、わたしの腕を取る。 両親は期待を込めてわたしたちを見ていた。どうかわたしと彼が愛しあうようになりますように、愛のない政略結婚に終わりませんように、そしてこの婚約で家に栄光が戻りますように。 彼は子供用の甘い炭酸水のグラスを取ってくれた。あまり早くないテンポの音楽のときには、わたしに合わせて踊ってくれた。ときどき花をくれた。中庭で育てているのだという、薄いピンクのチューリップを3本ほどリボンで結んだ、簡素な花束だった。 レグルス・ブラック。時が経つほど、その存在がわたしの中で大きくなっていく。 レグルスというのはしし座のアルファ星だ。意味は『小さな王』。彼の兄であるシリウスはおおいぬ座のアルファ星で、意味は『光り輝くもの』または『焼き焦がすもの』。太陽を除けば、地球から確認できるもっとも明るい星であるらしい。 彼はその名の通り、小さな王だった。すぐ傍で輝く天狼に眩み、ほとんどの人はそちらに目を向けてしまう。頭の回転の速さも、顔の整い具合も、なにもかも彼より兄のほうが勝っていた。けれどわたしは彼が劣っていたとは思わない。だって彼はわたしにとって、本当の意味で小さな王だったのだから。 彼はわたしに優しかった。口下手で、不器用で、少し無愛想で、それでも彼は優しかった。そこは彼の兄とは比べ物にならない。わたしはいつもシリウスにばかにされていたからだ。 なぜシリウスがわたしをそういう風に扱うかと言えば、弟が大事だから、だったのだと思う。シリウスは自分の家の精神性を嫌っていた。排他的で、傲慢だと言っていた。そんなブラック家に取り入ろうとする家の奴なんて碌な人間じゃない。つまりはそういうこと。 それは言いすぎだ、と彼は兄に言った。スリザリンの家系なら、それを誇るのは当たり前だ、と。シリウスは弟のそういうところが嫌いだったのだろう。ちょっとした口論のあとは、軽蔑したような視線をわたしと彼に投げつけ、大きな音を立ててドアを閉めて出て行った。 正直に言うと、わたしには純血とかスリザリンの家系とかそういうことはどうでもよかった。ただレグルスのことが好きだった。純血とかスリザリンとかそういうことは全部レグルス個人のおまけとしてくっついているのであって、まずはレグルスその人ありきだったのだ。彼もそう思っていてくれたのだろうか?今ではもう、直接それを聞くことはできない。 わたしたちが婚約して、3年経った。わたしが8歳で、彼が10歳で、彼の兄が11歳。そのとき、今までのバランスが崩れた。 わたしがロンドンの彼の家にお邪魔していたときだった。彼の兄のもとに、ホグワーツから入学許可証が届いた。シリウスは魔法使いとしての素養を十分に備えていた。きっと優秀な魔法使いになるだろう、ホグワーツでも主席になれるだろう、パーティのたびにそう誉めそやされていたので、入学許可が届いたこと自体は問題ではない。 8月31日、シリウスの行ってらっしゃいパーティが開かれた。不機嫌そうな顔で、来訪者をひとりひとり睨みつけながら、シリウスは主役の椅子に座っていた。誰もが言った。必ずスリザリンに組み分けられるのだぞ、何があってもグリフィンドールにだけは入るんじゃないぞ、と。 わたしと彼は知っていた。シリウスが本当はスリザリンに入りたくないのだということを。本当はグリフィンドールに入りたいのだということを。そして恐らく、それが不可能だろうということも。 人柄としてはグリフィンドールに当てはまるかもしれないような人だった。正義感が強く、まっすぐな人だった。わたしも彼も、そんな強いシリウスが好きだった。だけど血統の呪いはもっと強い。11歳のこどもなんかよりずっと、その呪いは強烈なのだ。わたしと彼と彼の兄はそれを知っていた。それでも諦めていないのは、ひとりだけだった。 ねえシリウスがグリフィンドールだったらどうする?わたしは彼に聞いた。彼はすぐに答えなかった。じっと俯いて、必死に頭を働かせて、さまざまな場合をシミュレーションしていたのだろう。 「その時は」彼がぽつりとこぼす。 「その時は、兄さんじゃなくなってしまうかもしれない」 果たして11歳のこどもは古くから続く一族の呪縛を振り切ったのだった。9月1日深夜、その報せはブラック家に舞い込み、そして魔法界をも震撼させた。 シリウスがグリフィンドールに組み分けられた。代々続く名家の長男が、スリザリンを拒絶した。いや拒絶したのではない、もとよりその資格がなかったのだ。思い返してもみろ、あのこどもはいつも奥方様と口論していたではないか! 口ではなんとでも言える。人々はこぞってシリウスのことを噂した。これまでシリウスを天才児だのなんだのと祭り上げていた大人たちは、みんなシリウスの悪口を言うようになった。 9月3日。わたしがブラック家を訪れると、悲しそうな顔のレグルスが居た。階下からは、おばさまとおじさまの怒鳴りあう声が聞こえてきた。彼は背後からわたしの耳を塞いだ。聞かないほうがいいよ。わたしは彼の手を自分の手で包んだ。どうして、とは、聞けなかった。彼の手は温かかった。 シリウスはグリフィンドールに組み分けられたことでもっともっと強い人になっていた。クリスマスのディナーで、むりやり帰省させられたシリウスは大きな声で啖呵をきった。(そんなに俺が気に入らなけりゃ勘当でもなんでもすればいい!純血だの、穢れた血だの、くだらねーことばっか言ってんじゃねーよ!) おじさまはシリウスを殴った。鈍い音がして、シリウスの身体がふっ飛ばされた。レグルスはわたしの手を引いてダイニングルームを出た。ちらりと見えたシリウスの瞳はそれでも輝いていた。彼の名前のように。焼き焦がすように。 わたしたちは客間に行った。食堂からはおじさまの声が聞こえていた。ソファに座り、黙って手を握り合った。クリーチャーが灯りをつけるか聞いてきたけれど、彼は首を横に振るだけで応えた。 「泣いてるの?」わたしは聞いた。 「泣いてないよ」彼が言った。 声は震えていた。握る手の力が強くなった。少し痛かったけど、何も言わなかった。わたしの小さな王は、1年後、兄と同じ学校へ通う。 ブラック家はシリウスのことを『無かったこと』にするつもりらしい。明言したわけではないのに、それは誰しもが知っていた。そうなると跡取りは次男のレグルスの役割になり、そうなると弱小な家の許婚なんてものは邪魔になった。 もともと、釣り合うはずがなかったのだ。魔法界で最も古くて最も貴い一族と、その遠い遠い親戚である一族、だなんて。 そもそも始まりが偽りだった。わたしは家名を上げる道具だったし、レグルスは家を継ぐはずのない次男だった。誰に言われたわけでもないのに、わたしたちはそれを知っていた。 婚約破棄は免れないと覚悟していたのは両親だけではなくわたしもだ。そうなればきっと、これから先レグルスに会うことも出来なくなるのだろう。彼が他の名家から綺麗なお嫁さんをもらうのを、指をくわえて見守るのだろう。そしてわたしは、彼ではない、どこか別の、家と釣り合う程度の一族の誰かと、結婚するのだろう。 悲しかった。こんなに好きなのに、レグルスと離れなければならない。まだわたしがどこに組み分けられるかもわからないのに、まだレグルスがどこに組み分けられるかも決定していないのに、わたしは不適格の烙印を押されるのだ。 めそめそ泣くわたしの頭を、レグルスは撫でてくれた。それはわたしの家のわたしの部屋で、窓の外には茜色が混じり始めたころだった。客間ではおじさまとおばさまとわたしの両親が話をしている。冗談半分、慈善事業のつもりで取り決めた婚約がブラック家の首を絞めていた。おじさまたちが帰ったら、わたしはひとりになるのだろう。 しかしここでレグルスはわたしの手を引いて立ち上がった。彼はもう黙って静観しているだけのお飾りではなかった。階段を下りて、客間の扉を開ける。 「レグルス!」おじさまが驚いたように言う。 「父上」彼が静かな声で言う。 「父上、僕はと離れたくありません。と一緒に居たいです。僕は、」 そこで一旦言葉を切る。わたしはなるべく声を立てないようにすすり泣く。 「僕はが、好きです」 わたしたちはそのまま許婚でいることを許された。ただし条件が、わたしがスリザリンに入ることだ。おじさまはレグルスの寮については何も言わなかった。言うのが怖かったのだろう。長男に続いて次男までもが祖先を裏切るなんて、考えたくもなかったのだろう。 それでもよかった。両親は首の皮一枚で繋がったブラック家との繋がりを喜んだ。わたしと彼は、家のことはさておき、お互いに一緒に居られることを喜んだ。どっちが正しいかというのは判断に用いる基準に依るものだ。 そしてディナーも済み、彼ら一家が帰る時間になった。最後に中庭を散歩した。彼の家のものほど立派じゃないので、そこに立つたびに恥ずかしさとみっともなさでいつもわたしは逃げ出したくなる。しかし握り合った手がそれを許さない。冷たい夜風と、あつい手。薄いピンクのイングリッシュローズ、アンヌ・ボレインの花壇を通り過ぎたとき、彼は足を止めた。 「」彼の透き通った声。 「僕のこと、好き?」 「うん」わたしは言う。 「わたしも、レグのこと、好き」 頬に添えられた手に誘われて顔を上げると、綺麗に整った彼の顔がいつもより近くにあった。眼を閉じる。唇にあたたかい軽い感触。少し俯き気味の薔薇が、わたしたちを見下ろしていた。 01 02 03 ⇒ α β |